Youthful World 〈a〉
午前四時。いつも通りの時間に目を醒ます。
わたくしは、たとえどれだけ睡眠時間が取れなくとも必ずこの時刻には起床します。メイドの朝は早いのです。やるべき仕事が盛り沢山ですから。
部屋のカーテンを勢いよく開けると、まだまだ霞がかった空と庭が虹彩を埋め尽くす。雲から差し込む光の束を見れば、今日は一日良い天気なのが窺えます。絶好の家事日和ですわね。
軽くストレッチをした後、スーパーメイドらしく完璧に身なりを整え、姿見の前をくるりと一回転。
「さてと! 今日も張り切っていきましょう」
ペチンと両頬を叩いて気合いを入れ、颯爽と屋敷の厨房へ向かう。まずは朝食の下拵えですわね。
***
お母様から受け継いだ誉れ高きメイド服をはためかせ、ジョウロを片手に庭園を練り歩く。朝食の準備を済ませたあとは、広大な庭園に咲き誇るお花の水やり。これもいつも通り。
この庭園に相応しく、ハート家の屋敷も大変立派なもの……なのですが、住んでいるのはたった四人だけ。それもメイドはわたくししか居ませんから、炊事に洗濯、屋敷の清掃、庭の手入れに事務作業とやる事は盛り沢山なのです。
ロンドンの本邸には複数のメイドが常駐していたそうですが、ここカナダの別邸では家事全般をわたくし一人で担っているのでした。
こうなっている背景には、様々な事情があるのですけれど……とりあえず、これくらいの仕事量であればわたくし一人でも無理なくこなせます。まぁスーパーメイドですからね。
「さて、と。そろそろ起こしに行きましょうか」
透明な雫を纏う花々が天より差し込む朝陽を浴びて乱反射する様を眺めつつ、粛々と踵を返した。
料理よりも掃除よりも何よりも、わたくしの手に負えない強烈な存在といえば……このお屋敷においてはたった一人だけですわ。
コンコンコン、と分厚い部屋の扉をノックする。
返事はありません。これもいつも通り。
ゆっくりと扉を開けて中へ踏み込んだ。天蓋付きの高級ベッドに沈み込んでいる華奢な女性──『エヴァ・モア・ハート』。それこそが、ハート家唯一の御息女であらせられるお嬢様の名前。
物心が着いた時から、お嬢様はわたくしのそばにおりました。
……いいえ、その表現は少し語弊がありますわね。お嬢様のそばに、このわたくしが居たのです。
「お嬢様」
「……すやぁ」
「エヴァお嬢様、起床時間ですわよ」
「………………むり」
「仕方ありませんわね」
今朝も今朝とて寝起きの悪いお嬢様を介助する。夜空に瞬く一等星のように煌めくプラチナブロンドの髪が、これでもかと重力に逆らって跳ねまくっています。相変わらず凄い寝癖ですこと……。
周囲から絶世の美女と評されるほどの容姿に加え、勉学も運動も極めて優秀なエヴァお嬢様の数少ない弱点が、朝。こればかりはどうにもなりませんわね。
いかにも睡魔に呑まれている碧眼が、パシパシと断続的に見え隠れする。芸術品めいた長い睫毛も、今だけは全くもってオーラを感じません。
「ねむいんだけど」
「存じておりますわ」
「まだ寝たいんだけど」
「朝食の準備が整っておりますわよ。早くしないと冷めてしまいますわ」
「ていうか……こんなに早く起きる意味、なくないかしら……今日はスケジュールに何も組み込まれていないはずよ」
「あら、お嬢様がおっしゃったんですよ、わたくしにピアノのレッスンをして欲しいと」
「あ、そっか。そういやそうだったわね」
呟くと同時にすっくと立ち上がり、ぐぐーっと背伸びをする。ご自身が納得できる要素さえ提示すれば瞬時にスイッチを切り替えられるのがお嬢様の良いところですわね。
「それじゃ早速……」
「その前にどうか朝食を。旦那様も奥様も、首を長くしてお嬢様を待っております」
「はぁ? 別に私を待たなくても二人でさっさと食べてれば…………いや、まさか……あの件?」
「わたくしからは、何とも」
目を伏せて言葉を濁すわたくしの様子を見て、お嬢様は目に見えて機嫌を悪くしておりました。
「チッ……またなの? 父さんも母さんも、ここ最近妙に聞き分けが悪いわね」
「……うふふっ」
「何よ、カリン」
「普通は親が子に思うようなことを、ごく自然にお嬢様が仰るものですから」
