月業
「よし、到着! さぁ、あそこのベンチに座ろうよ」
まるで無邪気な子供のようにぴょんぴょんと弾む姉さんを見て少したじろいだ。
こんなにはしゃいでいるところは一度として見たことがない。
「ほら、座った座った。いやー、ようやく落ち着けるね。今日はいい天気で何よりだよ」
「……なんでわざわざ公園まで?」
「別に大した理由じゃないよ。私、あの家には極力入りたくないの。それだけ」
相変わらずニコニコとした表情を崩さずに言い放つ。
笑ってはいるものの、思わず息が詰まりそうなほどの底知れない迫力があった。
「そうだ、最初に確認しておきたいんだけど、神使の女から私のこと聞いた?」
「……聞いたよ。ミラっていうやばい悪魔になってるって」
「うん、そうだよ。話す手間が省けて良かった」
臆面もなく自分が悪魔だという事を肯定した。九年ぶりに出会った弟の前でも全く負い目に感じていなさそうだ。
「うーん、それにしても葉瑠くん……身長伸びたねぇ。私が人間だった頃よりも、もう葉瑠くんのが年上かな?」
「……そうだな。俺、今年で十七になった」
「私は十六で死んだんだっけ? もう千年以上前だから細かいことは忘れちゃうな。まぁ何はともあれ、立派な男の子に成長してくれてお姉ちゃん嬉しいよ。ほんと、かっこよくなったね」
このとりあえず褒めまくる感じ……昔からこんなんだったな、姉さんは。
「んで、どう? イヴは」
「は?」
唐突すぎる話題転換に面食らう。なぜ急にイヴの話を……?
「は、じゃなくて。私が一番葉瑠くんと話したかったことだよ。イヴ、どう思った?」
どうって……そりゃあ……。
「めちゃくちゃ綺麗で可愛い女の子だと思ったけど」
「そう、良かった!」
今日一番の笑顔だった。自分の事のように嬉しそうだ。
「あの子、葉瑠くんの婚約者だからね」
「そう……んえ?」
今、俺には全く縁のないワードが聞こえた気がしたが……?
「あら、イヴから聞かなかった? あの子ったら恥ずかしがっちゃって」
とても冗談とは思えない姉さんの口振りに、俺はイヴとの記憶を探り――ハッとした。そうだ……そういえばそんな素振りがあった。
浮気だの不倫だの、この子は何を言っているのかと思っていたけど……あれは俺を婚約者扱いしてたってこと!? ほっぺを膨らませていじけたようにセツナとの仲を聞いてきたのは、つまりそういうこと!?
うわなにそれ、めっちゃ可愛いじゃん!!
「ふふ、どうやら満更でもない感じだね。よきかなよきかな」
「えっ!? い、いや、えーと……ていうかどういう経緯でそうなったんだ!?」
「『私の弟と結婚したい? いいけど?』みたいな感じで」
「大雑把すぎるだろ!」
「まぁまぁいいじゃない。私もね、あの子なら葉瑠くんのお嫁さんに相応しいと思ったから、選んだんだよ?」
衝撃の連続すぎて頭が混乱しそうになるが、今一度イヴと俺の結婚について考えてみるとちょっと冷静になれた。イヴと俺なんかじゃ釣り合いがとれるわけなくね? と。隣に居る姉さんは相応しいだのと偉そうなことをのたまっているけども。
「イヴは葉瑠くんのためなら何でもするって言ってるし、実際できるんだよ。そうだ、イヴのオルガンを聞いたんでしょ? 昔ピアノを習っていた葉瑠くんの耳には、どう聴こえたかな?」
「あぁ、あの演奏は……神がかってた。世界最高と言っても過言じゃないくらいに」
「そうだろうね。過言云々じゃなく、実際にあの子の演奏は世界最高で間違いないよ」
青空を見上げて体を揺らしながら、姉さんはそう断言した。
どういう根拠なんだろう? 姉さんは音楽に明るいわけではなかったはずだけど。
「でもイヴはね、何も音楽に人生を捧げてきたわけじゃない。だってあの日、あの子は初めて鍵盤に触れたんだから」
「……なんだって? そんな馬鹿な」
「でも事実だよ。言っておくけど、あの子が世界最高なのはオルガンだけじゃないよ? あの子はやろうと思えば何でもこなせる。たとえそれが初めての事だとしても、一切知識が無かったとしても、全てにおいて最高のパフォーマンスを発揮できるんだよ」
あらゆる分野で知識も無しに世界最高のパフォーマンスができる?
