女神と『ドゥーム』
家に戻り、少し休もうと自分の部屋に行こうとしたところでセツナが帰ってきた。
「ただいまハル」
「……ああ、おかえり」
当たり前だが、セツナはいつも通りだ。
ただの挨拶とはいえ、決して変わることのない味方がいてくれることの頼もしさをあらためて痛感する……って、あれ? セツナの背後に誰かいるぞ?
ま、まさかあれが……。
「突然だけど紹介するわね。こちら、地球を管轄する女神様」
「名はクライア。話は聞いているぞ、ハル」
セツナの背後から姿を現した瞬間、無意識に背筋が伸びた。
見た目は中学生くらいの女の子だが、醸し出される神秘的な雰囲気はセツナの比ではない。暴風の如き神々しさが全身に叩き付けられる。
これが……神か……!
「お、お茶でも出しましょうか」
「ハ、ハル、あんまり慣れないことするもんじゃないわよ。あたしが出すから」
「よい、座れ。茶を飲んでいる場合ではないのだからな」
冷たく張り詰めた水面のような一声に、俺達二人は硬直してしまう。
一瞥し、無言のままソファに座り込むクライア様を確認し、セツナと顔を見合わせながらおずおずと腰を下ろした。これではどちらが客人なのか分からない。
「ハル……まず初めに言わねばならんことがある。すまなかった」
開口一番、軽く頭を下げるクライア様の姿に俺は度肝を抜かれた。
神が人に頭を下げるものなのか、と。
チラッとセツナの顔を窺うが、特に驚いた様子はない。
少なくともこの女神は、神だからといって傲岸不遜な振る舞いをする方ではないらしい。
「他所の神の手助けに行っていてな。その神の管轄で暴れる大悪魔を撃退するために出払っていたのだが、そこをミラに突かれた。このようなケースを想定して厳重な防衛策を用意していたが、無理矢理突破されてしまったらしく……いや、言い訳はよそう。地球を管轄する神として、お主には申し訳ないことをしたと思っている」
「か、顔を上げてくださいクライア様。悪いのは……俺の姉、ですから」
俺が消え入りそうな声でそう言うと、ただでさえ静かな部屋がさらに静まり返ってしまった。
「……セツナから一応聞いたが、お主の姉がミラというのは確かなのだな?」
「は、はい。さっき俺のところに来てそう言ってましたんで」
俺の爆弾発言にセツナがあんぐりと口を開けた。至極当然の反応だと思った。
「な、何よそれ、どういうことなの?」
「さっき家まで来たんだ、姉さんが。確かに自分はミラだって認めてた」
セツナはまだ驚きっぱなしだったが、クライア様は顎をさすりながら冷静な面持ちで俺に問いかけてきた。
「どんな話をしたのか、聞かせてくれるか」
「はい、もちろん」
そうして俺は、姉さんと交わした会話をかいつまんで説明し始めた。
「…………そうか、分かった。うむ……」
一通り話し終えると、クライア様は何度か頷きながら瞼を閉じて小さく息を吐く。
「ハル。悪魔というのはな、多くは知能が低い。特に下級なんぞは野獣みたいなものだ。どんな悪魔も初めは下級からなのだが……元の記憶は吹き飛ぶことがほとんどでな。下級は知能が低い故に最も殺戮衝動に呑まれやすく、それに塗り潰されてしまうわけだ。だがお主の姉はその衝動に呑まれることなく、記憶を保ったまま異常なスピードで成長して大悪魔まで登り詰め、それなりの知性を得たという事になる。当初から目的としていたであろう、お主の幸せのためにな」
クライア様の言葉をじっくりと噛み締める。
確かに姉さんはとんでもなく恐ろしい悪魔と成り果ててしまったが……それでも最初は本当に俺の幸せを願ってくれていたに違いない。
