Youthful World 〈b〉
わたくし、ハート家での仕事を心の底から誇りに思っておりますわ。
もちろん、最初は大変でした。未熟だった数年前のわたくしが、たった一人で家事全般こなすのは目が回るほどの忙しなさでしたが……今となっては無問題! 完璧なスーパーメイドとして成熟の時を迎えちゃいましたわ! むしろ御三方が家事を手伝おうものなら「むむっ」としてしまうほどですわ。
時折お嬢様がわたくしに対して「仕事中毒者」だと言い放ちますが、これがラフォンテーヌの真髄なのですわ、きっと。
「ちょっとカリン」
お嬢様に呼ばれてハッと我に帰る。いけないいけない。
「はい、何でしょうお嬢様」
心地の良い風が吹き抜ける陽当たりの良い部屋で、エヴァお嬢様とわたくしはピアノを前に楽譜とにらめっこしておりました。
「この曲はまだ早くない?」
「何をおっしゃいます、児童向けの楽譜ですわよこれは」
「そう言われると後に退けなくなるじゃない……」
ピアノに関してだけは自信なさげに尻込みするお嬢様に頬を緩ませる。こんなお嬢様はピアノレッスンの時くらいしかお目にかかれません。
「まずはわたくしが弾いてみせますから」
「ん」
わたくしは躊躇うこともなく鍵盤に両手を乗せ、お嬢様への課題曲を完璧に弾き切った。まぁ、本当に簡単なので何の自慢にもなりませんが。
「……と、お手本はこんな感じです。それでは本格的なレッスンに参りましょうか」
「にしてもカリン、あんたってピアノだけは上手いわよね」
「そう言うお嬢様はピアノだけが苦手ですわね」
エヴァお嬢様は歌唱力抜群なうえギターやバイオリンも弾けるしフルートだって吹ける、素晴らしい才覚の持ち主なのですが……どうにもピアノだけは上手くない。言葉を選ばず言えばへたっぴなのでした。
「なんでかしらね、私はピアノが一番好きなのに」
「「好き」と「得意」が重ならないこともまま有るものです」
対してわたくしの方はというと、弾ける楽器はピアノだけ。それでも、その実力自体は講師たり得るレベルにまで達していると自負しております。
御自身は多彩な音楽の才覚に溢れながらも、ピアノしか出来ないわたくしを羨むお嬢様。世の中、上手くいかないものですね……。
「けれども、ちゃんと練習すれば必ず上手くなりますわよ。わたくしだって、最初から弾けたわけではありませんもの」
「何よ、私が真面目にレッスン受けてないって言いたいわけ?」
「……うーむ、確かに今のわたくしの言い方は、そう取られかねない発言でしたわね。とはいえ、これ以上はフォローすればするほどお嬢様の才能に疑問が生まれてきてしまい……」
「ドストレートに言われてんだけど、今」
「ふふっ、スーパーメイドジョークですわ。そう焦らずとも、練習すればいつか必ず弾けるようになる、と。わたくしがお伝えしたかったのはそういうことですわ」
「その割には、あんたが必死にピアノを練習してるのを見たことないような」
「メイドたるもの努力は影で、ですわよ」
努力も無しにピアノが弾けるなんてことは常識的に有り得ませんから、と付け加えてお嬢様をピアノの前に座らせる。
「さぁ、今度こそ始めましょう。僭越ながら、わたくしがしっかりとご教授させていただきますわ」
「出来るかしら……」
柄にもなく弱気なエヴァお嬢様は、ごほんごほんと咳払いして課題曲の演奏を始めた。
ボン、ボトッ、ズロン、グロロロッ!
