それぞれとこれから 柳木涼子の選択
「じゃあ、ほんとに田中先輩って部活来ないんですかー?」
水を撒いたプールサイドで、足の指先と手をぴたりとくっつけながら、相原はそんなことを口にした。
プール内の塩素濃度を男子部員が確認している間、彼女と数人の一年生女子はストレッチでお茶を濁している。
その内の一人。女性にしては珍しいベリーショートヘアの部員が、同じく準備運動を続けつつ、相原の言葉にぴくりと嫌に反応を示す。
「え。愛佳って、あの先輩のこと好きなん?」
ぐっ、ぐ。と肩を入れながら、彼女はそう隣の同級生に尋ねかける。
「———えっ、いやいやいや。そんなことあるわけないよ。もう、琴香はいっつもそうやってぇ」
「だって、じゃなきゃあんな冴えない人のこと一々気にかけなくない?」
「単純に良い先輩ってだけだよ。恋愛とか、私は中学で卒業したから」
「へぇ。だからその愛佳の中学の話もあ———いたぁっ!?」
琴香———と呼ばれた女子部員は頭を押さえて頭上を見上げる。
むーっ、とワザとらしく痛みを訴える後輩に、副部長の水嶋はやれやれとばかりにビート板を置くのだった。
男女混合である水泳部であるために、実質女子側の部長とも呼べる彼女の巡る視線に、話し込んでいた部員たちは一斉にストレッチを再開し始める。
そんな姿に呆れつつ、水嶋もまたプールサイドの外に視線を向けていた。
「無駄話くらいしても怒りやしないけど、ストレッチくらいは真剣にやんな。あんたら、一回くらいは水中で怪我したことあんだろーに」
運動前の準備は入念にすべきである。それはどのような競技であっても基本的な事実であるが、水泳はそれが顕著に出るスポーツでもあった。
足を捻ったり、筋肉が攣ったりすることが水中では命取りにもなり得る。だからこそ、水に浸かる前のストレッチは何より重要なのだ。
自分が経験していなくとも、周りで誰かがその状況に陥るか、あるいはニュースでくらいは見かけることがあるだろう。
「今日も部長してるみたいだな、水嶋」
「………ああ、誰が部長だって?」
「怒るなよ。悪気はない。女子の部長といえばお前だろう」
ぶんぶんと胸の前で手を振り、部長の畔上は苦笑いを見せる。
二人が並ぶ様に、他の女子部員はそそくさとその場を離れて行く。唯一そこに残った相原は、彼の豪快なすね毛にうげっと顔を引きつらせていたが。
「部長なんて柄じゃないのは知ってるでしょう? あたしはそういうの苦手なんだって。ど直球なあんたのサポートくらいが性に合ってる」
「ははっ、それもそうだ。ペーハーの確認終わったぞ。いつでも泳げる」
水嶋の言葉をさらりと流して、畔上は数値の表示された計測器を彼女に見せる。
「それは良いんですけど、部長のそれはやっぱりセクハラなんじゃないですかねー」
今から練習かという憂鬱な感情を少しでも晴らさんと、相原は丁度目線の高さにある部長の小さめの競泳パンツを小馬鹿にした顔で笑ってみせる。
混合であるために、女子部員はプールサイドでは基本的に水着の上に指定ジャージを着ているのだが、畔上はすっぽんぽん。というか、いつでも泳げますよといった調子である。いつものことながら、胸筋を覆う剛毛はくるんくるんと渦を巻いていた。
「股間を凝視するな股間を。おい水嶋。後輩の誤解は解いておいてくれよ。聡のようになっても堪らん」
「オマエの公然猥褻が今更止めた程度で止まるもんか。せめて下くらい隠して来るんだね」
「———お、っとおいおい頼むから蹴るなよ? 最後の大会なんだからな」
腰目掛けて片足を振り上げる姿に降参し、畔上はそのまま去って行く。がっちりと引き締まった背中を見送りながら、水嶋はジャージのファスナーをゆっくりと降ろし始める。
プールを挟んだ向こう側から、先ほどまでいた色黒男の号令が聴こえてくる。
塩分濃度の検査も済み、いよいよもって本日の部活開始といったところか。既に準備運動を済ませた男子部員たちは、次々と泳ぎ始めて自身の練習メニューに沿っていく。そんな様を見て、水嶋は女子部員に手振りで集合をかけるのだった。