「まぁ事実だし。とにかく、このあたりでハッキリとさせる必要がありそうだわ」
寝巻きを勢いよく脱ぎ捨てたお嬢様は、つい先程までの寝惚けた表情はどこへやら、大変に精悍な顔付きでわたくしの方へ向き直る。
「着いてきなさい、カリン。あの二人に一泡吹かすところを見せてあげる」
「どうか穏便になさってくださいね」
「あら、もちろんよ。私ほど穏便な女はいないわ」
その言葉にはノーコメントを貫きつつ、身嗜みを整えパリッとした服装に着替えたお嬢様と共にダイニングへと赴いた。
***
「ありがとうカリン。今日の朝食も大変美味だった」
「光栄ですわ、旦那様」
労いの言葉をかけてくださった旦那様へ向けてわたくしが恭しくお辞儀をする一方、エヴァお嬢様はホットミルクの表面に張った膜を舌で掬い取ることに執心していた。お行儀が悪いですわ……。
お嬢様の為にいつも表面の膜を残しているのだけれど、一体あの膜のどこが美味しいのでしょうか……などと考えていると、旦那様の隣に座る奥様が、慈悲深い笑顔を浮かべてわたくしに微笑みかけた。
「カリン、毎日のように言っているけれど、偶には貴女とも一緒に食卓を囲みたいわ」
「あら、そこの線引きが出来ない者にスーパーメイドは名乗れませんわ」
「うふふふ、その妙に頑固なところ、エリカにそっくりだわ」
「それこそ光栄ですわ、奥様。お母様こそわたくしの目標ですもの」
今は亡きわたくしのお母様──エリカ・ラフォンテーヌ。
お二人がロンドンに居た頃から長年メイドを務めてきたわたくしの母は、非常に優秀な従者でした。
わたくしがスーパーメイドならお母様はハイパーメイドとでも言うべき存在です。わたくしにとっては母である以上に、生涯をかけて到達すべき目標でもあるのです。
「……あのさぁ、父さんも母さんもそろそろ本題に入ったらどうなの」
痺れを切らしたのか、乳白色の液体に視線を落としたまま、滔々とした口調で切り出すお嬢様。
途端、旦那様も奥様もきまり悪そうに目を逸らした……が、意を決したように三枚の写真を取り出した。
「カリン、これをエヴァの手元に」
「畏まりました」
旦那様から授かった写真を、お嬢様のお手元にお待ちする。アクアマリンのような輝きを放つ美しい瞳が、それを覗き込むと同時に怒りと呆れに染め上がった。
「……で?」
「見ての通りだ。ジャッセル家、ノウス家、バシット家……縁談が三件来ている」
「全部お断り。はい、この話はおしまい」
「まぁ待ちなさいエヴァ。これまで何人もの候補を挙げてきたが、その中でもこの三人は家柄的にも人格的にも素晴らしい厳粛な紳士だ。特に人格面は非の打ち所がない。つまり……」
「いや、話したこともない人と結婚しろって言われても困るんだけど」
「もちろんすぐすぐの話ではなくフィアンセとしてだ。そう逸るな」
「逸ってねーわよ」
……お嬢様は、以前より頑なに縁談を断り続けていました。いかにハート家が名家であったとしても、先の三家から縁談が来ることは一般的観点から言えば大変に名誉なことであるにもかかわらず、です。
お嬢様ほど確固たる「自己」を持つ女性は、このご時世においてそうは居ません。と言いますか、わたくしは見たことがありません。
幼い頃から我が道を行くお嬢様には憧れる部分もありますが、しかしそれ以上に危なっかしく、わたくしの心配は日々積もってゆくばかりなのです。
「まぁ、お前もいい歳だ。何らおかしくないだろう?」
「おかしいわよ。だって私が結婚したいと思ってないのに、なんでしなくちゃならないの?」
「エヴァ」
いつものようにまったく揺れ動く気配がないお嬢様に対し、神妙な声で奥様が名を呼ぶ。
「会ってもない人と結婚したくないと言うのは尤もだと思うわ」
「でしょ」
「だから、まずは会ってみたらどうかしら?」
「やだ」
間髪入れず。こうなると正攻法から理詰めで納得させない限り、エヴァお嬢様が折れることはないでしょう。
「エヴァ、それだと私達も手の打ちようがないわ。どこかで落とし所を見つけないと、貴女がいつまで経っても結婚できないじゃない」
