謗りを受けても書くべきこと
書くことへの批判を間違いだと主張していますが、批判される方にも主張はあると思いますので、一概に間違いとは言い切れないとも思うのです。
ですが、あえてエッセイ本文では間違いだと主張します。
創作の自由は他者を傷つけない限りは守られるべきだと思うからです。
ですが、この「傷つけない」の範囲が難しく、本旨においては事件と関連のないものを結びつけて考えることは「拡大解釈」だとのスタンスです。
勿論、反論もあると思います。
安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、その生涯を閉じることとなりました。
故人のご冥福をお祈りいたします。
そして、このような凶行を決して許してはなりません。
この事件をもって、社会風刺的な作品や、テロリストが登場する作品などを執筆することに、躊躇いの気持ちが出る方もいると思います。
かく云う私もそうです。
不謹慎と言われるかもしれない、そもそも不謹慎ではないか、そんな不安が頭をもたげます。
ですが、私は書くべきだと思いました。
そして同様に、そのような批判をすることは間違いではないかと。
もちろん、今回の事件をもとにコメディにするといったことは遺族や故人に失礼ですし、不確かな情報を拡散して混乱を招くようなことは控えるべきでしょう。
ですが、全く関係ないものにまで、「こんな事件があったあとに不謹慎だ」と自粛を強要するのは間違いだと思います。
作家本人が自らの意思で自粛するのは問題ないと思います。作者本人の意思で書くこともまた、問題ない筈なんです。
今回の犯人の目的も動機もわかりませんが、この一件で自由な創作が阻害されるなら、それは自由の敗北だと思うのです。
自らが不謹慎と感じて自粛するのは「個人の意思」ですが、事件と関わりない創作物を批判するのはおかしいと思いますし、そうした批判を恐れて、筆が止まってしまうのは悲しいことです。
凶弾に倒れた安倍晋三元首相
言葉の凶弾に自殺した多くの方々
身勝手に人を傷つけ殺す社会が、自由で伸びやかな議論を妨げ、幅広い表現に枠を作っています。
他者を傷つけない配慮は大切であり、実際の暴力は絶対にあってはなりません。
ですが、だからこそ、誹謗中傷を排除した上での他者の自由な発言や創作を制限すべきではないと思うのです。
言葉を「凶弾」として鮮血に人を沈める死に花を咲かせることなく。
言葉を「種」として大輪の世を照らす華を咲かせて、人々の笑顔と喜びの輪を広げたい。
私は文筆家の端くれとして、そんな決意を新たにしました。
筆を取ることに躊躇いがありながらも、書くことを選択されようと考える方に、それは正しいと応援になればと思い書きましたが、余計なお世話かもしれません。
感想お待ちしてます。