幽玄より
カリンはゆったりと瞼を開き、嫋やかな光に満ちた瞳で俺を見据えた。
「これが、わたくしが死ぬほんの少し前までの経緯ですわ」
カリンがまだ人間だった頃の話……現代からおよそ一〇〇年前。彼女にとっては一万年以上前の話になる。
「ここまで聞いた限りだと、収容所送りも防げて万々歳に思えるけど……」
「ですわね。ただ……現実はそうはいかなかったようです」
困惑したように笑う彼女は、決まりきった終わりの瞬間を他人事のように呟いた。
「…………覚えてないのか」
「……葉瑠は鈍いのか鋭いのか、よく分からない人ですわね」
たはは、と隠し事がバレた子供のようにはにかむカリン。
……やっぱり、ここからなんだ。
きっと、ここからが全てを変えた。
「最期の日の記憶は、酷く曖昧です。何が起きたのか、何故そうなったのか……まるで濃霧に覆い隠されているよう。ただ、一万年経っても色褪せない、あの光景だけは覚えています」
「あの、光景……?」
カリンは大きく頷き、そして、一瞬だけ躊躇うような素振りを見せる。
しかし、それは本当に一瞬だけ。目線を下げながらも、彼女は透き通るような声色で滔々と述べた。
「思い出せるのは、冷たい床の感触とぐにゃぐにゃに歪んだ視界……その中で倒れ伏す旦那様と奥様の姿。そして──」
一拍、短く息を吸い込んで。
「──ただ一人立ち尽くす、エヴァお嬢様の後ろ姿ですわ」
ぞわりと全身総毛立つ。
エヴァ・モア・ハート──もはや疑う余地もない、大悪魔シャルミヌート張本人だ。
そして、その彼女だけが。
地に伏す家族三人に背を向けていたのだとして。
「…………………………………………、」
即座に思考を重ねるも、自分なりの考えが纏まり切る前にすぐ打ち切った。
俺はミヌートのことが好きだが、元より彼女とは物事の考え方が大きく異なる。
その俺が当時の彼女の心情や行動原理を推し量ることは、メリットよりもデメリットの方が多いと感じた。「逃げ」というよりは「保険」に近い……いや、やはり「逃げ」になってしまうのだろうか?
「葉瑠、貴方は今のお嬢様と親密な関係を築いていたのですわよね」
「まぁ、そうだな……家族そのものだったカリンの前では烏滸がましいかもしれないけど」
「謙遜はよしてくださいまし」
彼女にしては珍しくぶっきらぼうな口調で咎められ、思わず目を見開く。ぶっきらぼうとは言っても、カリンにしては、だが。
「葉瑠とお嬢様が共に居るところを見たのはあの日あの夜の一度きりですが、一目で…………だってわたくし、お嬢様があんな顔してるところなんて……」
どうにも形容が難しい表情でかぶりを振ったカリンは、気を取り直したように小さく笑って見せる。
「いえ、話が逸れましたわね。わたくしが聞きたかったのは、お嬢様に対する貴方の見解です」
「見解……そうだなぁ……」
「神王様からのご啓示を頂きたく」
「茶化すなよ……」
悪戯っぽく、それでいて上品に微笑むカリン。それだけに先程のぶっきらぼうな言い方には驚かされたが、まぁとりあえず置いておこう。
「話を聞く限りだと、カリンが感じたミヌートへの違和感は悪魔化によるものと考えて間違いない」
大悪魔ミラと化した姉さんの姿を思い浮かべながらカリンの前で断言してみせる。
虹彩や髪色の変化に加え、日増しにキツくなる言動……悪魔化以外ではありえない。
……いや、言動のキツさに関してまで断言するのは浅慮かもしれないが……少なくとも、俺にはミヌートがそこまで厳しい物言いをする印象はない。悪魔化直後の不安定さから来るものだろう。
しかし、そうなると避けては通れない疑問が生まれることになる。
エヴァ・モア・ハートという人間は。
一体いつ、どのような理由で“シャルミヌート”への道を辿ることになったのか?