死してなお、悪魔の本能に打ち勝ってまで。
「ただ、この星の現状を見ればわかる通りどう考えても奴は正気ではない。悪魔と成った影響で歪んだやり方しか出来なくなっているのだろうよ」
すると、眉間に皺を寄せたセツナが静々と話に割り込んできた。
「あの、クライア様。どういうおつもりですか? わざわざそんな話をして。まさかミラを見逃そうなんてことは……」
「馬鹿を言え。だが、ハルにだけは伝えなくてはならんことだ。元々人間だった者を討とうとしているのだぞ。地球の女神たる余が真実を伝えんでどうする」
「……はい」
渋々と引き下がるセツナを尻目に、クライア様は俺の方へ向き直る。
厳しくも優しい、女神然とした表情を浮かべて。
「ハル。お主の心中は複雑だろうが、はっきり宣言しておこう。奴を見逃す選択肢はない。今ここで見逃せば次はどれほどの化け物になっているか想像もつかんのだ。よいな?」
大きく深呼吸する。まだ生きていた頃の姉さんを思い浮かべ、次に公園で話した姉さんを思い浮かべた。
──ああ、大丈夫。ちゃんと自分の口で言えるさ。
「はい、どうか姉さんをお願いします」
深々と頭を下げた。
悪魔となった姉さんをこの目で見ても、それでも俺は、どうしてもあの人を憎み切れなかった。たぶん、これから先もそうだと思うけど……けじめはつけなくてはならない。
悪魔として狂う最愛の姉を一刻も早く解放することが、あの人のためにもなると信じて。
「うむ、よく言ったハル。お主は勇気ある人間だ」
柔らかく微笑むクライア様はとてつもなく頼もしかった。思わず跪きたくなるほどのカリスマ性だ。
「しかし妙ね」
突如、セツナが首を傾げてそう切り出した。
「イヴが知識ゼロでも最高の力を引き出せるよう最高の人間の命を使った、というのは分かるけれど、それなら地上の命を一掃する必要はないわ。残りの命は何に使ったのかしら」
「怪我を治す能力とか、霧で攻撃する能力とか持ってたんだし、イヴが他にも特殊な能力を沢山持っているとしたらそれらにリソースを割いたんじゃないか?」
「それにしたって消した命が多すぎるのよね。人に能力を付加することはミラにとってあまり難しい事とは思えない。何かもっと難しいことに使ったんじゃないかしら」
「……ん」
瞬間、何かに気付いた気がした。
うまく言い表せないけど、謎に包まれているイヴの正体について少し掴みかけたような……。
うーん、やっぱりまだ分からん……イヴについて何か掴めそうだったのに……。
「まぁ、イヴのことは追々考えればよかろう。ところでハルよ、ミラは焦っていただろうか?」
「えっ? い、いえ、特にそういう風には見えませんでした」
「ふむ……そうか。セツナを見逃したということは神の来襲を容認したのと同義だからな。それでも焦りが無いというのならば、よほど実力に自信があるのか……」
「でも、ミラはどれだけの神様が応援に来るかも把握していないはずですよね……」
「うぅむ……しかしミラなら、あるいは……」
あれ?
今の会話を聞いて思い出したが、セツナは今朝「多くの神様に応援を要請するつもりよ!」と言っていなかったか? なぜクライア様しかいないのだろう。
「あのー、他の神様はまだ来ないんですか?」
頭に疑問符を浮かべながら単刀直入に問い掛けると、クライア様とセツナは気まずそうに顔を見合わせた。うーん、察してしまったぞ。
「あの、もしかして……」
「そうよ。ミラ討伐のために来てくださったのは、クライア様ただ一人なの」
正直絶句した。
いや、だって、絶句するよこんなの。
確か、神が大悪魔にタイマンで勝つのはまず無理だって話だったよな……?
