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Youthful World 〈c〉

 それは、とある日のこと。

 ロンドンの本邸より一通の手紙が届いた。

 ハート家の本邸は、旦那様が特に信頼を置くメイド(無論わたくしを除いての話です)が留守を預かっている。この手紙はそのメイドが旦那様へと宛てたものだった。


「手紙? アリス(本邸メイドの名前ですわ)から?」

「ええ」


 書斎で本を読んでおられた旦那様へ手紙を差し出すと、どういう訳か眉間に深い皺を寄せていた。


「読んだのか?」

「え、いえ……もちろん勝手に中身を見るような真似はしておりませんわ」

「……すまない、それはそうだな」


 旦那様は歯切れが悪そうに手紙を受け取り、宛名の筆跡をじっくりと確かめている。


「……確かにアリス本人からのものだな」

「……あの、旦那様。何故そこまで入念な確認を?」


 まるで手紙を読む前から内容に察しがついていて、そしてそれは決して好ましいものではないと分かっているような……?


「カリンは何も心配しなくていい」


 不安や疑念を押し殺し、ほぼ表情を変えずに佇んでいたわたくしに向けて、旦那様はやんわりと笑いかけてきた。長年共に暮らしているだけあって、極僅かな機微も感じ取られてしまったようです。


「さて、少し早いが昼食の用意を頼む。今日は四人分を食卓に並べておいてくれ」

「四人分? お客様が来られるので?」

「いいや、まさか」

「では一体……」

「この前話していただろう? 偶にはカリンとも食卓を囲みたい、とね。今日の昼は君も交えて食べるつもりだ」


 共に食卓を囲む……? しかしそれではメイドとして失格なのでは……?

 思わぬ提案に怪訝な表情を浮かべてしまったのか、旦那様はわたくしの顔を見つめて苦笑を漏らした。


「ま、頼む。少し君に話しておきたいこともある」

「……かしこまりました」


 旦那様の書斎を後にしつつ、様々なことを思案しては脳内を整理していく。


 四人集めたうえで、わたくしに話しておきたいこと……ですか。

 もしかしてここ最近、エヴァお嬢様の様子がおかしいことについてでしょうか? たまに虚空を見つめては瞳の色が赤くなったり、元に戻ったり……何か良くないモノに憑かれているのではないかと心配していたところです。

 ……が、それは本邸からの手紙とは関連しないでしょう。お嬢様の様子についてアリス様は知る由もありませんし……であれば、残された話題となると……。


「………………」


 長い廊下で立ち止まり、巨大な窓から蒼穹の空を見上げる。

 思い当たる節は……無いとは言えない。


「……最近、新聞を見ていませんわね」


 読んでいないのではない、()()()()()