この高校にプールは一つしかないが、その広さは他の公立高校と比べればかなりのもの、らしい。
それ故、右サイドは男子、逆は女子とはっきり区別してもそれぞれが泳ぐスペースはしっかり確保され、多少の窮屈さはあっても、練習の妨げには一切ならないというわけだ。
「自分のメニューは覚えてるね。大会もすぐそこなんだ。しっかり詰めて、一日一日をしっかり糧にすること。壮行会であれだけ大々的に応援されておいて、恥ずかしい思いなんてしたくないわよねっ」
号令と同時に、水嶋の締まった凹凸のある肉体が露わになる。
ジャージを足元に置き、彼女の後に他の女子部員も続いて着ていたものを脱ぎ始めた。
「はーっ。練習始まっちゃったか。偶にはジョギングでも良いのになぁ」
「琴香は自由型でしょう? 他にも狙ってる子はいっぱいいるんだし、今のうちから頑張っとかないと種目取れないよ」
「一年から勝ち取った愛佳に言われてもねぇー。未樹ぃー、ほら行くよ」
「あ、……うん。ありがとう」
口々に愚痴を零しながら、不真面目な琴香は内気な友人の腕を取る。
ざぱん。ざぱん。ざぱん。と、連続して入水の音が響く中、相原はプールサイドの外を眺め続ける水嶋の方へ歩み寄って行った。
———後輩の誤解は解いておいてくれよ。聡のようになっても堪らん。
先ほど、畔上が捨てて行ったその言葉がどうにも引っかかり、仔細を知っていそうな彼女に頼みの綱をかけた。
べったり張り付いて聞き込みをしてもついぞ知ることが出来なかった、田中聡退部の理由。それに繋がりそうな一言を逃すことは、彼女には出来なかったのだ。
すぐに、さっさと練習しろ、と言われるかもしれない。また練習が終わった後にした方がいいかもしれない。
色々と胸中に浮かぶ不安はあるものの、今聞くこと。相原には、それ以上に有効な手段は無いように思えてならなかった。
近付いてくる後輩に、対する水嶋の態度は柔らかい。
「どうしたの? 変に思い詰めた顔して。体調でも悪い?」
その言葉に、思わずハッとして相原は表情を強張らせるが、そんなものも今更だった。
いつも真面目で、身長も高く、頼りになる女性の第一候補といった先輩の優しさに、そんな表情作りは見せないことにして。
「あの」
意を決して。相原愛佳は、その事実に踏み込んだ。
☆
七月の風に嫌気がさすのは、あの季節に良い思い出が存在しないから。沈みゆく夕陽を見て懐かしい気持ちに陥るのは、それが忘れられない記憶を呼び起こすから。
夏の空は、様々なことを想起させる。汗と共に流れ落ちていく感情の流れはとどまることなく、その脳の棚を引き出したままにする。
少しブラウンに染めた黒髪をわしゃわしゃと手先で弄りながら、柳木涼子はその道路を眺めていた。
どこもかしこも無神経。何も見ずに生きながら、何か知っていると信じて歩く街の日々。それらが気持ち悪くて、人と関わることをやめていく自分。
信号を待ちながら、向かいに誰かが来るのを待っている。けれど、結局そこには誰も来なくて、ただ現実を見られない自分に失望する毎日。
「———ねぇ、少年。君は相変わらず、可愛げの無い顔をしているね」
いつかの六年間。今やどうでもあの記憶領域に、一人の男子の姿が遺されている。
彼の名は、田中聡といった。平々凡々な顔立ちと、適当な体格。特徴も思い当たらない男で、けれどどこか人とは違う何かを持っていた。同じ部活で過ごしていながら、ついぞその心根を読めなかった人物だった気がした。
柳木は、彼のことをこう評している。
———毎日、顔を変える男。
久し振りに話しかけた彼は、赤らんだ瞳でこちらを睨みつけてくる。
いや、彼が睨んでいるのはこちらではないのだろう。また、あの頃と同じように、憎みようのないモノを見つめている。まったく。どうしようもないくらいに、この暫定友人は変わっていないのだと、柳木は半ば嘆息する想いで手を振った。
