No.312
ごぽごぽごぽ。
生まれては割れ、産まれては爆ぜる。
それは遥か諚より。
それは天の廓より。
昇っては消え行く泡沫の音。
渦巻く命。
騒めく命。
回帰し、夢想し、真理に届かず繰り返す。
原初に何があったのか。
原初に何が起きたのか。
解答を求めている?
起源を求めている?
いや、違う。
オレは、もう、答えなんて要らない。
得たところで何も変わりはしないから。
識ったところで先が有りはしないから。
望んでいるのは……そう、たった一つだけ。
たった一つだけなんだ。
ただ、オレは──
「……──、」
瞼を開き、小さく首を傾げた。
……あれ、今、俺は何か声を発したか? 思考が朧げでハッキリしない……発したとしたら、それは何を誰に向けて放ったものなのか。
鈍い頭に鞭を打ちながら、俺は今更現在の状況を確認する。
翠色の液体が俺の身体全体を包み込んでいる。無機質ながらも心地の良い脱力感……ステラティアの用意した回復用ポッドの中? いつの間に入ったのだろう? 情けない、気を失っていたなんて。
あれから……ステラティアと空を飛んでからどれくらい経ったんだ? まるで時間感覚がない。三分しか経っていない気もするし三日くらい経ったような気もする。
……やばいな。仮にめちゃくちゃ時間が経っていたとしたら、凄くやばい。
俺にはカリンと交わした大切な約束があるのだ。ガルヴェライザを倒したことだし、さっさと地球に帰らなければ……そうだよ、回復とかしてる場合じゃない! カリンの時間は有限も有限、一秒たりとも無駄にしてはならないんだ!
しかしステラティアが用意してくれた回復用ポッドをぶっ壊してしまうのも気が引ける……中から開けられないのかこれは……。
とりあえず、コンコンとポッドの中から表面の透明なガラスを叩いてみた。周りには誰も居ないのだろうか?
と思ったのも束の間、外にいるステラティアが間髪入れずガラス越しに顔を覗かせてくれた。
「ハル様? どうかされました?」
「がばごぼぼ……」
しまった、液体の中で喋っても言葉にならない。
「駄目ですよ、まだ十分しか経っていません」
何故か通じた。まぁいい、とりあえずここに投入されたのが十分前という情報を得られた。予想より随分短かったのは良かったが、だとしてもカリンにいち早く会いに行かなければ。
「ごぼぼぼぼ……!」
「いえ、駄目ですって。いくらハル様のお身体が丈夫と言っても、あのガルヴェライザと戦った疲労は相当なものです。しばらくは御安静になさらないと」
……駄目か。ポッドの中で肩を落とすも、ステラティアは善意で止めてくれているのだからと無理矢理自分を納得させる。
……うん、そうだよな。疲れきった顔で行っても、カリンを心配させてしまうかもしれないし。ここはしっかりと体力を回復して──
「────ッッッ!?!?!?」
ぞくりと背筋に悪寒が迸った。
そして瞬時に神王衣を装着し、問答無用で内部からポッドを破壊して脱出する……!
「きゃあっ! も、もうハル様ったら……少々やんちゃが過ぎます。御身体に障りますから、どうかスペアのポッドに……」
「──ステラティア卿」
「ほら、また“卿”なんて付けて。やはり疲労が溜まって……」
「ステラティア卿ッ!!!!」
「っ!」
必死の形相で再び名前を呼ぶと、ステラティアは反射的に背筋を伸ばした。
「……デカい声出してごめん。心配してくれたことも、本当にありがとう。ただ……急遽行かなきゃいけない場所ができた」
「……どちらへ?」
「大正門の跡地、“外界”と神域の境界線──ワームホールがあった場所」
「ッ!!」
ステラティアの顔がかつてないほど強張った。異常事態を察し、ただでさえ大きな瞳を更に見開いている。
「……バッテリールームのみんなは無事だったか?」
「少なくとも、死亡者は一人も」
「……そうか」
つまり負傷者は出たということだ。死者が出なかった安堵感と負傷させてしまったことへの罪悪感を噛み締めつつ、俺はゆっくりと息を吐き出した。
「絶対に、何人たりとも大正門跡地に近付けないでくれ。そして……この事は、俺達だけの秘密だ。他言無用で頼むよ」
「……ハル様」
ステラティアは俺の言葉に拘泥することなく。
ただ、粛々とその指先を俺の胸部に押し当てて、聖なる力を行使する。
「先の戦闘では貴方様へ使うことが出来なかった、私の能力……今こそ賜らせていただきます」
ステラティアの生成する柔軟かつ強固な神の膜が、俺の全身をピッタリと包み込んだ。
感謝を込めて、今できる精一杯の笑顔を浮かべて笑いかける。
「ありがとう……行ってきます」
「……行ってらっしゃいませ。どうか……どうか、お早いお帰りを、お待ちしております……」
「……ああ、必ず!」
力強く返答し、俺は疲労が色濃く残る身体を内心で叱咤しつつ宙へ飛び上がった。
……ごめんカリン。地球へ戻る前に、大仕事が待ち受けているみたいなんだ……!
