浅川由美の理由 その4
長かった回想が終わります
そんな負け犬のような私にも、ついにチャンスが巡ってくる。進展のない毎日に嫌気がさした私は、普段よりも少し早く登校してみる事にした。何でも、人間は起きてから二時間が最も頭の回転する時間らしい。生徒が少ない時間帯であれば、ゆっくり考え事をしながら学校に向かえると考えたのだ。
そう息巻いていたものの、やはりというか何というか革新的なアイデアは生まれず、とうとう学校にたどり着く。軽く落ち込みながら校舎へ入った時、焦りと怒りが入り混じったような声が聞こえた。
「黒咲、怪我はないか!?」
聞き間違えるはずがない、ユウの声だ。私は見つからないよう、咄嗟に下駄箱の影に隠れる。そっと覗き込むと、彼が向かう先にいたのは、いつもユウに馴れ馴れしくしている一年生の女子だった。彼女の下駄箱には大量の画鋲がばら撒かれていたが、心配させないようにか、状況に似合わない笑顔で受け答えをしている。
大事には至っていないようだが、ユウは彼女のことを心配して教室まで送っていくようだ。こちらへ向くことのない強い想いを目にし、思わず黒い感情が湧き出てくるのを感じる。だが、昂る気持ちを何とか抑え、二人が去ったこの場所で思考を巡らせる。
何故彼女がいじめられている?
詳しい人間性までは分からないが、少なくともいじめられるような性格の悪い子には見えない。ルックスの良さから恨みを買う事はあるかも知れないが、友達も多そうなので女子から攻撃されたわけではないと思う。男子についても、毎日先輩を教室まで迎えに行く子に、わざわざアタックしようという人間はいないだろう。勝ち目がないのは百も承知なのだとしたら、恨みなど抱くはずもない。
となると、犯人はユウに恨みを抱いている人間という事になる。確かにメンタルが強い相手なら、本人に何かをするよりも近しい人間に危害を加える方がダメージは大きい。
しかし自分の下駄箱を確認してみても、何一つ昨日と変わりはない。夏休み前なら私も同じ様な嫌がらせを受けたのだろうか。でも、それならもっと早く行動に移している気がする。なんで私が拒絶された今――。
違う、私が拒絶されたから行動を始めたんだ。
自分で言うのもなんだが、私は大勢の生徒から羨望の眼差しを受けている。中には私の事を、まるで神様みたいに扱ってくる人まで存在しているのだ。もし私が泣いてる姿を見て、復讐のために画鋲をばら撒いたのだとしたら?
教室へ向かう足取りは自然と早くなっていく。そして目的地に近づく頃、室内からは先程と同じようにユウの大きな声が聞こえた。
予期していた事態が現実になってしまった事に頭を抱える。どうしよう、もしかしたら私が犯人だと思われているかもしれない。しかし、このまま歩みを止めてしまえば周りの生徒の目には怪しく映ってしまうだろう。
進むしかない。できるだけ平静を装って、静かに教室に足を踏み入れる。目の前には背を向けたユウの姿。そして、彼の視線の先は墨汁で水浸しになっていた。
私の気持ちを代弁したつもりなのだろうか。犯人のお陰で、変わらず向こうを見ている思い人に、私が指示したと思われる可能性は高い。恐怖で呼吸が浅くなっていたのか、ユウがこちらへ振り返る。
久方ぶりに目と目が合う。しかし、私は彼の顔を直視する事ができなかった。犯人だと思われていたら、今の私に無実を証明する術はないかもしれない。そう思うと視線を外すことしか出来ず、そのまま自分の席へと歩いていく。
腰を下ろしても全く落ち着かない。私は何もしていないと弁解しなければならないのに、信じてもらえなかったらと思うと顔を上げることができず、視線だけがふわふわ彷徨ってしまう。
しかし、そんな私に興味がないのか、ユウからは何も言われないまま、平穏に一日が過ぎ去ろうとしていた。晴れない気持ちのまま帰宅するとラフな服装に着替えて、どうすれば私の無実を彼に信じてもらえるのかを考えていた。