「ちょ、何泣こうとしてるのよ! ま、まずあたしの話を聞いて!? ね!?」
誤魔化すように俺のほっぺたを両手で掴んで訴えかけてくるセツナ。いやいや、その慌てっぷりが物語ってんじゃねーか。
「とりあえず聞いて。他の神様にはどうしても来られない事情があったのよ。前に悪魔の説明をした時、五階層のピラミッドを見せたでしょ?」
「ああ、アレな」
「あの時はスルーしたけど、今神域にいる神様を総動員して見張っているのが、大悪魔の一段階上の階層……『ドゥーム』よ」
おいおい、本当に大悪魔より上の階層があったのかよ。てっきりセツナが書き間違えたとばかり思ってたのに。
「ハル、『ドゥーム』というのはだな」
急にクライア様が説明し始めた。凛としすぎているくらい凛とした声に、反射的に背筋が伸びてしまう。
「分類的には大悪魔と同じだが、その中でも明らかにずば抜けた力を持つ四体で構成されている組織だ。この内の一体が確認されたために手の空いている奴らは全員出払ってしまった」
そこまで説明したクライア様は、妙にイライラしているようだった。一体何にご立腹なさっているのだろう。
「まったく、神域の奴らはどうかしている。『ドゥーム』がいたから何だというのだ。見張っているだけでどうにかなる相手でもなし、そもそも相手にもされない可能性の方が高いのだぞ。ミラの方が余程重要だというのに……阿保共が」
「あ、あはは……」
苦笑いするしかなかった。同僚への不満が溜まって愚痴るなんて、まるで人間みたいだ。この辺りが地球の女神たる所以かもしれない。
「ミラがこのまま成長すればかなりの確率で『ドゥーム』まで上り詰める。神域にとってはそれこそ最悪の事態だ。余だけでもそれを防がなければな……」
「あ、あの、でも……」
クライア様の心意気は涙が出そうなほど有り難いが、さすがに強大な悪魔である姉さんが相手では……。
「ハルの言わんとすることは分かる。だが、勝てる可能性はゼロではない」
「そ、そうなんですか?」
うむ、と小さく頷くクライア様。自信満々、というわけではなさそうだが、何かしら勝算があるのは確かみたいだ。
「クライア様はね、神域の英雄とも呼ばれるくらい凄い神様なのよ。単騎で大悪魔を倒したこともあるくらいなんだから」
「えっ!? 単騎で大悪魔を!?」
そうか! よく考えてみれば、同じ大悪魔でも強さに差があるんだから、神だって均一とは限らないんだ! 単騎で大悪魔を倒せるクライア様のような神だっているに決まっている!
「待てハル。盛り上がっているようで悪いが、余が一人で倒したのはミラよりも明らかに格下の奴だぞ」
驕ることなく冷静にそう伝えてきたが、さっきクライア様自身が勝てる可能性があると言ったばかりだ。きっと、何か物凄い方法があるに違いない。
「全く、キラキラした目で見おってからに。なぁセツナよ、この男はいつもこんな子犬のような感じなのか?」
「ええ。しかもメンタルはウサギ以下です」
「とんでもない奴が生き残ったものだ」
なんと……期待の眼差しを向けただけでここまでディスられるとは。
「と、とにかく、姉さんに勝つ方法ってのは……?」
「ああ、余をパワーアップすることだ」
「……そ、そうすか」
ぶっちゃけ反応に困った。
そんなに簡単にパワーアップ出来るなら姉さんはとっくに倒されているはずだし、これからパワーアップするために修行する、という意味なら悠長にも程がある。
「あー、ハル。たぶんあなたが考えているのとは違ってるから安心して」
「えっ、な、セツナ、いつの間に俺の心を覗けるようになったんだ?」
「あなたの顔見れば大体分かるわよ」
生まれて初めて以心伝心というものを体験した気がする……いや、なんか意味合いが違う気もするな。まぁいいか。
「地球の女神であるクライア様は、この星では飛躍的に力が増すの。ただでさえお強いクライア様がさらに強化されるとなれば、たとえ一対一でもミラと戦えるというわけよ」
「強化状態でようやく勝負になる程度だがな。依然として力の差があるのは間違いない」
