真心
淑やかな海面。耳心地の良い漣。
平穏そのものと言える風景を視界一杯に捉えつつ、俺は傍らに座る相棒へ静かに聞き返した。
「俺の話……?」
俺の話をしよう、と言われても……それに“特異点”とは一体何のことだ?
「言葉通りじゃよ。儂はハルとハルの話がしたい」
頭に疑問符を浮かべる俺に対し、セラは穏やかな表情で俺の瞳に笑いかけた。
「ハル、其方は特別な存在じゃ」
「それは、まぁ、半神使になった時からよく言われてきたことだよ」
「うむ。そしてその半神使化が、神王たる儂の魂を受け入れられた大きな要因……なのじゃが、そもそも半神使になれた事自体、奇跡でもなんでもないのじゃ」
「……え?」
セラは雄大な海の水面と漆黒の空を交互に眺め、小さく息を吐くと、
「其方は半神使化を遂げたから特別なのではない、元々特別だから半神使になれたのじゃよ。奇跡などという不確かな言葉では其方に釣り合わん……そう、言うなれば──」
「──運命、ってか?」
「うむ」
……ばっかばかしい。こんな胸糞悪いことを、改めて確認させられるとは。
「つまり俺は運命に敷かれたレールを歩いてるだけの、システマチックな存在って言いたいわけだろ? いいよ、わざわざ言われなくても分かってる」
ぶっきらぼうに言い捨てると、セラは真顔で首を横に振った。
「それは儂の方じゃよ。其方は違う。其方は自分の意志で道を選んだ強き者。そこだけは履き違えるな」
強い口調で俺の言い分を訂正し、遠い昔に思いを馳せるように彼方を見つめる。
「まぁ一応確かに、儂も運命に選ばれた特別な存在じゃが、結局本物ではない」
「本物も偽物もねーだろ、そんなの」
「いいや、ある。その本物こそが“特異点”。其方のことじゃ」
俺はゆっくり大きく息を吸い込み、信頼する相棒の言葉を出来る限り噛み砕けるよう心を落ち着かせた。
「で、そもそも特異点って何?」
「うーむ、何かと聞かれると答えに窮するな」
「えぇ……」
そこが肝心だろうに。まぁ、セラのことは信頼してるけどさぁ……。
「と言うのも、本物……“特異点”だと儂が認めたのはこの世でたった三人だけじゃからな。儂の中で括りはあるのじゃが……」
「つまり、セラの中で本当に特別だと定義付けた奴を特異点と呼んでるわけか」
なんだ、ちょっと拍子抜けだな。特別扱いしたい奴をセラが便宜上そう呼んでるだけで、特異点であること自体はさして気にしなくても良さそうだ。
「その三人ってのは、俺も含めて?」
「勿論じゃ、そう易々とおってたまるか。それに、内一人に関してはハルほど確信しているわけではない故……確定しているのはハルと悪魔王の二人だけじゃ。二人は間違いなく“特異点”と断言できる」
「……待て、悪魔王もか?」
「うむ」
安心したのも束の間、悪魔王と並び称されて一気に不安が募っていく。
「神王」と「悪魔王」だから、じゃない。それならセラだって特異点扱いだ。つまり、あくまでも「月野葉瑠」と「ホロヴィア」が並び称されているということになる。それはまずい。よりにもよって彼とセットだなんて、真っ当なスケールの話とは思えない。
「悪魔王が特異点扱いなのは納得だけど、俺はそこまでじゃなくねーかな」
「ハル、惑星カルワリスでの一件を覚えておるか?」
俺とお揃いの純白の髪を手で梳きつつ、黄金の瞳を瞬かせて小首を傾げる。
カルワリスでの一件……? ブラルマンとの戦闘……じゃないよな、話の流れ的に。
「ブラルマンを倒したあと、突然悪魔王が出てきたこと?」
「うむ。あの一連のやり取りじゃよ。ハルが特異点だと確信したのはな」
そんな特別なことあったっけ!?
当時のことを急いで思い起こしていると、セラは可笑しそうに微笑んで俺の頭を撫でた。
「な、何?」
「退屈しないな、其方といると」
褒められ……てはないだろうな、うん。
「あの時、ハルは悪魔王の名を呼んだじゃろう?」
「えっ? あ、あぁ……呼んだけど」
「それこそが何よりの証左じゃよ」
悪魔王の名前を呼んだことが、特異点の証? たったそれだけのことで?
俄かには信じ難いけれど、だとすれば、もしかして。
「……呼べないのか? セラも、みんなも」
「呼べない。奴の名を呼べる存在を、儂は生まれて初めて見た」
そんなことが、ありえるのか。全く理屈は分からないが……。
悪魔王──ホロヴィア。
この名を口に出来るのが、俺だけ……?