***
「……」
無言のまま大正門跡地を越え、未だ残火が蔓延る“外界”に降り立つ。
強烈な魔力を帯びた業火に侵され過ぎた弊害か、平時は新雪の如き純白を誇る大地が黒炭のような色に変貌している。あまりに静謐な環境も相俟って、まるで宇宙空間に立っているような感覚に陥りそうだ。
……実際のところ、俺は別に魔力を感じ取って来たわけではない。白状してしまうと、根拠のない直感。それっぽく言い直せば第六感によるところがデカい。
しかし、それでも。
決して無視することのできない、圧倒的な危険性を感じたのだ。ステラティアの制止を振り切ってまで、此処へ来なければならない程に。
「…………ふぅ」
体調は依然として最悪に近い。
正直、俺の気のせいで終わって欲しいよ。それならもう万々歳だ。
先程の失礼な振る舞いをステラティアに誠心誠意謝罪して一件落着……ああ、そうであれば、どんなに……。
「Oh, what peace we often forfeit……」
……………………どんなに、良かっただろうかと。
「Oh, what needless pain we bear……」
……聴こえてくるのは、とある讃美歌。
闇に沈む前方より放たれるそれは、まるで天使のように透き通った声であると同時に。
俺の記憶に深く刻まれている、かつて二人で奏でた至福の歌でもある。
そして、その宝石のような思い出を分かち会える存在は……この世にたった一人しかいない……!!
「あらあら……神王自らお出迎え? 随分殊勝な心掛けじゃない、褒めてあげるわ」
流麗なカーテシーを披露し、漆黒のパーティードレスを着こなす超越的な美貌の持ち主。
かつての俺にとってはまさしく心の支えであり、今なお心の底から好意を抱く存在。
そして、何より。
ガルヴェライザ同様『ドゥーム』の一角を為す大悪魔……!!
その名は──
「……………………シャルミヌート」
「……もう、ミヌートとは呼んでくれないのね」
一拍置いて、銀髪の悪魔は無表情で呟いた。
極限まで薄まった桃色の瞳が、俺のことをひたと見据えて離さない。
「……此処へ何をしに来たんだ」
俺の質問を受け、彼女は嘆息しつつ愛用の日傘を閉じて軽快に地面へ突き立てた。
「何って、聞くまでもなく分かるでしょ? あのトカゲ野郎が任務に失敗したから、この私が直々に後始末に来てあげたのよ」
黒いレースの手袋がはめられた左手をひらひらさせつつ、飄々とした態度でぼやくように言う。
俺は目を伏せ、彼女の目に入らない角度で拳を握り締めた。
「奴に与えられた任務は『神域全滅』……だっていうのに、全くだらしない。「殲滅」を司る悪魔とは思えない体たらくよ、ホント」
そう毒づきつつも、彼女は常に俺の目を真っ直ぐに見据えている。
久々に再会してほんの少ししか経っていないとはいえ、彼女は常時射抜くような視線を俺に注いでいた。一概に敵意と断じることも出来ない、居心地の悪い謎の視線だ。
しかし、俺は今ただでさえ混乱しているのに、その真意まで推し量れるほどの余裕は無かった。
「あのさ」
「うん、なぁに?」
「お願いを一つだけ、してもいいか」
「うーん、内容によるわね」
「……今からでも引き返してくれねーかな」
「嫌よ、お断り、引き返すはずがないわ。だって、私の気持ちはあの日キミへ伝えた通り……今も全然変わっていないのよ?」
「……俺を殺したいんだっけ、あんたは」
「ええ、よく覚えてるじゃない」
「忘れたくても忘れられないよ、あんなこと言われちゃあな」
久々に会ったが、会話の調子自体は昔と変わらない。彼女はどこまでも自然体に見えるし、何の気負いも無いように見える。