 意図的にわたくしの視界から外されているのでしょうか? だとしたら……。


「カリン」


 名前を呼ばれて振り返れば、恬淡とした面持ちのお嬢様が歩み寄ってきていた。


「どうしたの、ぼうっとして」

「あ、いえ……」


 瞳の色は、まるでアクアマリンのように美しく透き通っている。昔から知っているお嬢様の目だ。


「父さんから何か言われた?」

「えっ……」


 思わず目をぱちくりとさせた。すでに、旦那様の書斎からはずいぶん離れていたというのに。


「ロンドン本邸からお手紙が届いたようでして。わたくしはそれをお持ちしただけですわ」

「ふぅん……そう。ロンドンから……」


 意味ありげに眉を顰めるお嬢様。エヴァお嬢様はとにかく察しが良い。わたくしが辿り着いた“解答”が正しいのかどうか、おそらく一瞬で判別できているはず……。


「あんた、中身読んだの?」


 旦那様と全く同じ質問だった。声のトーンは比にならないほど軽かったけれど。


「いや、読まないわよね。あんたはそういう事しない」

「ええ、もちろんですわ」

「察しは付いてる?」

「……大体は。確証はありませんが」


 困ったように笑ってみせると、お嬢様は唇をへの字に曲げて肩をすくめた。


「ま、世情が世情だから仕方ないわね」


 それだけ言って、お嬢様はくるりと踵を返した。元からこんな感じ……と言えばそうなのですが、ここ最近は淡白さに磨きがかかっているような気がしてなりません。


「あの、お嬢様」


 淀みないペースで遠ざかる背に向かって呼び掛ける。もちろん、何か緊急の要件があったわけではなくて。

 ただ一つだけ、確認したいことがあった。


「ん、何よ」


 流れるように振り返ったその瞳は──打って変わって、鮮血色に染まり切っている。


「最近、体調に問題はありませんか?」

「別に無いわ」

「……なら、良いのですが。昼食の準備が終わり次第、またお呼びします」

「ええ、それじゃ」


 長く美しい髪を翻してお嬢様は去って行く──あれっ?

 強い違和感を感じて瞼を擦り、もう一度お嬢様の後ろ姿に目を凝らす。


「…………気のせい、でしょうか?」


 今、一瞬……お嬢様の髪が、銀色に見えたような。




        ***




 様々な疑念や思惑が充満しつつも、時の流れは決して止まらない。時計の針は、丁度正午を差し示していた。


「さて、四人揃ったことだし食べるとしよう」

「カリン、貴女も座って」


 旦那様と奥様があくまでも和かに着席を勧めた。とはいえ、ここをすんなり座るわけにはいかないのです、メイドとしては。

 だって、常識的に考えて使用人が主と食事を共にすることはありえません。わたくしの目指す到達点……お母様であれば決してそんなことをしないはずですもの。


「何してるのよ、カリン」


 無言で渋るわたくしを、頬杖を突きながら見上げるお嬢様。これでもかというほどに全身から呆れオーラを放出しています。


「いえ、やはりわたくしは……」

「その価値観は私らの言葉より優先すべきものなの? 主の意向を汲めないなんて、スーパーメイドってのも大したことないのね」


 そ、それは……確かに。自分の価値観に囚われて命令を反故にするような従者は、スーパーメイドどころかひよっこメイド以下……。


「……失礼いたしました」


 粛々とお嬢様の隣に着席する。柔軟性という観点から見れば、まだまだ完璧なメイドではなかったということ……反省です。

 未だお母様の域には程遠い……けれども、ポジティブに考えれば伸び代があるとも言えますわね。メイドの道は長く険しい……。


「さ、食べましょ。冷めるわよ」

「はい、お嬢様」


 旦那様と奥様はわたくし達を微笑ましそうに眺めながら食事を始めた。なんだかとても不思議な感覚です。良くも悪くも、わたくしはこのような家族団欒の食事を体験したことがないものですから。


「あの、皆様」

「うん? どうしたカリン」

「お味の方は如何でしょうか?」

「もちろん、抜群に美味だ。なぁ二人とも」

「ええ、美味しいわよカリン」

「普通に美味いと思うけど」

「……ありがとうございます」


 なんだか無性に照れ臭かった。不敬なのは分かっているのですけれども、まるで自分までハート家の一員になったような。「一家団欒」とはこういうものなのでしょうか、なんて思ったりもして。

 とはいえ、お父様もお母様も非常にリスペクトすべき存在ではありましたので、マイナスな感情は全く抱いてないのですが……ラフォンテーヌに生まれた者の宿命ですわね、こればかりは。


「食べながらでいいから、話をしても良いかな?」


 穏やかに、呟くように差し込まれた言葉。奥様もお嬢様も反応がないので、まず間違いなくわたくしに向けられたものでした。


「もちろんですわ、旦那様」


 とはいえ、話の内容については……もう、ある程度察しが付いています。心の準備も出来ています。

 今なお続く世界大戦……そしてお母様の母国である日本が英国及びカナダと対立していること。ハーフであるわたくしが、世間からあまり良くない目で見られている……といったところでしょう。







「今日付けでメイドを辞めてくれ、カリン」






 ………………………え?