俺の知る限り、悪魔化には必ず「上位者からの介入」が発生する。
死の間際に悪魔への道を誘われた姉さんや、ミヌートの施しによって悪魔となったシルヴァニアンの事例からしても明らかだ。
ミヌート──エヴァも間違いなくそうだろう。上位者に唆された結果の悪魔化に違いはない……だがしかし、はっきり言って彼女には理由が無い。
戦時中という時代背景はあるがエヴァ自身は相当に恵まれた環境にあった。
家族は健在、金銭的な問題は皆無。姉さんのような燃え滾る信念も無ければ、シルヴァニアンのように故郷へ帰りたいという目的も無い。
「……カリン、エヴァの様子が変だと思ったのは突然だったんだよな?」
「ええ、本当に普通に話をしている最中でしたわ」
「……そっか。ごめん、その時には悪魔化してたってこと以外よく分からない。詳しいところは本人に聞いてみないとな」
「そうですわよね……ただ、察するにあの旅館に居た時と今とではまるで状況が違うのでしょう?」
うっ、と言葉に詰まる。流石に鋭いな……。
「……ああ、完全な敵対関係になってる。たとえ会ったとして聞けるかどうか……」
「わたくしも、何も葉瑠に迷惑をかけてまで聞きたいわけではありませんわ。決してご無理は……」
「うん、分かってる。ただしやれる範囲で最大限努力する」
次に彼女と会えば今度こそ本気の殺し合いになるだろう。だけどカリンのためと思えば、たとえ殺し合いの最中でも聞く価値はある。ミヌートが口を開いてくれるかは分からないが。
「うふふ……ありがとうございます、葉瑠。それでは頼らせていただきますわね」
「ああ、天下無敵のスーパーメイドに頼られることほど光栄なことはないよ」
「あら、葉瑠ったら」
くすくすと上品な笑い声を漏らすカリンの表情に、俺も自然と頬が緩んだ。
現実で言えばおよそ百年。
彼女にとっては一万年以上。
それでも彼女は此処に居る。此処に居て、目と鼻の先で笑っている。
「あぁ……俺、ほんと頑張って良かった」
「……? はい?」
おもむろに、声に出していた。碌に推敲することもなく、ごくごく自然な言葉として、反射的に。
「この前の戦いは凄く厳しかった。熱くて死にそうになりながら、それでもなんとか頑張れたのは……カリンの話が聞きたかったからなんだ」
「……葉瑠」
美しい瞳が麗しく瞬く。まるで透明な水面に映る天の川のようだと思った。
「……大層なお話でもなかったでしょう?」
「そんなことないし、そもそも大層かどうかさえ関係ないよ。俺はカリンの話が聞きたかっただけ」
「…………あははっ!」
一拍置いて、底抜けに明るい笑い声が響いた。これまでの上品なものとは異なる、少女のように無邪気な笑みに俺は目を見張った。
「なんか初めて見たかも、カリンがそんな風に笑ってるの」
「だって、うふふ、葉瑠がとってもヘンな人なんですもの! かなりおかしいですわよ貴方、あはははっ!」
「……不当に貶されてる気はするけど……ま、楽しそうだからいっか」
白い歯を見せて快活に笑う彼女を眺めながら、俺は頬杖を突いて肩の力を抜いた。
そういえば、以前ミヌートとも似たようなやり取りをした覚えがある。ずっと暮らしていた家族だけあって笑いのツボが似ているのかもしれない。
「はぁーあ、笑い疲れてしまいましたわ。我ながらはしたないところを……」
「ほんとだよ」
「うふふふ」
目尻に滲んだ涙を指先で拭いつつ、カリンはなおも可笑しそうに顔を綻ばせている。
笑われてる立場ではあるが、このカリンを見られるならむしろ得した気分だ。世のコメディアンが人を笑わせることに執心する気持ちが少しだけ分かった気がした。
「……お嬢様が羨ましい」
「え?」
唐突にポツリと呟いた声は、消え入るように小さくて。
しかし辛うじて聴けたとて、俺ではその意味を噛み砕くことができず首を傾げるしかなかった。
「いいえ、なんでもありませんわ」
ふわりと微笑むカリンの表情に、特段陰は無い。とはいえ、あまり詮索するのも得策ではない気がした。




