黒咲茜の理由
「俺が酷い? お前はずっと同じことを目の前の人間にしていたのに、自分はお咎めなしなのか? 俺の気持ちを考えたことはあるのか?」
心臓まで凍りついてしまいそうな冷ややかな視線と、何もかも信じられないと、そう告げているかのような声色。その言葉を告げられた瞬間、私は一体どこで間違ってしまったのか理解することができた。
中3の冬、私は先輩と出会った。
行きたくもない習い事から帰宅する途中の電車内。私の毎日は、とても空虚なものだった。
今後の人生の役に立つとは思えない勉強をして、たいして仲良くもない友達と上辺だけの会話をして、親の外聞のために興味のない習い事をやらされる。私の目に映る世界はいつだって灰色だ。ただ、唯一音楽を聴いている時だけは、その憂鬱も紛れていた。
しかし、災難な事に今日はイヤホンを家に忘れてしまった。流石に音を垂れ流しにする勇気はない。
人間観察でもしよう。仕方なく退屈を紛らわすため、つり革に捕まりながら、ふと横に視線を向ける。すると、進学予定の高校の男子制服とスマートフォンが目に入り、なんと私の好きなバンドのMVが流れていた。覗き見なんて褒められた事じゃないけど、あまり同じ趣味の人に出会ったことがない私は嬉しくて、持ち主の顔を見上げた。
凄く元気を貰える曲なのに、私の一番好きな曲なのに。それを見ている彼の目に、言いようもない深い悲しみが渦巻いているように感じた。だから、自分でも気付かない内に、つい声をかけてしまった。いわゆる逆ナンというやつだ。
始まりはこんな感じだったが、これから私の世界には色が付いていく事になる。
それから数ヶ月が経って、私と優太先輩は沢山の思い出を積み上げていった。ゲームセンターでひたすらクレーンゲームをしたり、映画館で新作のアクション映画を観たり、くだらない事も楽しい事も、毎日が充実していた。でも、彼が楽しそうに笑っていても、やはりその目の中には変わらぬ悲しみを感じる。一体過去に何があったのだろう。いつか、知ることができるだろうか。
新しい春が来て、私は正式に彼の後輩になった。これでもっと、先輩と一緒にいられる時間が増える。毎日が楽しくて仕方ない。いつしかその感情は、友情から愛情へと変わっていた。これが初恋だ。
ある日、先輩は自分の過去を話してくれた。ご両親を事故で亡くしたこと。とても辛かったが、それを支えてくれる彼女ができたこと。彼女に釣り合うように努力していたこと。でも、浮気されてしまったこと。出る限り明るく語ってくれているが、胸の痛みが残っているのが伝わってしまう。
そうか、彼は気にしていないふうに装っていても、その時の出来事がトラウマになっているんだ。思い出すのも辛いはずの過去を教えてくれたって事は、私に心を開いてくれたのかな。喜んではいけないと分かっていたが、とても嬉しかった。その傷を、なんとか私が埋めてあげられないかな。
だけど、突然怖くなった。私は先輩が好きだ。恥ずかしそうに笑う顔も、時々見せる暗い面も、落ち着く声も、全部全部好きだ。でも、もし好意を持っていると知られてしまったら?今度は私に裏切られてしまうと、そう考えるかもしれない。その時きっと私達の関係は終わってしまう。だから、この気持ちは心の奥にしまっておこう。彼を揶揄うことで、友達以上の気持ちを持っていないと、そう思えば安心してくれるだろうか。いつか、彼の心の傷が塞がる時が来たら、その時は――。
夏休みに入って、私は先輩を遊びに誘おうとメッセージを送ったが、ついに返事が来る事はなかった。スマホが壊れちゃったのかな?でも、休み明けにたくさん構ってもらえるから、頑張って我慢する事にした。本当はもっと連絡したくてたまらなかったが、好意に気付かれるかもと思ったら、電話をかけようとする手も止まってしまう。
一月ぶりに会った先輩は変わっていた。見た目にも気を使っているのが分かるし、弱々しい雰囲気がなくなっていた。休みの間に何があったかはわからないが、ついにトラウマを克服したんだ!そう思った。
興奮した私は、普段言わないような事を、「私が彼女になってあげてもいい」などと、調子に乗った事を口走ってしまう。それに空回りすぎて、いつもなら考えすらしない、人の努力を否定するような事を言ってしまう。案の定彼は怒り、盛大に拒絶されてしまった。でもきっと、謝れば許してくれると、先輩は優しいから、また同じような関係に戻れると思っていた。だから、一日反省した後、朝早くから改札の前で先輩を探すというストーカーじみた真似をする事にした。犯してしまった間違いを正すために。
――でも違った!もっと前から間違っていた!
私が心を透かさないために放つ言葉は、彼の心に傷を付けていた。一つ一つは小さい傷でも、それが無数に積み重なって、大きな跡を残したのだ。私が揶揄った時に彼が力なく笑うのは、それを受け入れていたからじゃない。その心が傷付き過ぎて、笑う事しかできないのに気付けなかったんだ。
私は最低だ。あの時、時間が心を癒してくれるのを待つのではなく、私が彼の心の傷を埋めてあげれるよう努力するべきだったのだ。関係が壊れるのが怖くて、素直に想いを伝えることから逃げて、先輩の心を壊してしまった。
泣く資格なんて、今の私にはない。泣くのは全てを謝ってからだ。きっと許してもらえないだろう。彼の物語から私はすっかり消えて、二度と会う事も、笑い合う事もないと思う。でも、それでも。私は先輩に謝らなければいけない。私の世界に色を付けてくれた人から、色を奪ってしまったのだから。
先輩が電車に乗ってから、そんなに時間は経ってないはず。駅に着いて、急いで追いかければきっと間に合う。
その時、電車の到着を知らせる音が鳴り響く。
俯いていた顔をあげ、両手で喝を入れる。全力で階段を駆け登る。
――――――――――――――――
「はぁ……はぁ…………優太先輩!」
駅に着いてからひたすら走り続け、ついに先輩の後ろ姿を視界に収めた。声は聞こえているだろうが、名前を呼んでも、当然だが振り向いてはくれない。
それでも諦めず、彼に追い付くために走る。疲労と緊張で呼吸は上手くできないし、涙も溢れてくる。涙で視界が歪み、もうすぐ追い付くという安心感からか、両足がもつれて無様にも転んでしまう。
アスファルトにぶつかって膝が切れ、血が流れ出てくる。足は疲れ果て、痛みと相まって立つことが出来ない。
……でも。
辛くても、伝えなければ。彼に与えてしまった痛みは、こんなものではないのだから。痛みを我慢して、ふらつきながらも立ち上がろうと前を向くと、私を無視して歩いているはずの姿は目の前にあった。
「…はぁ……はぁ…………せん、ぱい……」
「………………」
彼は無言でこちらを見つめていたが、昨日や今日の、凍てつくような視線とは違い、その目からは驚きが見て取れた。私が追いかけてきた意味が理解できないと告げているようだ。
今を逃せばもう一生言う機会は訪れない。涙が止まらなくたって、息が、言葉が続かなくたっていい。私が思ってる事、感じた事、全てを正直に話すんだ。