最後の浮上
「にしても、カリンはラーメン好きなんだ? 今更だけど」
話題転換も兼ねて、彼女の前で空っぽになっている器を見つめつつ尋ねてみる。
「カナダにいた頃ラーメンが好きだったとかでもないんだろ?」
「はい、そうですわね………………本当に覚えていないのですか? 葉瑠」
「……?」
なんだ? この意味深な問い掛けは。カリンとラーメンに関わるエピソードなんて、まったく心当たりが……。
「あの子は、貴方が居ない時によく練習しておりましたわよ。貴方にも、一度だけ話をしたと思います」
カリンの言う“あの子”というのは、十中八九…………ってことはつまり……。
──そうそう、あたし今ラーメンに凝っているの
「……あっ!!!!」
ハッとして思わずデカい声を上げてしまい、慌てて口を押さえた。
あれは、そう……まだ彼女が随分調子が良かった頃のことだ。自転車をプレゼントしたはいいが彼女は乗れなくて、俺と二人で公園で一緒に練習していて……ああそうだ、確かにラーメンに凝っている話を聞いた。満足いく出来になれば俺に食べさせてくれるとも。
「言ってたなぁそういえば。あの時以来全く話題に出てこなかったから、うっかりしてたよ」
「葉瑠ったらもう。困った人ですわね」
そう言ってはにかんだカリンは、空っぽの器に視線を落としてきゅっと唇を結ぶ。
「…………わたくしはね、葉瑠とお話できて本当に嬉しいですわ。こうしている今でも夢を見ているんじゃないかと、信じられないくらいです」
「もちろん、俺も同じ気持ちだよ」
微笑みながら大きく頷くと、カリンは緩慢に顔を上げて淑やかに笑った。
「葉瑠。あの子よりも、わたくしと話す方が楽しかったですわね?」
…………これは、どういう意図の質問だ?
「優劣なんてつけるもんじゃねーだろ、どっちと話しても楽しいし」
「嘘、ですわね」
恬淡とした口調のまま。
穏やかな笑みを湛えたまま、完全に言い切られる。
流石に共感しかねる主張に、俺は内心激しく動揺しつつ必死に笑顔を作った。
「ど、どういうこと?」
「わたくし、これでもスーパーメイドですので。感情の機微には人一倍敏感なのですわ」
……分からない。カリンはどういう答えを求めている……?
自分との会話の方が面白い、と言って欲しいのか? いや、だとしても理由が謎だし、前後の会話の繋がりが……。
「貴方は、あの子と会話するのが億劫だったでしょう?」
──その問い掛けは、俺の薄っぺらい思案を一瞬で破壊した。
そしてすぐさま湧き上がるこの感情は、驚愕でも怒りでもなく。
「……そんな、ことは」
後ろめたさ。それに尽きる。
「もちろん、責めているわけじゃありませんわ。わたくしに貴方を責める権利なんて、これっぽっちもありませんので」
どこまでも安穏とした声色が、決して虚言ではないことを示していた。カリンは一貫して全てを包み込むような聖母の如き精神性の持ち主だ。最初の出逢いから今この瞬間まで、それは全く変わらない。正真正銘の正当な神使になれる素質を持っていただけのことはある。
しかし、だとすれば、何故。
「葉瑠、わたくしが伝えたいことはこれだけですわ」
カリンは、音もなく息を吸い込んで。
「今度こそ、あの子ともっと話をしてあげてくださいね」
……今度こそ、ときたか。
「貴方にとっては、わたくしよりもあの子との方が全然付き合いが長いでしょう? それでも、もうわたくしに逆転されてしまっている。貴方にその気はないかもしれませんけれど、わたくしはそう確信している…………酷な話です、あの子には」
そういう……話か。ようやく全て呑み込めた。
であれば、隠し立ては無意味だ。カリンには……ずっと“彼女”と共にいたカリンには、隠しようがないことだろう。
俺も、本音で応えなければ。
「あいつには、凄く凄く、気を遣いながら接してきた」
「はい、存じておりますわ」
