刹那の記憶
世界がひっくり返る。よくある慣用句だ。
俺はこれまで幾度も奇妙奇天烈な体験をしてきたけれど……心の底から「世界がひっくり返った」と思ったのは初めてかもしれない。
目の前で名乗りを上げた少女は、それほどの衝撃を纏っていたのだ。
「……葉瑠? わたくしの自己紹介、ちゃんと聞いて頂けました?」
「聞いたよ、聞いたけど……尚更意味が分からないよ。セツナ、だよな……どう見ても……」
「わたくしはカリンですわ」
何だ……? 目の前の少女がとぼけているようには見えない。なら何だ? どういうことだよこれ、理解不能だ。もしかして俺だけ異世界にでも飛ばされたのか?
「セ、セラ……おい、お前は分かるのか? お前の打ち立てた仮定はこの通りだったのか?」
“いや、すまぬ。儂もよく分からない。カリン=ラフォンテーヌ……誰だ?”
「なんだよ、お前も分かんないのかよ。じゃあどうすんだよ、今俺の目の前に立ってるのは誰なんだよ?」
「あの、少し落ち着いてくださる? まずは座りませんこと? 食事でもしながら、どーんと腰を据えて話をするべきだと思いますわ」
「……は……あ、あぁ、そうしよう……」
思考回路がショートした俺は、言われるままぐったりと椅子に座り込んだ。セツナ……いや、「カリン」はにこやかな笑顔でテキパキと動き、眼前のテーブルに豪勢な料理の数々を並び立てていく。
ずっと一緒に暮らしてきた俺だから分かる……この料理は、どれもセツナと同じものだ。間違いなく同一人物が作ったものだ。
「さぁ、食べますわよ」
「……いただきます」
朝食にしては大変バリエーション豊富な料理の数々は、予想に違わぬ味がした。とにかく美味い、絶品だ。
「相変わらず美味すぎる。絶対にセツナの料理だよ、これは」
「わたくしの料理ですわよ。今までもずっと……ね」
上品な佇まいでパンケーキを切り分け、口元へ運ぶセツナ……ではなくカリン。見ているこちらの身が引き締まるほどの美しい所作だが、今の俺は彼女の発した「ずっと」という言葉にしか意識が向かなかった。
「貴方が存じているかは分かりませんが、通常、使用人が主人と共に食事を摂るなんてありえませんわ。わたくしが何を言いたいか分かります? 葉瑠」
「そりゃあ、俺はセツナの主人でもカリンの主人でもないし」
「ですわね。つまり、これは貴方をわたくしの正式な家族と見込んでの団欒ブレックファーストなのですわ」
朗らかで、一切邪気の無い表情。まるで、セツナからミステリアスさを取っ払って社交性をプラスしたようだった。
見た目はまんまなのに、人格だけが変わっている……? であれば、導き出される結論は……。
「セツナは、二重人格だったのか……?」
今起こっていることを客観的に鑑みた結果、恐らくこれが最も正解に近いはずだ。
そう思いながらカリンの顔を見つめる。しかし彼女は意に介さず、にこやかに笑みを滲ませてスープを啜るだけだった。
「ま、そう思うのも無理はありませんけれど……違いますわね。それに、わたくしの他にもう一人居るんですのよ」
「……えっ、もう一人? セツナのことじゃなく?」
「ええ。葉瑠には申し訳ありませんが、その「もう一人」について教える権限がわたくしにはないのです」
「け、権限?」
「そうですわ。この身体、色々と複雑なんですのよ」
“……………そういうことか”
ちんぷんかんぷんな俺を余所に、頭の中で心底から納得している声が聞こえた。自分が立てていた仮説の正しさを確かめたかのような、そんな声音で。
「あ、それと、葉瑠」
「な、なんだ?」
「葉瑠にとっては、今日がわたくしと初めての対面だと思いますけれど、わたくしは違いますわ。わたくしはね、貴方を家族だと認識していますのよ」
「えっ……?」
「わたくしはずっと見ていましたわ。貴方が優しい人で、その分とっても傷付きやすい人だってことも」
まるで聖女のような、慈愛に満ちた表情。この世に憎むべきものなど一つも無いと言わんばかりの、圧倒的な透明感。
セツナの顔だからか……? いや、違う、何だこの違和感は?