「………同級生相手に少年なんて呼ぶの、多分現実だとオマエくらいだと思うわ」
聡は、一気に肩の力を落として、無理矢理に笑みを浮かべる。
元親友の苦痛そうな顔を知ると、柳木は仕方なさそうに自身も白い歯を見せて微笑むのだ。
「現実ばかり敵になるんだ。せめて弄れるところは面白くしないと、心臓がパンクしちゃうってもんだよ」
「その喋り方も変わってない。懐かしいな。っても、まだ経ってて一年半か」
「そうだよ。でも、随分と長い二年だと思う。おかげで、心の距離もかなり近くなった気がするや」
ひーふー、と指折りで年数を数えながら、柳木は聡の手元や首筋をジロジロと眺めて見回す。
そうして何か得心がいった様子でうんうんと頷く同い年に気後れして、青年は恥ずかしそうに両手をポケットに隠してみせる。
「水泳、まだ続けてるのかな。丁度良い日焼けかも」
「…………」
にたりと笑う元好きな人に、聡は歯噛みする。告げようもなければ、言い方も思いつかない。
水泳部をつい最近辞めたという情報は、果たして彼女に告げる必要があるのかと逡巡した。
人にとって、他人の話ほどどうでもいいモノはない。
自分の話は伝えたがるくせをして、相手の話には耳を塞ごうとする気色の悪いそれが人間性である。矛盾するようだが、だからこそ人は話を聞こうとする。そうしてやることで、相手が気持ち良くなると知っているから。
そうすることで、関係を進展させることが出来るから。
本当は聞きたくもないと思いながらも、一つや二つでは収まらない本音を心の中に封じ込めたまま、程の良い自分を装っている。
それでも、とりあえず聡は語ってみた。
ここ数週間の出来事を。今に至るどうしようもない想いを。追い詰められた心根を。自分が立つステージとは別の場所に生きる彼女に。
立ち尽くしたまま。柳木涼子は、その長くてうんざりするような暗い話を、泣きそうな顔で聴いていた。
それだけが、彼のたった一つの逃げ道であると知っていたから。それが打算的なものであろうと。
「部活かクラス。どっちか残ってれば、まだもう少し楽しく出来てたかもしれない」
「自分が悪いのかもしれないけど、けど周りが悪いんだって思っちゃいけない感じで、結局俺が悪いのかな」
「もしかしたら、悩んでるのは夕焼けのせいかもしれない。明日になれば、こんな悩みはくだらないものだって考えられるのかもしれない。けど、それは何より怖くて仕方がない」
「自分がいてはいけない場所だって言われてる気がする」
「俺は人に何も言わないのに、人には全て話してくれよって求めるんだ。おかしいことなのに、いや、おかしくないのかな。それも」
次々と出て来る言葉の螺旋に相槌を打ち、柳木はスクールバッグから財布を取り出した。
そのまま動かした指で自販機のボタンを押し込み、出てきた缶のプルタブをかこりと開く。
夏場の乾いた匂いに、コーヒーの苦い香りが混ざり込む。
この季節は、どうにも男に向いていない。
どれだけ辛くても、苦しくても、それを表情に出せばすぐにバレてしまうから。昼が長いこの夏は、いつまでも気取った顔を続けていないといけない。
聡がそんな顔を解くことが出来たのは、単純な話だ。柳木涼子という存在は、彼にとってもう隠すべき恥が無いほどに醜態を一度晒しているからだ。
決して。彼女の微笑みや優しさがその厚い面を溶かしたとか、そんな浪漫染みた気持ちの悪い出来事はない。そんな塩っぱい世界なら、きっともっと生きやすかっただろうけれど。
ぐびり。と、喉をコーヒーで鳴らす柳木は、鼻から残り香を流しながら、背中を数度叩いて姿勢を直した。
「……水泳部を辞めた、ねぇ。そんで、修学旅行で好きになった子が完全な猫かぶりだったと」
「笑いたければ笑えばいいさ。俺も、まさかこんなに見事に引っかかるとは思ってなかった。………自分はもっと賢いんだと、そう思って仕方がないんだよ。どこまでも馬鹿な自分を認めれば、多分周りに溶け込めるだろうにな」