事態は一刻を争う。やはり、次なる犯行が起こる前に先立って彼に話をするべきだ。チャンスは今しかないと決意した私は髪をまとめ、急いで家を飛び出す。二人の家の距離は一駅しか離れていないので、走れば10分程で会いにいく事ができる。
日頃ランニングをしているから、特に疲れることもなくユウの家に到着する。少しの間インターホンの前で不安と戦っていたが、それを振り払ってボタンを押す。呼び出し音が二回なる。
しかし、応答がないどころか、家のどこにも灯りは付いていなかった。今日のユウを見るに、よっぽどの事がなければ直帰しているはずだ。つまり家にいないのは、その“よっぽどの事”が起こるからだろう。この状況で思い当たるのは一つだけ、ユウは犯人を捕まえようとしているのだ。
私は再び走り出すと、全速力で駅へ向かった。
やっとの事学校に到着したが、時計の針はもうすぐ8時を指すところだ。街灯はあるものの、あたりは不気味なほど暗い。自分を捕捉する者などいないはずだが、ゆっくりと、一年生の下駄箱から一番遠い入り口を選び、校舎に忍び込む。
陰に隠れて校舎の外を注意深く見つめていると、10分ほど経って、誰かがこそこそと侵入してくるのを発見した。
あれは同じクラスの真壁君だ。会話した事はないが、噂では私の大ファンらしい。モデルとしてはとても有難いが、それと私の思考を推測する事は話が違う。
真壁君が犯行に及んだ時、我慢ならずに私は呼び止める。驚く彼の後方からは、全てを知っていたかのようにユウが現れた。
そこからの会話は、到底聞いていられるものではなかった。あまりに幼稚な真壁君の言い分を、ユウは歯牙にも掛けないで軽くあしらう。流石に可能性がないと気が付いたのか、今度は私の方へ向き直り、みっともなく縋り付いてくる。
「あ、浅川さんも何か言ってよ! 俺はあなたの為に、あなたが心から笑えるように――」
「何言ってるの? 誰がいつ真壁君に頼んだって言うの? 私の気持ちを勝手に推測して、他人を傷付けることでそれを満たそうとするなんて、自分のエゴを押し付けるのも……っ!?」
言葉を聞き終えるまでも無く切り捨てようとしたが、それを言い終える寸前、真壁君に向けていたはずの言葉が突然向きを変えて自分に突き刺さってきた。そのナイフは、瞬間のうちに過去へ遡っていく。しかし、全てを理解してしまう前に自分を取り戻すと、強気に言葉を続ける。
「と、とにかく、私はあなたに何も頼んでいないし、そもそも視界にすら入ってないの。被害者面しないで、諦めて罰を受け入れなさい」
気が付くと真壁君は情けなく逃げ出していて、下駄箱に残っているのは私達二人だけだった。
「……これでもう、嫌がらせは止むんじゃないかな」
「……そうだな」
久しぶりに、ユウと二人きりで会話ができている。そこには怒りも憎しみもなく、涼しい夜風が頬をくすぐっていた。本当なら、ただこの瞬間を味わっていたかったが、私の思考は徐々に真実へと侵食されていく。
「浅川は、なんでここにいるんだ?」
「そ、それは……」
もう少しで全てに納得できる。もう一度整理するために、今までの出来事と、さっきの言葉を思い出す。私が真壁君に言い放った言葉は、そのことごとくが過去の自分への当てはまるものだった。
ユウが心を見せてくれない理由を聞こうともせず、勝手に推測し、彼を傷つける事で自分の欲望を満たそうとした。
その結果、彼の心には「信じていた人間に裏切られ、捨てられた」という消えない傷だけが残り、さらに、日々私がその傷口を広げようとしていたのだ。
見当違いな憶測を他人に押し付ける事がどれだけ迷惑か、真壁君を見て、実際に体験して心から理解できる。
十数秒の無言の時間が流れるが、ユウは何も言わずに待っていてくれた。根拠はないが、今なら話をする事ができると、静寂が告げている様だった。散々彼の心を壊してきて、今更許してもらえるはずがない。こうやって二人で話す機会も、これが最後だろう。だから、せめて謝罪の気持ちだけでも、彼の心に届かせなければならないと思った。




