この世にあの世があるのなら
ああ、そう、確かあの日。
強さを追い求め、数多の大悪魔を殺しまくる日々の中で、あの日のことはそこそこ印象に残っている。
とは言っても、おれにとっては大して思い出したくもない過去だったが、まぁ、こんな時くらいは思い出さなくちゃ締まらねェ。
「テメーがブラルマンか」
黒のスーツに黒の手袋、更には黒の外套を身に着けた人型の「何か」は、昏い声でおれの名を呼んだ。
伊達に無数の殺し合いをしてきたわけじゃない。おれは紛れもなく「強者」の位置に居る。あのクソムカつく銀髪女にボコられて以降は、実力を見抜く力も養った。
そのおれの眼力をもってしても、目の前の男を推し量る事が出来なかった。強いのか、弱いのかすら分からない。どういう存在なのかまるで見当が付かなかった。
「誰だ?」
「テメーの話は一応エメラナから聞いている。奴が理想とする悪魔像に最も近しい思想の持ち主だとな」
黒の男はおれからの質問に答えもせず、マイペースにそう述べた。
「「殺し」が生き甲斐なんだってな、テメーは」
「わざわざ確認されるほどのことじゃねェだろ。大抵の悪魔がそうだろうが」
「いや、稀だ。テメーみてぇな力のある大悪魔は必ず我に返って自己問答を始め出す。何故殺すのか、何故ここまで来たのか、何の為に生きるのか……上級以下はともかく、大悪魔はそういう生き物なんだ。そういう風に出来ている」
「随分と知ったような口を利きやがる」
「そりゃそうだろ、オレを誰だと思ってる」
「誰だよ」
「テメー如きに教える義理はない」
なんだコイツ!?
「まぁ、エメラナの直系悪魔に限ればその傾向が希薄なケースもあるが……テメーはわりかし正規の思考に則った悪魔らしいな」
「……チッ」
癪に障るが……しかし今のおれがあるのはあの青臭ェ時代があってこそだ。見透かされたようで腹は立つが、否定することは出来なかった。
「その葛藤を振り切って、今のテメーがある。さて、テメーはどう結論付けた?」
「別に、根本を見直しただけだ。おれは殺しは好きだが、それそのものが最重要事項ってわけじゃなかった。おれの最たる望みは「強者と戦った上でそいつを殺すこと」だったんだ」
「そうか」
……気のせいか? 今の一言だけ、ほんの少し穏やかな声色だったような。
「一つ、言っておく。テメーはエメラナクォーツを殺すことに執心しているらしいが……無理だ」
「現状はな。だが必ず殺す。そのためにおれは……」
「いいや、違う。違うな、ブラルマン」
黒の男はゆったりとかぶりを振って、初めておれと目を合わせた──何だ、その眼差しは。
「テメーはエメラナと戦う前に死ぬ。ある一人の男が、必ずテメーを殺す」
「……ハッ、くだらねェ。誰だそいつは? 『ドゥーム』でもない奴にこのおれが敗ける? ありえないんだよ、そんなことは」
「オレは“奴”に賭けてんだ」
これまでと一転して、まるで稚児のように。
黒の男は、大真面目な顔付きでそう嘯いた。
「……何にせよ、そいつがおれの前に現れるってんだな?」
「ああ、そう待たせやしねぇよ。そいつは近い内に必ずテメーを殺しに行く」
「ハッ! いいぜ、おもしれぇ! エメラナクォーツをぶち殺す練習台にさせてもらうか」
「好きにしろ。それと……最後に、もう一つだけ聞いておく」
男は、漆黒の手袋に包まれた右手を見つめながら、滔々とした口調で言葉を紡いだ。
「ブラルマン、テメーは「あの世」があると思うか? 死後の世界……魂の行き着く先が」
「……はぁ? んなもん、あるわけないだろ。死んだら無だ。特に悪魔はな。二度目はねェ、死ねば全部終わりだ。そこには善も悪も関係ねェ」
「……そうだな。オレもそう思う。たぶん、神域の奴らに聞いてもそう言うだろうな」
男は、何とも感情のない声音でそう溢し、外套を翻しておれに背を向けた。
「じゃあな。テメーと言葉を交わすのもこれが最期だ」
不思議とおれは言い返す気も起きず、奴の姿が消えるまでじっと視線を注ぎ続けた。
結局、あの男は誰だったのか……『ドゥーム』の一角か? いや、なんとなくだがそんな感じではなかった。もっとこう、何か別の……。
……まぁどうだっていいか。生きていりゃ、いつかは巡り合うもんだ。来たるべき敵をぶち殺し、奴の目は節穴だったと大口開けて笑ってやるぜ。
……なんて、思ってたわけだ。
確固たる事実として、おれの首は地に堕ちた。即時再生は……無理だろうな。あの銀髪女の小細工とはまた別種の力で再生が滞っている。
まったく、現実ってのは訳のわからねぇことばっか起きやがるな……。
だが……何故だ?
