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それは私が学校を卒業し、東京で看護師として働き始めて半年ほど経った時に起こった。
彼は少なくともあと1年は学生生活が残っており、ひとまず彼が卒業するまでの間は私も東京で一緒に暮らすことにしていた。その日は私が夜勤明けで翌日まで休み、彼も久しぶりに何も無い土日休みだったため、一泊の温泉旅行に向かっていた。彼はまだ免許を持っておらず、私が車の運転をすることになっていた。彼は電車で行こうと提案してくれていたが、電車代が勿体ないしそのお金を夕食の追加料理に回そう、と私が半ば無理やり押し切ってしまった。
その道中、私たちは事故にあった。
過失は相手側だ。私は多少眠気もあったが、運転自体には大きく差し支えなかった。しかし前にばかり目をやっていたため、対向車線のトラックが少しずつこちらに向かって来ていることに気が付くのが少し遅れてしまったのだ。私たちは奇跡的に一命を取り留めたものの重症で、特に私はいつどうなってもおかしくない状態だった。彼は私に比べれば幾分かマシではあるが、やはり衝撃により内臓は酷いものだった。ふと私は、意識は失っているはずなのに、何故か自分の体を上空から眺めていた。酷い有様の自分を見て、あぁ、どうやら私はもう死ぬのだな、と理解した。そして、彼も同様に瀕死ではあるが、まだ生きる可能性があることも理解していた。ふと、なぜか近くに両親がいることが分かった。気配の方へ向かうと、すぐ近くの廊下で涙を流して座り込む母と、母を支えながらやはり涙を流す父親がいた。その横には、彼の両親も。
「どちらも、非常に危険な状態です」
私たちのことを伝える医者の先生が、彼と私の話をしている。その後先生は、私の両親だけを別室に呼び出した。先生はとても言いづらそうに、しかし意を決してからはハッキリと伝えた。
私の無事な臓器を移植すれば、彼は助かるかもしれない。
私の臓器は、彼に適合しているようだった。ドナー登録されている私の臓器ならば、彼を救えるかもしれない。しかしそれは同時に、娘の命を犠牲にすれば彼を救えるかもしれない、という辛い事実と選択を迫る言葉だった。父も母も、何も答えなかった。父は眉間に皺を寄せ目を閉じ、母は両手で顔を覆っていた。2人が考えていることが、私にはとてもよく分かっていた。私の両親は、とても優しい人だ。人のために自分を犠牲に出来る人達なのだ。だから、私を犠牲にして彼を救うべきだと頭では理解している。しかし、それを口に出来ないのだ。沈黙が流れる。静寂を破ったのは、母だった。母は覆っていた手を静かに顔から下ろし、こう言った。
「移植を、してあげてください」
本当に辛い選択肢だったはずだ。涙に濡れた両手を強く握り、声は震えていた。
「ありがとうございます。お力になれず、本当に申し訳ありませんでした」
先生は深々と頭を下げてから、手術の準備のため部屋から出ていった。私はなんて親不孝なんだろうと思った。両親に、本当に辛い選択をさせてしまった。そして、ありがとう、と強く思った。私の気持ちを理解してくれている母親だからこそなのだと、私は知っていたから。
「神様。どうか、彼を、助けてあげてください」
そしてその決断を何も言わず受け入れ、涙を流しながら彼の無事を願ってくれる優しい父親だということも。2人が私の両親でいてくれて、本当に良かった。
そして私は今、彼を救うための手術を眺めていた。きっと上手くいく、私はそう確信していた。
これはきっと、私の贖罪なのだ。
彼の人生の大半を、自分の勝手で振り回してしまったことへの罪滅ぼしなのだろう。そう思うと、不思議と死ぬ事への恐怖は感じなかった。私は死ぬが、私の体が彼の命を紡いでくれるなら本望だとすら感じる。私は手術を見守りながら、神様に願った。
どうか神様、彼のこれからの人生を幸せにしてあげてください。私はじゅうぶんに、幸せでした。彼と一緒にいた時間、彼が与えてくれたかけがえのない日々に、どうか報いたいのです。
徐々に自分の意識が薄れていくのを感じる。いよいよ私も、消えてしまうらしい。私は静かに彼の顔に手を伸ばす。体のない私に彼を触れることは出来ない。しかし、私の手の先には確かな何かの感触があった。私は『それ』を優しく掴む。なんて暖かいのだろう。暖かくて優しい『それ』を、静かに手で包みこむ。決して離さないように、決してなくさないように、決して戻ってしまわないように。
ありがとう。
出来ることならば、あなたに直接伝えたかった。
勝手に奪ってしまって、本当にごめんなさい。
どうか、これからも幸せに。
私の大好きだった、あなたへ。
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「先生、本当にありがとうございました」
1人の青年が、目の前の医者に頭を下げている。どうやら、今日で退院するようだった。
「いや、とんでもない。君がとても頑張ってきたことは、よく知っているよ。だからこそ、本当に申し訳ない」
青年よりさらに深く頭を下げる医者に、慌てた様子で手を伸ばした。
「先生、やめてください。そればかりはどうしようもないです。それに、また突然戻ってきてくれるかもしれないんですよね」
青年はそう言って笑顔を浮かべた。
「何かのきっかけで、という実例は少なく無いそうだからね。君もその1人になれることを、心から願っているよ」
お互いに別れを告げてから、青年は病院を後にする。どうやら青年は、これから実家へ向かうようだった。ふと、携帯電話を取り出して画面を点灯させる。画面に映っているのは青年と、さらにもう1人、親しげにとなりに座る女性の写真だった。
「俺の命の恩人、か」
青年は携帯電話をポケットにしまうと、力強く、1歩を踏み出したのだった。