ふむ。
「さて、休憩しましょうか」
「まだ十秒も弾いてないけど!?」
「紅茶を淹れますわね」
「言ったそばから投げ出すなスーパーメイド!」
ぷんぷん怒るお嬢様に背を向け、いそいそと紅茶とスコーンの用意を始めた。
いや、しかし、何度聴いても度肝を抜かれてしまいます。果たしてわたくしの手に負えるのでしょうか、この御方のピアノは……。
***
「私さぁ、一個条件できた」
漆黒のグランドピアノを横目に、紅茶を一口含んだお嬢様が唐突にそんなことを言う。
「条件って、何のですか?」
「結婚の」
「ほほぉー!」
「何よ、にやにやしないでよ」
「いえいえ、大変素晴らしい傾向ですわ。それで、その条件というのは?」
お嬢様は特に照れることもなく、ポツリと呟くように、
「ピアノが弾ける男」
さらりとそう言った。
少し拍子抜けだった。
「それが第一条件、なのですか?」
「いや、まずもちろん、この私がビビッときた奴だってのは大前提よ? その上で、ピアノが弾ける人だったら良いなって」
「……お嬢様は怒るかもしれませんが、一点ご報告差し上げても?」
「良いけど、何?」
「縁談を持ち掛けているバシット家次男アルフレッド様は、ピアノがお得意だと聞いておりますが」
「あっそ」
えっ、なんでこんなに興味無さ気なのでしょう?
「会いに行かれないので?」
「今私が会いに行きたいと思わない時点で無駄よ。会ってもビビッと来ないの確定、時間の無駄」
「どういう理論ですか……」
「あら、確固たる理論に基づいてるだけよ」
「それは高名な学者様が提唱されておられるので?」
「当然この私が提唱したものよ」
「な、なるほど……」
お嬢様は豊かな胸を乗っけるように腕を組み、憮然とした顔付きで言い放つ。
「いい? カリン。本当にアルなんとかが運命の人なら、私の方からちゃんと会いたくなってるはずだもの。でもそうじゃないから違う。つまり私の運命とは交わることのない人間なのよ」
な、なるほど……なのでしょうか? ま、まぁ、とりあえず一つハッキリしたことがありますわね。
「エヴァお嬢様は、やっぱりとってもロマンチストなのですわね」
「えっ」
「だって、つまり、縁談を断り続けているのもそういうことでしょう? お嬢様は、運命の人との出逢いをずっと待ち続けているのですわ」
「……な、なんか改まって言葉にされると恥ずかしいけど……まぁ、そういうことになるのかしらね」
居心地悪そうに紅茶を飲むお嬢様。気が強くてサバサバしているように見えますが、箱入り娘なだけあって本質はとてもピュアです。
とはいえ……確かに、お嬢様がこれでは中々結婚は難しい。このご時世、誰しもが望んだ相手と結婚できるわけではありません。
まぁたとえ好意が皆無でも、結婚した時点でその相手こそが運命の人、と言ってしまえばそれまででしょうが……お嬢様は決して納得しない、したくないわけですわね。お嬢様にとってそんなのは「運命的」ではないから。
世情や立場を抜きにすれば、一人の女性としてお嬢様にはもちろん共感できます。けれどハート家存続の為には、もうお嬢様しか……。
「他に条件付けるとしたら……弄りがいがあって退屈しない人がいいわね。生涯ずっと一緒にいるわけだから、そこは外せないわよね」
「うふふ、お嬢様らしいですわ」
わたくしはハート家が好きです。ずっとこの家で働いていたいし、ハート家が存続していくことが何よりも大切だと思っています。
けれども、お嬢様のメイドとしてお嬢様の意思を尊重しないのは不敬の極み。許されざる蛮行と言えるでしょう。
だからといってただ流されるまま日々を過ごしていくのも許せないのです。
だってそれは考えることを止めたということ。お嬢様の為にもハート家の為にもならない、愚鈍な選択肢に他なりません。
ですから、つまり、わたくしが出来ることといえば……お嬢様がお認めになる「運命の人」を見つけ出すこと。
それも、なるべく早急に。
これはお嬢様にとってもわたくしにとっても、そしてハート家にとっても重大な使命……必ずこのカリン・ラフォンテーヌがやり遂げてみせますわ……!
