朝露
翌日。
昨夜の考え事を引きずりながら登校していた俺は、昨日と同じ位置で、おそらく同じ人間を待っているであろう人影を発見した。今朝、黒咲に連絡先のブロックを解除したとメッセージを入れると、早速一緒に登校しないかとお誘いが来たのだ。最早彼女を避ける理由は無くなったので、快く承諾した次第である。
向こうも俺に気付いたみたいで、小さく手を振りながら駆け寄って来ており、悩み事が吹っ切れたようなからっとした明るさで挨拶してくる。
「先輩! おはようございます!」
「おはよう黒咲」
「突然誘ってごめんなさいです。でも、先輩と一緒に登校したくて!」
少し恥ずかしそうに頬を染め、満面の笑みを浮かべており、その輝くような笑顔を見ていると、久しぶりに黒咲と会話しているような感覚に陥ってくる。俺もそうだが、彼女も自分の気持ちを隠さずに話してくれているという事だろう。
「今日も先輩はカッコいいですね! えへへ」
「あ、ありがとう?」
俺の制服の裾を掴みながら、目を細めて心底嬉しそうな表情をしている。朝の眠気も吹っ飛んでしまう程の可愛さだが、傍から見ればバカップルの俺たちに向けられる視線が痛い。
「そういえば、一緒に帰る事はあっても登校することはなかったな」
「……朝も待ってたら好きだってバレちゃうし、重いかなと思って。でも、これからはガンガン待ちます! 邪魔にならない程度に!」
「……おぉ」
素の黒咲はこんなに積極的だったのか。俺が原因で出せなかった部分とはいえ、新しい一面を見てしまった驚きが大きい。ガンガンいこうぜに路線変更した後輩に戸惑いながら、俺たちはホームに辿り着き、電車の到着アナウンスを聞いていた。
「そういえば、足は大丈夫なのか?」
「全然大丈夫です! むしろ、名誉の負傷?ってやつですかね、嬉しいくらいです!」
「……ごめんな」
スカートから伸びる綺麗な足には、痛々しいほどに大きな絆創膏が貼られていた。彼女は嬉しそうに笑っているが、やはり小さくない怪我を負わせてしまった事に罪悪感を感じる。そんな思考を察してか、彼女は半ば強引に俺の手を引いて、丁度到着した電車の中へ誘導した。
車内は学生や会社員で程々に混んでいて、俺たちはドア近くの場所を陣取る事にする。女子高生の最大の敵といえば、痴漢だ。スタイルが良く、顔立ちも綺麗な黒咲であれば尚更苦労が絶えないだろう。
そのため、本来であれば女子を守るように立つのが男子の役目のように感じるが、何故か逆に、俺が黒咲に守られるように壁際に配置されてしまっていた。
「黒咲、位置変わるよ」
「いえ、お気になさらず!」
「いやでも心配だから」
「ありがとうございます! でも大丈夫です! あ〜でも、揺れに弱いんでちょっと寄っかかっちゃったらごめんなさいです〜」
そう言いながら彼女はわざとらしく、俺に二つの爆弾を押しつけてくる。夏服は薄いだけあって、感触が割とダイレクトに伝わってしまう。
加えて、電車が揺れるたびに身体全体をこちらに触れさせてくるため、自慢の鋼鉄の精神が溶けてしまいそうで危うい。和解していない時ならまだしも、自分の肉体は再び黒咲を女子として認識し始めているようで、こちらも爆発物を起動させないように精一杯耐えている。わぁ、女の子って凄い良い匂い。
「く、黒咲……?」
「こうすれば倒れる心配もありませんね?」
全力の我慢を嘲笑うかのように、今度は俺の腕に絡みついてくる悪魔。手は恋人のように繋がれ、腕には別の柔らかさ。上から下まで極楽である。
「さて、次は何にしましょうかね〜」
尚も攻撃の手を緩める気がないのを察して、俺はボロボロの理性を振るい立たせ、電車が新幹線並みの速度になる事を祈っているのだった。
永遠にも思えた拷問の時間は、やっと終わりを迎えたようだ。俺達は電車を降りると、他の生徒に混じって学校へと向かう。
「先輩、前に言ってたボス倒せました?」
「あれな、武器を大剣にしたら一撃ごとに怯みがとれて、結局ハメ殺した」
「えぇ……楽しいんですかそれ」
「先週発表された新曲聴いた?」
「あ、めちゃくちゃ良かったです! 初期の頃に戻ったみたいな曲調でしたよね! 最近は企業とのタイアップが多いせいか、尖った感じが無くなっちゃったなぁって思ってたんですけど、今回の曲は――」
そんなたわいもない話をしながら歩くのはとても心地よく、去年、黒咲と出会って間もない頃を思い出していた。
MVを見ている俺にいきなり話しかけてきた時は何かと思ったが、彼女とは趣味が合ってとても楽しい時間を過ごす事ができた。自分に責任があると思っていても、予想以上の失恋のショックは大きかったのだろう。それに気付かず苦しんでいた毎日を支えてくれたのは、間違いなく黒咲だった。そんな彼女と和解できた事は、素直に嬉しい。
しかし、互いに間違いを犯し、それを許し合う事はできたが、二人の関係は以前と同じように戻ったわけではない。それどころか、今後良い方にも悪い方にも進む可能性があるだろう。俺は再び、彼女の事を信じられるようになるのだろうか。過ちを繰り返さず、理解を深め合う事ができるだろうか。
悩んでいたせいで会話が覚束なかった事に気が付き、謝ろうと隣を見る。綺麗な黒髪が風に靡いて、普段はあまり見えない、内側の金髪が露になっていた。目と目が合うと、長いまつ毛と大きな瞳が一瞬不安げに揺れていたが、すぐに力強く持ち直し、薄い唇が動き出す。
「もし、前みたいに信じてもらえなかったとしても、私はこれからも先輩を見続けます。だから、先輩も私の事……見ていてくださいね?」
朝露のように輝く笑顔を向けられ、思わず笑みが溢れる。未来がどうなるかは分からないが、俺はこの笑顔が消えてしまわないように、深く頷き返した。