「余計なお世話よ。第一、私をひたすら恋愛事から遠ざけてきたのは母さん達よ? 私が歳を食った途端に態度翻して、ずけずけと真反対のことばかり言って。一体どういう了見なの? これまでの寵愛は失敗だったって後悔でもしてるの? それはどうかと思うわよ、親としても人としても」
途端に口籠る御二方。蝶よ花よと育てた箱入り娘にこんな物言いをされては、言葉を失うのも無理はありません。
ううむ……これはいけません。ここ最近、お嬢様の言動が攻撃的過ぎるような……。
以前はもう少し、気の効いた物言いだったように思うのですが……。
「お嬢様」
「何よカリン」
「お嬢様のお気持ちも言い分も、確かに一理あります」
「一理ぃ〜?」
「では十理くらいあるとしましょう」
「流石の柔軟さね」
皮肉めいたお褒めの言葉に軽く会釈をしつつ、
「お嬢様の言い分に正当性があるのは確か。けれど旦那様も奥様もお嬢様の将来を慮ってのこと。あまり強い言葉を使うものではありませんわよ」
「言ったでしょ、余計なお世話だって。仮に私が結婚するとしても、その相手は必ず自分で選ぶ」
「そう言い続けてる割にまるで男の影が見えないから、こうして縁談をだな……」
「別に……仕方ないでしょ、それは。今んとこビビッと来る人居ないんだから」
深々と溜息を吐く旦那様と、半眼で目を逸らすお嬢様。
お嬢様の言葉がキツめなので何も知らない方からは勘違いされがちですが、この親子はあくまでも対等であり、基本的に親子仲は良好なのです。
「とにかく! 私の相手は私が決めるわ……ちなみにこれは最終通告。もしもう一度縁談なんて持って来たら家出する」
「また子供のようなことを……ハート家の存続がかかっているというのに、お前ときたら……」
「大体ね? エヴァ。貴女の生活力の無さで家出だなんて、とても生きていけないわ」
「その時はカリンを連れて行くから大丈夫」
「呆れたものだ……」
眉間を押さえる旦那様を尻目に一息でミルクを飲み干したお嬢様は、目の前の朝食をかき込んで弾けるように立ち上がった。
「じゃあカリン、またあとでピアノのとこね」
「はい、お嬢様」
悠々と退室していったお嬢様の背中を三者三様で見送った。重厚な扉が閉まった直後、旦那様は腕を組んで嘆息する。
「毎度すまない、カリン」
「いえ、お構いなく。お嬢様はああでなくては」
あれほど仕え甲斐のある方もそうはいません。別に嫌味とかではなく、素直に敬意を表するべきお人だと思っています。
「甘やかしすぎたのかなぁ……今更何を言ってもどうにもならんが」
「可愛い一人娘だもの、仕方のないことよ」
「だなぁ」
「……うふふっ」
なんて微笑ましい一家でしょう。自然と笑みが零れてしまいます。
先程のやり取りも一見剣呑な雰囲気ですが、お二人はもちろんお嬢様の方も愛情に溢れているのがわたくしにはハッキリと感じ取れます。
「私もエヴァの意思を大切にしたいのは山々だが……しかし世情が世情だろう?」
「……はい」
「我々にも、いつ何が起きるか分からない以上……エヴァの幸せを考えれば……」
「………………それは」
旦那様の憂慮は至極真っ当なものだった。
西暦一九三九年……ドイツが隣国ポーランドを侵攻したことを発端に、世界を巻き込む大戦争が巻き起こり、そしてそれは今なお続いている。
この穏やかな家で日々を過ごしていること自体、途轍もなく恵まれていると言えるでしょう。
「縁談を持ち掛けてきた三家も同様だ。世界情勢に危機感を抱き、手塩にかけて育てた優秀な次男・三男をハート家に捧げることで何とか安定を図ろうとしている」
「実際、ウチも完全な安全圏かと言えばそうは言い切れないのだけれどね」
「……まぁ、出来る限りの処置はするつもりだが。ただ、本国とカナダの上下関係を鑑みれば……」
もちろん、現在のカナダは植民地などではなく一つの国として独立はしています……が、『英国連邦』の一員であるため英国の方針に従うことが必定です。実際、英国があの戦争に参加を表明してすぐに、カナダ軍も追従して派兵を行っています。
今後戦況の行く末次第では、ハート家でさえ立場が危ぶまれるかも……いえ、違いますわね。
より正確に言うのならば。
──危ぶまれるのは、わたくしだけかもしれませんが