凄まじい才能の持ち主が血の滲むような努力を重ねて、それでも到達できないかもしれない領域に一瞬で辿り着けるって?
ありえない、そんなのは人間じゃない。そんな傲慢が許されるのは漫画の世界だけだ。現実はそんなに甘いもんじゃないんだ。
「姉さん、イヴは何者だ?」
「えっ!? 姉さん!? 今、そう言ってくれたよね!? あーもう、嬉しいなぁ。葉瑠くんにまたそう呼んでもらえるなんてなぁ~」
「はぐらかさないでくれ!」
思わず大きな声が出てしまったが、そんなことは気にしていられない。
じぃっと、生前では決してありえなかった眼差しを姉さんに向けた。
「もぉ葉瑠くんたら、本当に嬉しかったのに……ま、答えてあげるけどね。イヴは人間だよ、あなたと同じ。人間以外をあなたのお嫁さんにしようとはしないよ。むしろ人間以外とくっつくのは許さない」
「俺を助けてくれた神使──セツナもイヴは人間だと言っていた。だけど普通の人間ではないとも言っていたし、俺もそうだと思う」
「えー、嫌なの? 葉瑠くんが不満を抱える要素なんてあの子には一つもないのに。顔も良いでしょ、胸も大きいでしょ、性格も良いでしょ。そのうえ家事だってこなせるし、お嫁さんとして不満があるとは思えないけど」
「別に嫌とかじゃない。俺は……不安なんだ」
「あー、もしかして。夜の営みに不安があるんだね? イヴにそういう知識が無いからとみくびっているんでしょ。大丈夫だよ、知識は無くてもテクニックは世界一のはずだから」
「そんな下品な話をしているんじゃねーよ!」
叫びながら、内心俺はかなり傷付いていた。
姉さんはそんな下ネタを言う人ではなかったはずなのに……やっぱり、変わってしまったんだな……。
「俺のことを知っていたり、何でもかんでも完璧にこなしたり、訳の分からない力を使えたり……そんなイヴを不審がるのは当たり前だろ。なぁ姉さん、そもそも姉さんは、一体何がしたいんだ? 何のためにみんなを消した? 何のために俺に婚約者を? 教えてくれよ、一体何のために……なんで、悪魔なんかになったんだよ……なんで……俺……もう全然分かんないんだよ……」
両手で顔を覆い、がっくりとうなだれる。
こんな事を今の姉さんに言っても俺の望む答えなんて返ってくるはずもないのに。
姉さんは無言のまま、トントンと俺の背中を叩いた。
服の上からでもはっきりと分かるくらいに、その手は冷たい。
「全部葉瑠くんのためだよ。葉瑠くんが幸せになるためなら、私は何でもすると決めたの。千年前から、ずっと……ずっとね」
「……は? なんだよそれ。俺以外のみんなを消すことが俺の幸せだって? 冗談も大概にしてくれ! 姉さんは俺以外の人に何の感情も持ってなかったのか!? あんなに優しかった父さんや母さんにも!?」
鋭い口調で問いただすと、姉さんは真っ白な髪をくしゃりと掴みながら嘲るように冷たく笑った。
「もちろん。私にとって葉瑠くん以外は偽物でしかなかったから。特にあの夫婦は私がこの世で最も嫌いな生き物だよ。あんなのが葉瑠くんのそばにいようだなんておこがましい。虫唾が走る」
ここにきて、初めて姉さんの声に熱がこもっていた。
再会以来常に飄々とした立ち振る舞いを見せてきた姉さんが、それを崩さざるを得ないほど意識する要素が俺の言葉の中にあったんだ。
「葉瑠くんの隣にはイヴさえいればいいの。ただの人間も神使も悪魔も、全部相応しくない。あなたにとっての最高の幸せは、この平和な世界でイヴと一緒になることなんだから」
「勝手に決めてんじゃねーよ! 俺はなぁ、穏やかで平和な毎日を過ごしてたんだ! それをこんな風にぶっ壊しておいて……!」
「平和? あはっ……それはおかしいよ。あなたのそばには、おぞましい殺人鬼がのうのうとのさばっていたのに」
一瞬、言葉を失った。
俺のそばに、殺人鬼?
何のことだ? 何を言っている?