「懲りないなとは思った。もしかしたら、騙されるのが潜在的に趣味なのかもしれないよ」
「そんな特殊癖を持った覚えはないんだけどな」
「生まれ持って来るのが性癖ってもんだよ。遅れて気付くのが世の常かもね」
適当に言葉を交わしつつ、聡も手持ちの硬貨でスポーツドリンクを購入する。糖分が高くて、エネルギーが効率的に補給出来る運動部のお供。
迷いなく選択する元同級生の姿に、柳木は安堵を綻ばせた。
「で、自分がどうしたいのかは整理出来てるの? この世の終わりみたいな顔してたけど」
「………わっかんねぇ。案外、彼女でも出来たら速攻で楽になるような単純思考してるかもしれないけどな」
冗談風に笑って、聡は買ったペットボトルに口を付ける。
思ったより味が良くなかったか、一口で早々にキャップを閉めてしまったが。
「彼女かぁ。なら、どう。私と付き合ってみる?」
「馬鹿言え。人を騙して楽しいか」
「これが結構楽しいの。なんだ、分かってるじゃん」
「………」
聡は中学生の頃、一度彼女に告白をしている。それも、真剣に。
それをさらりと躱されたものだから、当時の聡はかなり焦ったものだ。
思い浮かべた情景は互いに一緒か。聡は表情に後悔を浮かべ、柳木は面白そうにけらけらと笑っている。
「何度か言ったと思うけど、聡に告白される四ヶ月前くらいは、私もそっちのこと好きだったんだよ。時期さえ合えば良い仲が築けただろうになぁって」
「……七回は聞いたな、それ。知ってるよ。だから告白したんだから」
バツが悪そうに、聡は目を背ける。
彼が告白しようと思ったのには、それはそれは単純で軽い踏み台が存在する。
当時も聡少年は夢で人から本音を聞かされていたのだが、ある日、柳木がそれに出てきたことがあったのだ。
同じ部活動に所属していて、それなりに顔も良く、物腰も男っぽいところはあるが優しい彼女。
そんな柳木に惚れていた聡は、とうとうこの子にも文句を言われるのかと覚悟したものだが、どうしたことか、その薄い唇から紡がれたのは愛の言葉。愛の言葉。愛の言葉。愛の言葉。
思わず引くほどの恋愛感情をぶつけられた聡は、すぐに告白すると決意。意を決して———から四ヶ月余り。
ようやく呼び出して告白をしたと達成感に浸ってみると、柳木はとんでもないことを口にした。
———何を勘違いしたのか知らないけど、私はあんたとは付き合えないかなぁ。
夢も含めて騙される事態は、以来一度も起こっていない。
「まぁ、気持ちなんて幾らでも変わるからね。女性はそれが顕著。って忠告をしても、やっぱり仕方ないんだけど」
あっけらかんと言う柳木に苛立ちの一つも覚えるものの、聡はぐっとそれを抑える。
気付けばかなり気が楽になっていて、落ち着いた心持ちで彼女を見られていることに、ようやく知覚出来ていた。
「けーっきょく。———他人の気持ちなんて気にしても仕方がないよ。考えないといけないかもしれないけど、理解しないと出来ない人間関係なんて無いんだから」
びしっと指を刺され、聡は少し後退する。そんな鼻筋をつんと突かれて、更に動揺する元友人をまた彼女はふふっと笑い、スカートを翻して方向転換した。
互いに向く方向を変えて、それぞれの道に足先を動かして。
「———君は相変わらずだよ。変わらず、優しいの」
きっと分かってくれる人が現れる。そう言外に告げて、彼女は歩き始めた。
「もしそんな奴が出てきたら、バカヤローって蹴り飛ばしてやればいいんだよ。くっだらない感情なんて水で洗い流しちまえよっ!!」
「………そうかねぇ」
影が落ち、段々とその背中も見えなくなっていく。
数年振りに見た表情は、また話す日まで記憶に保存されるのだろうか。それとも、過ぎ行く日々で更新されていくのか。
呆れるほどに快活な言葉を置いていった柳木と別れ、聡は何か思い付いたように、方向転換して夕暮れの道を走って行った。
「優しいところ。そういうところが、私は好きになったんだけどなぁ」