「───、」


 脳天から足の爪先まで雷で打たれたかのような衝撃が突き抜けた。

 呼吸も、瞬きも、全てを忘れてただ止まる。尊厳ある一個人、今ここに在るべき「人」として反射的に出さねばならない自己防衛の言葉すら消し飛ぶほどの、凄絶な衝撃だった。


「君の代わりに本邸から三人ほどメイドが来る予定だ。家事は全て彼女らにやってもらう、カリンはもう何も仕事をしなくていい」


 …………わたくしの、代わりの、メイド。

 つまり、わたくしはもう、用済みで、要らない存在……? 

 良くない話であることは想定済みでした、それでも、それでもこれはっ……!


「というわけでだな、カリン……カリン?」

「何呆けてるの?」


 隣からお嬢様に肩を叩かれ、ハッと我に帰る。

 そしてほぼ同時に、先程……昼食前に廊下でお嬢様が口にしていた言葉が脳裏をよぎる。



 ──世情が世情だから、仕方がない



 旦那様は決して冗談でこのようなことを仰る方ではございません。であればやはり、件の戦争に関連しているとしか思えません。

 結局、わたくしの嫌な予感は見事に的中していたわけです。戦時下の今、英国及びカナダの敵となっている日本。その血を半分引くわたくしが敵性市民として迫害を受けるのは大衆心理としてごく自然な流れと言えるでしょう。


 分かっています……頭では分かっているのです。

 けれど、それでも、だとしてもっ!!!!


 自分がメイドであること、それこそが唯一無二のわたくしのアイデンティティなのですわ! それを奪われるということは、死刑宣告同然……!


 これも、仕方のないことなのですか? 

 受け入れなければならないことなのでしょうか?




 ……………………きっと、そうなのでしょうね。




「御三方」


 すうっと音もなく席を立ち、一人一人と視線を合わせる。

 そして。

 これまで培ってきたメイドとしての礼節と誇りの全てを込めて、深々とお辞儀をしてみせた。


「長い間お世話になりました。どうかお身体に気を付けて……」

「あまり見くびらないでくれ、カリン」

「…………はい?」


 気力を振り絞った最後の挨拶を強く遮られ、思わず顔を上げる。

 旦那様も、奥様も。

 その瞳は、普段と何も変わらない高貴なる光を湛えていた。


「カリン、貴女はどこにも行かなくていいの」

「心外だよ、まったく。いつも言っていただろう、君も私達の家族だと」


 その言葉に、わたくしは瞬きも忘れ──()()()()()()

 このハート家こそが自分のいるべき場所だと常々思っていながら、今の言葉をまるで予想しなかった自分に対してはもはや怒りすら湧いてこない。とにかくひたすらに情けなくて──だけどそれ以上に、嬉しくて……気付けば涙が零れ落ちていた。