けれど、俺は違った。
初めて……この世の誰より信頼を置いていた彼女を、初めて“敵”として見て──俺は、どうしようもなく理解する。
彼女と俺の間には、思わず言葉を失うほどの隔たりがあることを。
「思想」ではない。
「立場」でもない。
ただ、圧倒的に……モノが違う。
「……ふふっ、似合わないわね。色々考えてる顔しちゃってまぁ。でもざーんねん、そんなに考えたって意味無いわよ。私が今すぐキミを殺してあげる。もうそれでおしまいだから」
「……俺、まだあんたに伝えてなかったかな。あの夜からずーっと思ってたことなんだけど」
「へぇ、なぁに?」
相変わらず俺だけを一点に見つめたまま、可愛らしく小首を傾げた。彼女がよくしていた仕草の一つだ。
一抹の懐かしさを覚えつつ、俺は堂々と思いの丈をぶちまける。
「俺は、あんたにだけは絶対殺されたくないんだ。あんたに殺されるくらいなら、悪魔王に殺された方がマシだよ」
「………………で? 譲らないわよ、私は。私だけがキミを殺していいの。私がそう決めたんだから」
コン、と日傘の先端を打ち付けながら、滔々とした口調で述べる。分かっちゃいたが説得の余地はない、この悪魔は己の意志こそが絶対だ。他者の要望に折れたり譲ったりしない性分なのは昔から変わらない。
だから、いつも俺が折れていた。そうしないと話が進まないから。
しかし、もう、そういうわけにはいかなくなってんだよ……!
「じゃあ、阻止する。俺が、自分自身の手で」
「……ふぅん」
数メートル先に立つ彼女と視線を絡み合わせる。決して逸らしてしまわぬよう、頑なに見つめ続ける。
…………俺は、ホントはずっと怖かった。ずっと恐れていた。
いつか、こうして……ミヌートと戦う日が訪れることを。
考えれば考えるほど、避けようのないことだとは分かっていたんだ。
世界を救うということは、すなわち悪魔王を止めるということ。その過程で『ドゥーム』随一の戦闘力を誇る彼女が立ちはだからないわけがない。
それでも俺は、子供染みた考えと分かっていながらどうにか回避できないだろうかと…………いや、もうやめろ。これ以上は神王の名が廃るというもの……!
「……顔色が悪いわよ。そのザマで、この私を止められるとでも? カッコつけるのも大概に……」
「──来い、フォルテシア」
ミヌートの声を遮り、王の証とも言うべき純白の愛剣を顕現させた。
恐らく初めて目視したであろう神王剣に対しても、彼女は一切怯む様子を見せない。
「……呆れた。ガルヴェライザに勝てたなら私にも勝てるって?」
俺は目を伏せた。その問いに答える気はない。
何故ならば。
「……今の俺は、神王だ。レムシオラやブラルマン、他にも多くの大悪魔を殺してきた……〈炎極〉のガルヴェライザだってそうだ」
「……だから?」
「あの頃とは、背負ってるものが違うんだよ。誰かの信頼、誰かの夢、誰かの命…………もう、止まれないんだ。世界を救済するその時まで、俺は止まっちゃいけないんだよ」
「……濁さず答えて。私に勝てると思う?」
「思わない」
「それなのに?」
「それでも──立ち向かうしかない……!」
碌に残っていない輝力を、必死に掻き集めて幽玄なる光を放つ。
絶対的に足りていない、分かってんだ、だとしても──!!
「『セラ=フォース』……ッ!!!!」
前方の“敵”へ向け、今俺にできる最大の力をもって。
奥義たる神の光剣を解き放つ──!
「可愛らしい光だこと……」
ミヌートは、右腕を擡げて閉じた日傘を掲げた。
たったそれだけ。
本当に、それだけで。
巨大光刃の尖端、奥義『セラ=フォース』を完璧に受け止めてしまったのだ……!