おれの目的はまるで果たせなかったのに。
エメラナクォーツを殺し、あの銀髪女を殺す……その一心で、どんなに惨めになろうとも生き続けてきたってのに。
それが完全に潰えたってのに、何故おれは。
こんなにも……「死」を受け入れているんだ?
死んだら終わりだ。後には何も残らない。「あの世」なんてもんは存在しない。信じようとも思わない。
何が何でも再生すべきだ。出来なくともその努力くらいはしろ、何を冷静に受け入れているんだよ、おれは。
死にたくなんかないだろう?
負けてなんていられないだろう?
だって、おれは、もっと……。
「ブラルマン」
不意に聴こえた、おれの首を落とした者の声。
おれの眼はすでに元来の機能を有していない。入ってくる情報は、急速に衰え沈んでいく聴覚のみに頼る。
だからだろうか。如実に分かった。
コイツが、おれを憐れんでいることに。
「……再生しないのか? 今なら出来なくはないだろ」
……………おれは、とうに機能を失ったと思われる声帯を無理矢理震わせた。
「……別に。飽きたんだ、もう」
「飽きたって、何に」
「さぁな……なんかもう、分からねェ。おれは、全力を出して……出し尽くして……」
そこまで言って、ようやく腑に落ちた。
それは多分、おれの永きに渡る人生において、初めて湧き出た感情だった。
あぁ……おれは……燃え尽きちまったんだ。
全力を振り絞って戦い、幾度も進化を重ねたうえで敗けた。完全に敗北した。
悔しい。そりゃあ悔しいとも。
けれど、同時に。
もう、全部、やり切ったと。
どこか清々しささえ感じていて。
そんな自分をどこか誇らしくすら感じていて。
一体何がそんな感情を齎しているのかを鑑みると。
結論は、たった一つだった。
神王・ツキノハル。
コイツが。あの漆黒の男が賭けていたコイツが。
おれの全力を尽くすに相応しい好敵手だったからだ。
だから、おれは、こんなにも……潔く在れる。
「……なぁ、オイ、神王様よぉ」
「何だよ」
「テメェは「あの世」なんてもんがあると思うか?」
「あるね、間違いなく」
……ハッ! 即答かよ、コイツ!
「根拠は?」
「俺の好きだった人が、夢に出てくるから」
「……バカみてェだな」
「うん、俺もそう思う。でもあるよ、確実に」
「そんなもんかねェ」
「そんなもんさ、ブラルマン」
もう、眼などとうに視えていないけれど。
先程まで殺し合いをしていた相手に対するものとは思えないほど、奴は穏やかに微笑んでいる気がした。
……………………あぁ。
このおれが。この大悪魔ブラルマンが。
こんなにも穏やかな死を迎えるなど……あってはならない。許されてはならない。
漠然と。しかし確信を持って、そう思う。
死に瀕した今になって、生まれて初めての感情が火を噴いたように湧き上がっていた。
こんな死に体で、眩い希望を抱いてひた走るガキのような気分になるなんて……余りにも滑稽で、どうしようもなく愚かしく、無様で惨めな存在だと思った。
結局、おれは……おれも所詮は在り来たりな生物でしかなかったのだと。別に特別なんかじゃなかったのだと。
他の奴等と同じだったんだ……きっと、生まれた時は……。
もう、思い出せないけれど……思い出そうともしなかったけれど……おれもかつては、みんなみたいに……。
「──殺せ」
「……」
「どうした。とっとと殺せ」
「……もう、崩れ始めてるよ」
「……なんだ、そうか。もう感覚もねェな」
「結局さ、何で再生しなかったんだよ。時間が経った今なら出来ないことはないだろ?」
「さっきも言った。おれはもう疲れたんだ……色々、全部、疲れた。テメェがとっとと消してくれりゃ楽なのによ」
「やだよ。穏やかに死に行く命に追い討ち掛けるほど腐っちゃいないさ」
「……このおれを一端の生き物扱いしてんじゃねェよ」
「嫌なもんは嫌」
「……クソガキが」
いよいよ意識が遠のいていく。
たとえ、コイツの言うような「あの世」なんてもんがあったとして。
そして、それが天国と地獄に分かれていたとして。
おれは弁解の余地もなく地獄の最奥に沈むだろうが、それでも。
……それでも、「完全なる無」よりは、退屈しねェ分マシなのかもな……。
「リスタート、か」
最期に、ポツリと言い残して。
肉体の全てが崩れ、灰となり、天へ舞い上がる。
消え行くおれが、この世で最期に見た光景は。
何とも禍々しくて悪趣味な、紅天の月。
こんなおれにピッタリの、クソみてェな空だった。