「私の頭がイカれてると思うのは勝手だよ? だけどあなたが何も知らないという事も事実なんだよね。別に葉瑠くんを責めるつもりなんてないけど」
無感情というほかない声音でそう言うと、ふっ、と小さく息を吐きつつベンチから立ち上がった。
「人間なんて簡単に信用しちゃいけないよ。あれほど愚かしい生物はない。その点イヴは特別だね。あの子は決してあなたを裏切らない。あらゆる危険からあなたを守れるだけの力を与えた。あらゆる物事に適応して最高の力を引き出せるようにもした。あなたの隣に立つ者として相応しい力を、あの子の望む通りにね」
姉さんはもう一度自身の白い髪に手を伸ばし、優しく手で梳きながら瞼を閉じた。
「そんなにイヴのことが知りたいなら教えてあげようか、葉瑠くん」
そうして、姉さんは。
血に濡れたような瞳を俺に向けて。
いたずらっぽく微笑みながら、唄うように告げた。
「私は地上の生物を犠牲にして、イヴを絶対的な天才に仕立て上げたんだよ」
──時が、止まったのかと思った
たった今、俺は確信した。
この人は。
いや、この恐ろしい悪魔は。
本当に、擁護のしようもないほどに、壊れてしまっているのだと。
「イヴがあなたに相応しい人になりたいと願ったから、私はそれに応えてあげようと思った。この地上に生ける命を消すと同時に、その命をイヴのために有効活用したんだよ。あの子が知識も無しに何でもこなせるのは、世界最高の技術や能力を持った人間の力を自在に引き出せるから。どう? 知りたいことを知れて嬉しい? ねぇ、葉瑠くん……」
目を大きく見開いたまま、しばらくの間真っ赤な瞳を凝視し続けた。
姉さんもまた、一秒たりとも目を逸らすことなく俺の視線を受け止めていた。
「イヴは……それを知っているのか?」
長い沈黙を打ち破ってようやく出てきた言葉がそれだった。
姉さんを非難するよりも、まずそこが気になった。
「今の自分が、莫大な命を犠牲にして存在しているんだっていう自覚はあるのか?」
「ないよ。あの子は無垢な可愛い女の子でしかないからね。そもそも地上を一掃して以降教会から一歩も出していないから、こんな風になってるって知らないし。あ、それについては神使の女のせいだよ? まだ不安定だったあの子に刺激を与えるようなことをして、定着しかけていたはずの魂に不具合が生じたんだよ。ほんと、いい迷惑だよね」
俺はゆっくりと瞬きしながら小さく息を吐いた。こういう時こそ頭は冷静になっておかなくてはいけない。
「優しいイヴがそれを知ったら、どう思うかくらい分かるだろ?」
「うん、だからイヴには内緒だよ?」
しーっと、子供っぽく人差し指を唇に押し当てる姉さんには、はっきり言って心底呆れてしまった。もう怒る気力も湧いてこない。
「……よく分かったよ。今の姉さんは、俺のことも、イヴのことも、全然まともに考えてない。悪魔になってどうかしちまったんだって……よく分かった」
すくっと立ち上がり、俺は姉さんに背を向けて歩き始めた。
「どこ行くの、葉瑠くん」
「決まってる、自分の家だ。もうすぐセツナが帰ってくる」
「あぁ、あの神使? 葉瑠くんのメンタルケアをしてくれてたみたいだから、ずっと見逃しておいてあげたけど……イヴに手を出したからにはもう許すわけにはいかないからね? 次私の目の前に現れたらもう容赦はしない。今度は確実に殺すから」
最愛の姉の口から放たれた「殺す」という言葉に、ギリッと奥歯を噛み締めた。
砕けてしまいそうなほどに、強く。
「俺の姉さんは……九年前に死んだ。俺はセツナ達に協力するよ」
「ふーん、そうなんだ。まぁ、イヴと最終的に一緒になってくれさえすれば、私のことはどう思ってくれても構わないんだよね。葉瑠くんのそばにいるつもりは元々無かったし」
その言葉を聞き届け、立ち止まっていた足を進めようとした瞬間だった。
教会で見た漆黒の怪物が俺の目の前に立ちはだかっていた。体の隅々まで震え上がるような凄まじい威圧感を放ちながら。
一瞬で姿を変え、ここまで移動してきたというのか?
「ねぇ、葉瑠くん。私を嫌うのはいいけど、イヴには会ってあげてね」
これまでとは打って変わって禍々しい声でそう言い残すと、音もなく俺の前から姿を消した。
それから数秒の硬直を経て、俺は膝から崩れ落ちてしまった。
「……あ、れ……? なんで……泣いてるんだろう……」
惨めに背中を丸めて、自分でもよく分からないまま、ただひたすらに泣いた。