「そういえば、カリンはどうなの?」
「……え、と? 何がでしょう?」
考えごとをしていたのもあるけれど、質問の意図がまったく分からず虚を衝かれてしまった。
どうなの……とは? どういうことでしょう?
「アンタも私と同年代でしょ」
「ええ、一つ下ですが」
「アンタは結婚したい相手とかいないの?」
「け、結婚!? わたくしがですか!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
れ、恋愛事に関してはわたくしもお嬢様と同レベル……いや、もしかしたらそれ以下かもしれません!
「わたくしは、その……いないですわ。メイドですから」
「いや、メイドは理由にならないでしょ。アンタの母親もメイドしながら結婚したんだから」
た、確かに……ごもっともですわ。
「でも、それは特例ですわよ。ご存知の通り、わたくしの父はハート家の執事でしたから。執事とメイドで職場恋愛だなんて、わたくしにはまったくアテがありませんわ」
「もう執事なんて雇ってないものね。というか、今ここで働いてるのはカリンだけだし」
「そういうことですわ」
ふぅ……顔が火照ってしまいましたわ。二十歳を越えてこれではスーパーメイドの名が泣きますわね……。
こんなわたくしがお嬢様の「運命の人」を選別できるのでしょうか……急に不安になってきてしまいましたわ。
いえ、不安だろうと何だろうと見つけ出すしか道は無いのですが……。
「……──、」
……おや?
「お嬢様?」
突然時計が止まったかのように黙りこくるお嬢様。何の脈絡もない不可思議な態度に、目をぱちくりとさせる他なかった。
「お嬢様」
「……ん? あぁ、何?」
「何か考えごとでも?」
「いや? 何で?」
「急に沈黙したものですから。呼んでも反応が鈍いですし……体調に問題が?」
「別に大丈夫よ。何の問題も無い……何も、ね」
白昼夢……? とでも言うのでしたっけ? こういうのは。
普段とは少し違うお嬢様に、なんだか妙な違和感を覚えてしまう。問題ないとは言われたものの、一応気にかけておきましょう。
「──カリン」
不意に名前を呼ばれ、視線を合わせると──わたくしは唖然と目を見開いた。
だって、明らかに。
お嬢様の瞳が、まるで血に塗れたように真っ赤になっていたから。
「お嬢、様……?」
日常生活でよく言う「目が赤い」というのは大体「充血」のこと、つまり白目の部分を指すものですが……今のお嬢様は違う。
瞳が。
虹彩が。
青く透き通るように美しかった碧眼が。
おぞましいほどの「赤」に染まり切っていたのだ。
「急だけど、アンタには一応言っておくわ」
御自身の瞳の変容に気付いてるのかそうではないのか、お嬢様は平静そのものの声で、
「きっと、近い将来──私は全てを凌駕する」
何故。
何を。
何の為に。
困惑し、停滞するわたくしの脳内……しかし決してお嬢様の放った言葉が“紛い物”だとは判別しなかった。
エヴァ・モア・ハート……彼女が断言したことは絶対に“嘘”がない。
どこまでも純粋、どこまでも透徹。
たとえ天地がひっくり返ろうとも揺らぐことはない。これまで共に過ごした自分の人生をそのまま賭けたっていい、賭けにならない。
「さて、じゃあお茶も飲み終わったことだし終わりにしましょ」
「も、もうピアノはよろしいので? 十秒も弾いてないと怒ってらしたのに」
「そうね、もう終わり」
それは決して機嫌が悪くて投げ出したわけではなかった。間違いなく然るべき思考の手順を踏んで言い捨てている。
……何の脈絡もない以上、“謎”と称する他ない言動と振る舞いは不気味の一言だった。
そして、実際。
この日を境に、エヴァお嬢様は一切ピアノを弾かなくなった。