神域の英雄とまで呼ばれる女神が十全の力を持って挑んでも、まだ届かない……姉さんは、どうしてそれほどまでに……。
「鉄は熱いうちに打つ。ミラとの決戦は二日後とする。よいな、二人共」
俺は片手を上げて、クライア様にお尋ね申した。
「もちろん構わないんですが、明日は一体何をするんですか?」
「うん? 軽く作戦を立てたりもするが……基本的にはセツナのための時間だ」
「セツナのための一日? なぁ、何のこと?」
「………………明日、話すわ」
妙に気にかかるな……。無表情を通り越してもはや無機質な顔付きだ。
今すぐ事情を聞き出したいところではあるが、この様子じゃ難しいか。明日必ず聞こう。
「さて、とりあえずお開きだ。大悪魔を追い払ってすぐにここに来たものだから、さすがに疲れが溜まっていてな。ハル、少し部屋を借りたい。案内してくれるか」
「あっ、はい!」
勢いよく立ち上がり、クライア様と共にリビングを出て、二階の空き部屋までの道のりを歩き始めた。
「あの……クライア様」
足を進めながら、俺は呟くように声を掛ける。
「なんだ? セツナの事なら本人から聞いた方がよいぞ」
「い、いえ……その、地球の女神様って、地球の色々な事を知ってそうだなぁって……」
「ほう、勘が良いではないか。この星の事なら何でも知っているとも。あらゆる生物、海、森、砂漠……全て余すところなく余の管理下だ。調べてほしい事があるなら言えばよい」
「……じゃあ、姉さんのこと、調べてもらえませんか?」
ピタリ、と。
クライア様の足が止まった。
俺は緊張で手を震わせながらも、恐る恐る振り返り──とりあえず怒ってはいないようで安心した。
「別にお主が知りたいというなら調べても構わんが……しかしなぁ。お主は姉が悪魔になった動機が知りたいのだろう?」
「は、はい、そうなんです」
「やめておけ。人が悪魔になる動機なんぞ、知っても辛いだけだろう。愛した家族ならなおさらだ」
クライア様の言葉はもっともだ。
だけど、それでも俺は……!
「お願いします、どうか教えてくださいクライア様。それを聞かないと俺は……姉さんをただの狂った悪魔として見送ることになってしまう。弟として、それだけは御免なんです」
たとえその話がどんなものだったとしても、事情があるから姉さんを見逃してくれ、なんて言いだすつもりはない。どんな理由であれ姉さんが犯した罪はあまりにも大きすぎる。
でも、だったら、俺のために悪魔になったという姉さんの事情を何も知らないまま、一方的な敵意を向けるのか?
いいや、出来ない。それは家族として間違っている。
「……よかろう。部屋に入って調べるとするか」
「あ、ありがとうございます!」
深々とお辞儀し、やがて目的の部屋に到達する。
部屋の中に入るなり、クライア様はドカリとベッドの上に座り込み、何やらブツブツと唱え始めた。
目を丸くする俺を余所に、クライア様は一心不乱に唱え続ける。
すると数秒後、ぽん、というやたらポップな音とともにクライア様の左手に分厚い本が顕現していた。
「ミラが人間だった頃の名を」
「え、あ、はい。月野凪です」
「ふむ、月野凪、と」
クライア様が姉さんの名前を復唱しながら立派な本の表紙を軽く指で叩くと、本全体が淡い光に包まれた。
「これでこの本は月野凪の情報が詰まった一冊となった。奴の人生で起きた事実が簡潔に記してある。その時奴が何を思っていたのか、といった心情などは載っていないからそこは了承するように」
そう言っておもむろに本を開き、パラパラと一人で読み始めてしまった。えっ、俺は!?
ヤキモキそわそわすること十分。クライア様は静かに本を閉じた。
同時に分厚い本は煙のように跡形もなく消えてしまった。俺は一文字も読んでいないってのに。
「すまんな、この本は余にしか読めんのだ。安心しろ、すぐに話す」
あぁ、良かった。そういう理由だったのか。
「話すが……ただし、決して現実から目を背けるな。お主の過ごしていた幸せな生活とやらは、根底から覆ることになる」
少しばかり哀しそうに、クライア様は悪魔になる前の姉さんについて語り始めた。