「なんっ……でっ……!?」
なおも力の放出を続けながら戦慄を露わにする。
ありえない……ありえないことだ! だって彼女は、魔力障壁を張っていないんだぞ!?
まさか、日傘の強度と自らの膂力のみで『フォース』を止めたとでもいうのか……!? あんな力感の無さで!?
「蛍の光みたい」
ぼそりと、何か呟いて。
彼女が軽く日傘を横に薙ぐだけで、『フォース』は容易く弾き飛ばされた。
「ぐぅっ……!?」
大元で剣を握っていた俺の腕ごと持っていかれる──まずい、ここまで崩されると……!
「さて」
涼しい表情を浮かべたまま、プラチナシルバーの髪が天の川のような煌めきを湛えてはためいた。
俺が瞬きするよりも更に速く──圧倒的に、速く。
「──な、」
次元が違う、とはまさにこのことか。
「時間」という絶対的指針すら疑うほどの超越的速度で、俺は完全に背後を取られていた。
急いで振り返ろうとする。もう間に合わないと知りつつもその姿を視界に収めようと首を動かす。
けれど。
トン、と。
慈しむような柔らかさで。
日傘の先端が、俺の背中を突いた。
──瞬間、視界が滅茶苦茶に明滅した
異様なまでの浮遊感。
比類なき衝撃が肉体の全てを突き抜けた。
骨が砕ける。
内臓が暴れる。
全身の血液が我先にと口から溢れ出していく。
「あッ……がっ……げぼぁ……ッッ!?!?」
黒ずんだ地面に倒れ込むと同時に、信じられない量の血を吐き出した。
「がはぁっ!! げほっ、ごぼっ、おごぁ……!!」
息が全く出来ない。身体中の血液が全て排出されるのではないかという勢いで吐血する。
軽く小突かれただけだ、もはや攻撃ですらない、それなのに何故、これほどまでに……!!
いや待て、そんなことより早く立て!! 隙だらけじゃないか!!
何としてでも彼女を止めろ、這いつくばってでも止めろ!!
俺がやらなきゃ神域は終わる!! 何のための救世主なんだっ……!!
俺が……みんなを……!!
「ねぇ、葉瑠」
摩耗する意識に手を差し伸べるような、ひどく優しい声。
血溜まりを這う俺のすぐ正面に、彼女は音もなく蹲み込んでいて。
「…………キミは、何のために頑張ってるの?」
黒いレースの手袋に包まれた、芸術的なまでに美しい両手で俺の頬を包み込んだ。
「……ごほっ、けほっ……はぁ……はぁ……」
「うん、ゆっくり深呼吸して。待ってあげるわよ、私とキミの仲じゃない」
「すぅ……はぁ……けほっ……」
「……落ち着いた? 声出せる?」
「……」
「ねぇ、答えて。今から殺されるのよ。最期の言葉になるのよ。包み隠さず私に応えなさい」
優しい声色で死を宣告する彼女は、やはりどこまでいっても悪魔なのだと思った。
けれど、俺は、そんな彼女を好きになったから。
「……た、助けなきゃ……俺は、神王だから……みんなを、助ける為に……この道を、選んだから……」
「…………そう」
小さく、小さく、呟いて。
血にまみれた俺の唇を、左右の親指で、丁寧に拭いつつ。
ミヌートは、ほんの微かに表情を和らげて。
「健気ね」
瞼を閉じ、ふんわりと、その唇を重ねてきた。
それは、この状況に似つかわしくないほど思い遣りに溢れた、優しい優しい口付けだった。
「……ふふっ」
数秒後、彼女はゆっくりと唇を離して、可笑しそうに笑った。
「キミの血、苦すぎ。ファーストキスが台無しよ」
呆然としている俺を余所に、ミヌートはのっそりと緩慢に立ち上がる。
「健気なキミに免じて、この場は退いてあげる。でも次は無いわよ、キミを殺していいのは私だけなんだもの」
未だ立ち上がることすら出来ない俺を尻目に、彼女は踵を返して遠ざかっていく。
何か言わなければ……そう思っているのに、肝心の身体が言うことを聞かない。
限界を迎えた肉体と精神が、強制的に意識を沈ませていく……。
コツ、コツ、コツ、コツ。
薄れゆく意識の中。
遠のく彼女の足音が、いつまでもいつまでも鳴り響いていた──
第七章 完