「一点、申し上げますわ」
この家のどこにそんな物があったのか、高そうな純白のナプキンで口元を拭いつつ、カリンは凛然とした声色で言い放つ。
「セツナは多重人格者ではありませんわよ」
「……いや、でも」
「現状、貴方はセツナを多重人格者だと思っている。ここに異論はありませんこと?」
「……ああ。今、俺はそれを前提にして考えてる」
「その前提は今すぐポイッとすべきですわ。セツナの人格はただ一つしかありませんのよ」
「……だとすれば、もう一つの予想の方だ。俺、もう一つ考えがあるんだよ。もしかしてカリンは、セツナが人間だった頃の人格なんじゃないか?」
セツナは、一万年以上の時を過ごす内に過去を忘れてしまったと話していた。
失われたかつての記憶、かつての自分。それこそが「カリン」であり、今回何故か表層に現れたのではないか。
「率直に言ってハズレですわ」
「なっ……それなら一体……」
「いいですか葉瑠。わたくしと「もう一人」は、もっと別の……」
と、そこまで言いかけて、カリンは溜め息を吐きながらかぶりを振った。
「……むぅ、やはりわたくしの権限ではここまでが限界のようですわね。あの子がノイズだらけなせいで、「彼」が設計した奇跡的なバランスが瓦解しかけている……まぁ、そのお陰で葉瑠と言葉を交わせたのは嬉しくもありましたが……しかし時期に浮上するはずですわ。あの子が「浮上させる」と言った方が正しいのか……ともかくあの子はもう厳しいですわよ。恐らく次が最後でしょう、完全に潮時ですわ」
可愛らしい困り顔でブツブツと虚空に呟く様は、異様と称する他ない光景だった。それに、内容も要領を得ないものばかり……これは独り言か? それとも……。
「っと、葉瑠。わたくし、もう時間がありませんわ。残りの料理は残さず食べてくださいまし。それくらいの量なら大丈夫ですわよね? だって葉瑠はわたくしの料理が大好きで、その上貴方の好物ばかり作っているんですもの」
いつまでも見ていたくなるような柔らかな笑顔を浮かべたカリンは、静かに椅子から立ち上がってソファの方へと移動していく。
「ま、待ってくれ! まだ俺、何にも分かってねーよ! カリン、お前は……」
「ふふっ、そんなに焦らなくて結構ですわよ。この分だと、きっとすぐにまた会えますわ。その時はもっと沢山お話しましょう。セツナのこととか、あとお嬢様のこととか」
「……は」
…………『お嬢様』?
そのワード、確か……。
「あら? 話していたでしょう? 旅館の庭園で、真夜中に。葉瑠とお嬢様の二人で、仲睦まじそうに」
「…………!!」
絶句した。旅館に泊まったあの日の朝、虚ろな目をしたセツナが呟いた言葉を、俺はずっと不可解に思っていたんだ。
あの時彼女は、確かに『お嬢様みたいだった』とそう零していたんだ。やっぱり、あれは聞き間違いじゃなかった……つまり……。
「……カリン……お前は……何者なんだ……?」
「ですから、ハート家使用人のカリン=ラフォンテーヌですわ」
「だからそのハート家ってのは何なんだよ!?」
「ですからお嬢様の……」
そこまで言いかけた瞬間、ふっ、と糸が切れたようにソファへ倒れ込むカリン。慌てて駆け寄って状態を確認するも、呼吸や脈は正常そのもの。どうやら眠りに着いただけのようだ。カリンが先程口走っていた「時間切れ」というやつか。
「……おい、何がどうなってる、セラ」
柔らかな桜色の頭を優しく撫で付けながら、鋭い口調で問いただす。別にセラに対して怒っているわけではない。ただ……感情のぶつけ所が二心同体を謳う彼女にしかなかっただけだ。
“……まず一つ。セツナは真っ当な神使ではない”
「知ってるよそんなことは」
“そして二つ。セツナという神使には“元”が無い”
「……元? どういう意味だ」
“通常、神使には「生前」があるじゃろう。奴等は皆普通の生物として生まれ、普通の生活を営んでいた。それらの魂は死後、神に選ばれて神使に転生する……知っておるな”
「……セツナに元がないってことは、つまり」
“そうじゃ。セツナという神使には、生前がない”
……生前が、ない。生きた過程がない。
何だそれは。だったらセツナはどうやって神使になったんだ? どこから生まれてきたというんだ?
おかしい。いくら何でも辻褄が合わない。
「でもセツナはこう言ってたんだぞ。「昔は確かに人間だった頃の記憶があった」って。生きている内に忘れていっただけだって。生前がないだなんて、そんな……」
“この期に及んでセツナの言葉を真に受けるな、往生際が悪い。セツナはそういう認識だった、というだけじゃろう”
馬鹿な……だとしたら、それは……。
「あまりにも、残酷過ぎる……!!」
セツナは別に過去を忘れたわけではなかったとしたら。そんなものは元より存在しなかったのだとしたら。
彼女は以前、「人間だった頃の自分には家族や友人がいた」と口にしていた。たとえ忘れてしまったとしても、その事実は孤独なセツナにとって、間違いなく心の拠り所となっていたはずだ。
「あり得ない……こんな、こんなことが……許されて良いはずがない……!!」
無意識のうちに拳を握り締めていた。
セツナの命を、心を、人生を。
一体何だと思っていれば、こんな仕打ちを与えられるんだ?
“神域へ行け。詳細はパルシドから聞く……そうじゃろう?”
「……ああ、その通りだ」
大きく深呼吸をし、瞼を閉じる。
他ならぬセツナのことだ、熱くなるのは仕方ない。だが決して冷静さは失うな。
俺は神王だ、罷り間違っても仲間割れだけは起こすな。実際、セツナのこと以外ならパルシド卿は問答無用で良い奴だと思う。腹を割って話し合えば、必ず分かり合えるはず……そうだ、逆に考えろ。彼ほどの人格者がそうせざるを得ないほどの、特殊な理由があるはずだ。あって然るべきだ。でなければ……。
「……よし」
“落ち着いたか”
「……ある程度な。行くぞ、『セラ=ララステラプラニカーナ』」
もはや言い慣れてしまった長ったらしい呪文を唱え、真実へ繋がるゲートを開く。
突入の直前、ソファで安らかに眠る家族の顔を見つめた。
待ってろよ、全ての真実が明るみになれば、きっとお前は元通りになる……そんな気がするからさ。
どうか、俺を信じていてくれ。
俺とお前は本物の家族……そうだろ? セツナ。