……いや、でも、ちょっと待てよ。いくら何でも流石におかしい。
「……待ってくれ、セラ。そもそも、悪魔王の名前はお前から聞いたんだ。お前は呼べていただろ」
「儂が呼んだのは心象世界じゃろう、現実世界ではない。夢幻に等しい心の世界に言葉の制約など有りはしない。儂が言っているのはこんな心象世界での話ではなく、現実世界での話じゃよ」
「……じゃあ、例えば、現実世界で悪魔王の名を口にしようとすると」
「何も喋れなくなる。頭では分かっているのに、決してその名を「出力」することは出来ぬ。儂が思うに、おそらく悪魔王とそれ以外では存在のレベルが違い過ぎる……層位が違うとでも言うべきか。何にせよ、現世では儂どころかあのエメラナクォーツでさえ悪魔王の名を口にすることは出来ない。それがまごう事なき事実なのじゃ」
……そうか。あの時、俺が彼の名前を呼んだ時。
常に無表情な悪魔王にしては、随分妙な反応だとは思ったが……そういう事情があったのか。
「そら、周りを見てみろ」
「……ちょっと明るくなった」
海以外は相変わらず闇に包まれていた景色が、今では少しばかり明度が高まった。
今までこの闇が晴れなかったのも納得だ。この闇はつまり、俺自身の「未知」そのもの。俺が俺への理解を深めることで世界が拓けてきたというわけか。
だが、それでも全然足りていない。俺が特異点だという事実を明かされた今でさえ、俺の心象世界は仄暗く陰鬱としている。
もしかして俺は、元から根暗な奴……ってコト?
「なぁ、もっと明るくなんないのかこれ」
「ここまで頑固じゃと、一朝一夕では無理じゃなぁ」
「特異点の事、理解したのに?」
「まだ足りぬということじゃろう」
セラは困ったように苦笑いを浮かべていた。出来の悪い我が子を見守る親のようだと思った。
「まぁ、随分と根が深いのじゃろうな……ハルの心の闇は」
「そんなこと……ないと思うけど……」
こんな暗闇の中で言い訳をしても、説得力に欠けるのは明らかで。
それでも俺は認めたくなくて、自らの手の平を凝視するしかなくて。
「特異点だとか、神王だとか、そういうことではなく。もっと根本的な部分でハルは問題を抱えているとみた」
と言われても、原因なんか分かるわけがない。分かっていたら、そもそも心象世界がこんなに暗くはならない。
「ハルよ。前々から其方に聞きたいことがあったのじゃが」
「……何だよ」
「其方は、悪魔王に悪印象を持っておるか?」
「はぁ? そんなの……」
当たり前だ、と言おうとしてすぐに踏み止まった。
……いや、何故だ? 何故踏み止まる必要がある?
悪魔王ホロヴィアは、本気で世界を滅ぼそうとしている。それも「なんかつまんないから」とかいう馬鹿げた理由であらゆる命を奪おうとしているヤバい奴である。
そして俺は、彼を止める為に自らの生涯を捧げることとなった。俺がこんな道を歩まざるを得なくなった理由を紐解いていけば、元凶は疑いようもなく悪魔王だという結論に行き着く。単なる事実だ、そこに異存などあるはずがない。
憎悪を抱いて然るべきだ。
瞋恚の炎を滾らせて然るべきだ。
俺にはその権利があると思うし、それだけの理由もある。
なのに、何故。
「…………いや、別に、そこまでって感じ」
ぼそり、と。嘘偽りのない明け透けな気持ちが、他ならぬ俺の口から漏れ出ていた。
そして同時に、初めて俺は俺のおかしさに気付いた気がした。
「そうか……ふむ、そうなのじゃな」
セラは怒るでも呆れるでもなく、淡々と頷いて腕を組んでいた。
「幻滅させたか?」
「それがハルの本音なのだから仕方がない」
肩をすくめ、ゆったりと薄暗い空を見上げるセラ。
「……仕方がないという言い方は、適当ではないな。儂は……今、強く心を動かされている」
「……ん?」
どういうことだ?
「ハル……其方は悪魔王ホロヴィアこそが全ての元凶だということをきちんと理解しておるな」
「ああ、もちろん」
「それでいて悪印象を持っていない。それでいてここまで強大な力を得ている」
「……ええと、お前は何が言いたいんだよ」
要領を得ない言葉の数々に、俺は困惑気味にそう尋ねるしかなかった。
「……儂とハルは似たもの同士だと思っていた」
「実際似てるんじゃないのか? それが魂の融合条件の一つだと言ってたよな」
あの日のことは今でも鮮明に憶えている。セラと初めて出逢った日のことだ。
何故俺が魂の器として選ばれたのか、という質問に対し、セラは思考回路が似通っていることを要因の一つとして挙げた。
「……ここまで魂が溶け合える時点で、間違いなく儂と似通うところはあるのじゃろうが……」
「……なんだよ、はっきり言え」
煮え切らないセラを、上擦った声で急かす。
何を言おうとしているのか、全く分からない……なんて事はなくて。
薄々分かっているからこそ、緊張せざるを得なかった。
「其方は、儂と言うより………………ホロヴィアに似ている」
呟くように告げられた、その言葉は。
俺の存在そのものを揺るがすような、酷い暴言だった。
しかし、同時に。
なんとなく、受け入れてしまえる自分も、確かに介在していて……。




