言えなかったこと 言いたかったこと
その時ナタリーは、ジャンの家で料理を作っていた──
ナタリーは、この近くの工場に勤める工員である。勤め始めてから、もう八年になる。地味な風貌であり、化粧も薄い。性格も真面目でおとなしく、目立つような行動はしなかった。職場の同僚ともほとんど口をきかず、仕事が終わると真っすぐ家に帰っていた。
そんな彼女と付き合っているのが、同じ工場に勤めるジャンだ。彼は六年前に高校を卒業し、ナタリーの勤める工場に就職した。
ジャンは、無口な先輩であるナタリーに興味を持ったらしい。事あるごとに話しかけ、食事に誘ったり、友人たちとの集まりに招いたりしてきた。ナタリーは、あまりに積極的な年下のジャンの行動に対し、最初は戸惑っていた。だが、明るく朗らかで真っすぐな性格の彼に、次第に惹かれていく。
やがて二人は付き合うようになり、工場でも皆に知られる間柄となっていた。
そして今日は、ジャンの誕生日である。二人きりでパーティーをしたい、というジャンの申し出を受け入れ、ナタリーは腕によりをかけ調理をしていた。
だが、想定外の事態が起きる──
「お前ら! おとなしくしろ!」
怒声とともに、家に侵入してきた者がいる。黒い目出し帽を被り、ツナギのような服を着た大柄な男だ。
その手には、拳銃が握られている──
「おら! 手を挙げろ!」
侵入者は、ナタリーに向かい喚いた。彼女は、おとなしく両手を挙げる。
その時、新手の侵入者が入って来た。さらに、もうひとり。彼らは皆、ほぼ同じような格好だ。黒い目出し帽を被って顔を隠し、ツナギのような作業服を着ている。手には拳銃を構えており、油断なく辺りを見回している。
「お前、何やってんだ!? こっち来いや!」
侵入者のひとりが、奥の部屋にいたジャンに向かい怒鳴りつける。ナタリーは、思わず声を上げた。
「やめて! お金なら出すから、乱暴はしないで!」
「るせえ! お前は黙ってろ!」
侵入者は、今度はナタリーに拳銃を向ける。彼女は、仕方なく口を閉じた。
やがて、目の前にジャンが引きずり出されて来た。首根っこを掴まれ、顔をテーブルに押し付けられる。ジャンは、悲鳴を上げた。
「おい、金はどこだ!?」
侵入者のひとりが、彼の頭に拳銃の銃口を押し当てる。
まずい。このままだと、男たちは何かの弾みで発砲しかねない。拳銃というのは、暴発する危険性が高いのだ。万が一、この状況で暴発すれば、ジャンは確実に死んでしまう。
「待って! お金なら、私が出すから! あるだけ出すから、拳銃を下ろして! 彼を解放して!」
ナタリーが叫ぶと、侵入者たちは彼女の方を向いた。拳銃を向けるが、少し動揺しているようにも見える。
その時、ジャンが顔を上げて叫んだ。
「やめろ! 彼女は関係ないだろ!」
すると、侵入者はジャンを力ずくで立たせた。
「だったら、てめえが金を出せ!」
怒鳴った直後、侵入者は彼のズボンのポケットに手を入れた。
「おい、なんだこれは?」
言いながら、ポケットから小さな箱を取り出す。その途端、ジャンの表情が一変した。
「そ、それだけはやめてくれ!」
叫びながら、侵入者の手から箱を奪い取ろうとする。
「てめえ! 抵抗すんじゃねえ!」
罵声と同時に、ジャンの腹に膝蹴りを叩き込む。ジャンは腹を押さえ、崩れ落ちた。侵入者たちは、倒れた彼を蹴りまくる。
侵入者たち全員の視線が、ジャンへと向いている。ナタリーを見ている者など、誰もいない。
ナタリーは、この隙を逃さなかった。彼女は、テーブルに乗っていた皿を掴む。
天井へと、思いきり投げつけた──
投げられた皿は、天井にぶつかり割れた。破片が、侵入者たちへと降り注ぐ。彼らは、とっさに顔面を手で覆った。
ナタリーは、瞬時に動く。手近にいた男の顔面に、右の掌底打ちを食らわせた。
男は呻き、思わず顔を反らせる。ナタリーはその頭を掴むと、テーブルの角に思いきり叩き付けた──
呻き声とともに、男は床へと倒れる。だが、ナタリーの動きは止まらない。もうひとりの男の腹に横蹴りを叩きこむと同時に、皿の破片を拾いあげる。ナイフのように構えた。
一気に間合いを詰め、男の喉を素早く切り裂いた──
喉がパックリと開き、大量の血が吹き出た。喉を両手で押さえ、男はよろよろと後ずさる。戦意など、もはや消え去っていた。その時、残るひとりが叫んだ。
「ちょ、ちょっと待て! 俺の話を聞け!」
最後の侵入者は、両の手のひらを前に突き出し首を横に振っている。もう、争う気はない……という意味のジェスチャーであるのは明白だ。
しかし、ナタリーはこれで済ませるつもりはない。彼らは、拳銃を持って家に侵入して来たのだ。完全なる武装強盗犯である。その上、ジャンに殴る蹴るの暴行を加えた。
殺されても、文句は言えないはずだ──
ナタリーは、前に突き出された手を払いのける。と同時に、首筋目がけ破片を突き刺した。
直後、破片を思いきり動かす──
破片は、男の頸動脈を切り裂いた。傷口から、大量の血が勢いよく吹き出る。男は首を押さえ、よろよろと後ずさって行った。
その時、背後から声が聞こえた。
「ナ、ナタリー……」
ジャンの声だ。彼女は我に返り、さっと振り向く。
「君は、なんてことをしたんだ……」