「俺なりに色々考えての対応ではあったけど……結果は知っての通りだ」
「それは貴方のせいではありません。けれど、わたくしが求めるのは“ここから”ですわ」
「ああ、分かってる」
どんな戯言でも全部包み込んでくれそうな表情で、悠然と俺を見据えている透明な瞳。
彼女の期待と、“彼女”の心に応えたい──本心からそう思う。
「上手く話せるかは分からないけど」
「はい」
「もう手遅れかもしれないけれど」
「ええ」
「それでも、億劫なんて言ってられないし、言っちゃいけないんだよな」
「いえ、それは違いますわ」
自分自身の気持ちを整理する意味でも実際に出力してみたが、間髪入れずに否定されてしまう。とはいえ、カリンに口答えする気はまるで起きない。
「違うのか」
「はい。むしろ、そういう思考が貴方を苦しめる要因の一部だったかと」
「……どういうこと?」
カリンは、もはや慈愛というよりも同情に近い眼差しで俺を見ていた。どうしてそんなことが分からないのかと、哀れんでいるような目だ。
「言ってられない、とか。言っちゃいけない、ですとか。貴方の場合、あの子を家族だという認識を持っていながら、あまりにも気を遣いすぎていた……と、わたくしは思います。繊細な気配りは貴方の長所でもあるので、中々難しいところですが……少なくとも、「気を遣う」ことと「腫れ物に触るように扱う」ことは似て非なるもの、と言ったところでしょうか」
「…………ああ。なんとなく分かった」
これまでになく胸にストンと落ちた気がする。
俺がやっていたのは、気遣いではなく、腫れ物に触るような振る舞い……か。
「もう少し、砕けた扱いでいいと思いますわ。それこそ、あの子が貴方にラーメンの話をしていた頃は……会話が億劫だなんて思ってなかったでしょう?」
「ああ、確かにそこまでじゃなかったと思う」
あの頃はまだ“気遣い”という範疇に収まっていたように思う。確かに少し異常は見られたが、当時の俺でも全然カバーできる程度で、基本的には幸せな日常を送れていた。
やはり、問題なのはそれ以後……。
俺はしばし瞑目し、そっと呟くように言葉を紡いだ。
「次の浮上が最後になるかもしれない、と言ってたよな」
カリンは一瞬だけ口をつぐむような仕草を見せたが、すぐに言葉の意味を理解して目を細めた。
「いえ、かもしれないではありません。改めて断言いたします──あの子の浮上は、次が確実に最後になる」
「それは、どうして?」
「もう、単純に……限界が来ているだけですわ」
これまで聴いたことがないほどに諦観した声だった。よもやカリンからこのような声が発せられるとは……。
「それでも、浮上自体は必ずしてくるはずです。“もう一人”と完全に入れ替わる為の必要手順ですから」
もう一人──最古の神プラニカ。奴がこの身体の主導権を握れば、こうしてカリンと話すことも出来なくなる。もちろん、大切なもう一人の家族とも……。
「思ったんだけど、次に浮上してきたそのタイミングで問題を解決してしまえば、主導権を奴に引き渡さないまま丸く収まるんじゃねーの」
「……さて、どうでしょう。そう簡単に上手くいくかどうか……」
かなり含みのある言い方だ。絶対に無理とまでは言わないがほぼ不可能……という感じだろうか、カリンの中では。
じっと眼前の華奢な身体を見つめる。
正直、この身体の構造というか事情というか……複雑怪奇と言う他ない。どうしても俺ではその仕組みを完璧に理解してやれない。
「早急に対策を練るよ。カリンの知恵も借りられたら、きっと……」
精一杯の笑顔を浮かべながら、カリンと目を合わせようと顔を上げ──瞬間、目を見張った。
……違う。
呼吸も忘れてひたすら瞠目するしかなかった。
だって。
だって、目の前に居たのは。
「……ハル」
紛れもなく“最後の浮上”を果たした、俺のもう一人の家族だったからだ……!