「わ、わたくしは……まだ、この家に……」

「ああ、居ていいんだ」

「家族だもの、当然よカリン」


 お二人の言葉に胸を詰まらせながら、止めどなく溢れる涙を両手で拭った。拭っても拭っても溢れ出るものだから途方に暮れてしまって、さらに涙が零れ落ちていく。


「ぐすっ……ここに……まだ、いられるのですね……」

「好きにしたらいいじゃない、自分の人生でしょ」


 普段と何ら変わりない口調でお嬢様は言う。それが彼女なりの思い遣りであることを、長年連れ添ってきたわたくしはよく知っています。


「………………あぁ……本当に」


 この素晴らしい方々を信じきれなかったのは、メイドとして本当に恥ずべきところですが……今はただ、心よりの感謝を……。




        ***




 しばらくしてようやく泣き止んだわたくしに、旦那様と奥様は改めて今回の経緯を説明してくださいました。


「既に気付いてることとは思うが、現在日英関係は非常に厳しいものとなっている。そうなれば当然この国も追従するわけだ」

「反日感情の高まりに比例して、日系人への迫害は日毎強まるばかり……」

「財産を根刮ぎ奪われたうえで収容所にぶち込まれるらしいわね。まさしく罪人扱いよ」


 想定以上に事態は深刻なようだった。わたくし自身がそうであるように、収容される日系人のほとんどはこの国で生まれこの国で育った「カナダ人」ばかりでしょう。

 それでも、ただ日本の血が流れているというだけでそこまでの扱いをされるとは……戦争とは本当に恐ろしいものですね……。


「当然、君をそんな所に連れて行かせやしない。今回の提案は君を守るためだ、カリン」

「しばらくはこの屋敷に籠りきりになってしまうけれど、我慢して頂戴ね」


 申し訳なさそうに言う奥様に対し、わたくしは全幅の信頼を込めて微笑んでみせる。


「畏まりました、どうかお気になさらず。しかし、屋敷に籠るのであればメイドを辞める必要など無いのでは……」

「アンタは仕事の質そのものは高いけど、あまり融通が利く方じゃないでしょ。洗濯物を干したり、庭園の手入れをしたり……たとえ敷地内だとしても、“外”に出ること自体控えた方がいいと父さん達は言ってるわけ」

「あ、そこまで……」

「そ。メイドである限りアンタは無意識にそういうことをしちゃうでしょうから、中途半端になるよりもスパッと辞めて心を入れ替えなさいってこと」

「……理解いたしました」


 メイドとして生まれ、メイドとして育ったわたくしにとって主の役に立てないことは苦痛そのもの。それこそ「メイドを辞めろ」と告げられない限り、隙あらばお役に立とうとすることは必至だった。

 ハート家の御三方はわたくし以上にわたくしの性根を把握していた。それが嬉しくもあり、我ながら未熟過ぎて苦々しくもあり。


「とはいえ……家の敷地内ですら危険なのは本当なの? 正気じゃないわよ」

「戦時中だからな。皆正気ではいられないのだ」


 怒りと呆れと哀しみと。旦那様の言葉には様々な感情が込められていた。


「日系人を含めた敵性市民の強制収容は政府主導の方針だからな。とある筋の情報によれば、収容対象は住民票を基に調べているらしい」

「住民票……であれば、隠れたところで自ずと見つかってしまうのでは……」

「実は、もう既に手は打ってある。名目上、カリンは国外へ出ていることになっている。そう工作してある」

「そ、そんなことが可能なのでしょうか」

「まぁ仕事柄な。世界の情勢、政府の方針までは変えられないにしても、家族一人守るくらいの策は打てる。それさえ出来ないのであれば金を持っている意味が無い」


 …………ああ、本当に。


「わたくしは、幸せ者ですわね……」


 こんなにも自分を大切に思ってくれる人が、三人もいるだなんて。わたくしごときには勿体無いくらいだと思いますが、好意を無碍にするのはそれこそ恩知らずの所業……ここは謝意をグッと堪え、有り難く享受させていただく他ありません。


「旦那様、奥様、お嬢様……この御恩、わたくしは生涯をかけて返させていただく所存です」

「いらねーわよ、そんなの」


 わたくしの一礼をバッサリ否定するお嬢様。困ったように首を傾げると、旦那様と奥様は可笑しそうに笑った。


「そうだ、エヴァの言う通りだ。恩返しなど要らない」

「メイドではなくて、ただ一人の家族として暮らすのだもの。そうでしょう? カリン」


 目を見開く。同時に、目の奥がかぁっと熱くなって、ともすれば再び涙が溢れてしまいそうで。

 けれど、わたくしが言うべき言葉は。

 今求められている言葉は……感謝でも謝罪でもなくて。




「………はいっ、今後とも末永くお願いいたします!」




 自身への肯定と、心からの歓喜。

 満開の花を思わせるほどの笑顔でもって、貴き一家への“愛”を示すのでした──




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