彼の表情は、ひどく歪んでいた。
・・・
ナタリーは、南米のとある小国で生まれた。
両親は、物心つく前に彼女を捨てる。幼いナタリーは、孤児として町の片隅で必死で生きていた。ゴミ箱を漁って食べ物を探し、旅行客から金を盗む。大人たちに追いかけられたら、あらゆる手段を用いて逃げる。そんな生活を続けながら、彼女はたくましく成長していった。周りの子供たちが次々と捕まったり、病や怪我で命を落としていく中……ナタリーは、しぶとく生き延びていたのだ。
やがて、ナタリーの運命を一変する出来事が起きる。偶然、町を訪れたマフィアの幹部が、彼女の獣のような身体能力と高い知能に目を付けた。幹部はナタリーをさらい、暗殺者として様々な訓練を積ませる。射撃、格闘技、毒物、爆破などなど……中には、ベッドで男を籠絡するテクニックもあった。
裏社会で、ナタリーの秘められた才能は開花した。彼女は二年のトレーニングを経て、プロの暗殺者となる。十五歳になった時、ナタリーは初めて人を殺した。
その後、彼女が殺した人数は数えきれない。マフィアの殺し屋として、ナタリーはあちこちで活動していた。時には、海外にまで行くこともある。彼女のターゲットのほとんどが、敵対する組織の構成員だったが、時には政治家や警官などを殺すこともあった。
マフィアお抱え暗殺者としての生活を、かれこれ十年以上続けていたナタリーだったが……彼女は、殺し屋としての生き方に疲れ果ててしまった。広い世界を知るにつれ、違う生活をしたくなったのだ。
やがて、親代わりだった幹部が、他組織との抗争で命を落とす。それを機に、ナタリーは自殺を偽装した。代わりの死体を用意し、自宅を爆破した。
さらに精巧な偽造の身分証とパスポートを用いて、外国へと高飛びする。
移り住んだ場所で、ナタリーは普通の人間として暮らし始めた。近くの自動車部品を作る工場に就職し、工員として地味に生きる。暗殺者だった頃に比べれば、収入は遥かに少ない。だが、そんなことは気にならなかった。
やがて、工場にジャンが入って来る。十歳以上も年齢が下のジャンだったが、ナタリーを一目で気に入ってしまったらしい。積極的にアタックして来た。
初めは戸惑い、適当にいなしていたナタリーだったが……ジャンの優しくて純朴な人柄に、次第に惹かれていく。裏の世界では、こんな男はいなかった。
いつしか二人は、本気で愛し合うようになっていた。だが、悲しいことに……ナタリーは、自身の過去を打ち明けていなかった。
もし打ち明けていれば、こんなことになっていなかったかもしれない──
・・・
ジャンは、だいぶ前からこのサプライズ計画を立てていた。
彼はひそかに友人たちを集め、計画を打ち明けて協力を仰いだ。友人たちは皆、即座にOKする。
計画はこうだった。
友人のうち、体の大きな三人が強盗のふりをして、パーティー中の家に侵入する。モデルガンを構え、金を要求する。
頃合を見計らい、外から他の友人や工場の同僚たちが乱入して来る予定だったのだ。「ドッキリ大成功!」と書かれたプラカードを振りながら……。
そこで室内は、笑いに包まれるはすだった。
しかし、室内は真逆の空気に包まれていた。
床は、血の海と化していた。その中で、三人の男が倒れている。うち二人は、もはや虫の息だ。
「なんだよ、これ……」
外で控えていた友人たちが、異変に気づき入って来た。途端に、呆然と立ち尽くす。もはや、この場で何が起きたか把握できていないのだ……。
一番最初に動いたのは、ナタリーだった。彼女は、呆然となっている者たちの間をすり抜け、虚ろな表情を浮かべて外に出て行く。そのまま、姿を消した。
それが合図だったかのように、皆が一斉に騒ぎ出す。泣き出す者、嘔吐する者、救急車を呼ぶ者、警察に電話をかける者……家の中は、戦場のごとき有様となっていた。
そんな中、ジャンは放心状態で立ち尽くしていた。
三人の友人は、すぐに病院に運ばれた。しかし、破片で切られた二人は、出血多量で死亡した。残るひとりも、頭蓋骨骨折と脳挫傷により、意識不明の重体である。
ナタリーは、完全に姿を消してしまった。警察が彼女の自宅に踏み込んだが、既にもぬけの殻であった。捜査員を多数動員し行方を探しているが、手がかり皆無の状態である。
ジャンは、警察の取り調べを受けた。事件とは無関係であったため、すぐに釈放されたが……完全に心を病んでしまい、精神科の閉鎖病棟へと入院した。
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。
ジャンは、ナタリーに言おうと決めていたことがあったのだ。強盗に扮した友人たちが彼をボコボコに叩きのめす……ふりをした後、ポケットにある小さな箱をテーブルの上に乗せる。箱を開け、中に入っているものを露にする。
そして、彼らがこう言う手筈になっていた。
「お前、これはなんだ!? これを、どうするつもりだったんだ!?」
ジャンは、こう答えるはずだった。
「彼女に……ナタリーに、渡すつもりだったんだ!」
「なんと言って、渡すつもりだったんだ!? ここで、やってみせろ!?」
そこでジャンは、ナタリーにこの言葉を送るはずだった──
「僕と、結婚してください」