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夢と現実 一花朱音の本音

 ………藤色の花が散っていく。

 かすかに香る幻に惑い、心臓を抉るような、いや、肺を内側から強引に引っ張っているような、そんな痛いとも気持ち悪いとも言えない感覚が身体を襲っていた。


 その夢が始まった時、きっと俺は初めて、自分が人知れず恋をしていたことに気付いたのだ。


 彼女の顔を見て、俺は泣きそうな顔をしたのだと思う。

 けれど、やめてくれとも言えなくて、目元をれさせながら、うんうんと必死に頷いていた。


 自分にも感情はあるのに、意思はあるのに、言い分はあるのに、それすらも言えなかったし、言おうとも考えなかったのだろう。

 そこまで客観的に自分を眺めて、ようやく俺は俺の醜い部分に気付くことが出来た。


 どうして言えただろう。

 どうして思えただろう。


 演じている相手がいることに気が付いていて、その顔が表の面だと分かっていて、そんな彼女を理解すらしかけていたのに。


 どうして。

 自分に対する姿勢すら嘘だと思えないのだろう。本当は、笑顔の裏に冷めた感情を隠していたことに気付いていながら、知らない振りをしてきたのだろう。


「ねぇ。その何もかも分かってるというか、上から物を見てる感じっていうのかな。………本当に気持ちが悪いよ」


 一花ひとはな朱音あかねは、これ以上なく分かりやすく、本心を表情に反映させてそう言った。


 続けて、彼女はまだ手振りで見せつつ何かをこちらに話しかけてきていたが、押し寄せてくる思想の波が吹雪のように周囲を舞い、立ってもいられないほどの不快感に、意識を失っていった。



 ☆



 過去最悪の目覚め。というと、大袈裟だしおそらく嘘になる。

 初めて夢を見た日はこれの比ではなかったし、人の姿を見て涙を流したほどだったからだ。


 それに比べれば、かなりマシになった。

 それが良い成長かどうかはさておき、適応進化には違いない。こうして、悪い環境にも慣れていく。


 とはいえ。少なくとも、今日はまともに人と話す気分にはなれなかった。


「おはよう。朝早いね、さとしくん」


 だが、面倒なことに、それでも人は話しかけてくる。

 こちらの気も知らず、本音を隠してニコニコと饒舌じょうぜつによくもそうぽんぽん言葉が出てくるものだと、半ば感心しつつ俺は彼女に言葉を返した。


「修学旅行でのんびり起きても仕方ないと思ってね」


 そう言って、甘い甘い卵焼きを口に放り込む。

 本日は修学旅行二日目。この日も、一日丸ごとが自由行動時間となっている。というか、基本は自由散策なのだ。

 観光客の数が圧倒的に多い京都において、集団行動など邪魔にしかならない。


 どこらへんが修学なのかと聞かれると言葉に詰まるが、一応、後日にはなるが京都に関するレポートを三千文字ほど書いて提出するようにはされている。教師側としては、自分らで組んだ定型の京都よりも、各々で巡り感じた一人一人の古都を知りたいのだろう。


 朝食は、泊まっているホテルで各々取ることになっている。

 二日目となる本日の朝、魘されて起きたさとしは気分転換にでもと早めの朝食をとりにきたわけだが、どうやらそれは間違いだったらしい。


 改めて言うが、一花ひとはな朱音あかねは完璧な人物だ。

 基本的な要素は人よりかなり優れている。学力は学年でも十番以内に入るレベルだし、運動だって得意で、容姿にも恵まれているのだ。

 たまに抜けているところもあって、何もかもを完全にこなせるわけではないが、だからこそ隙がない。嫌味を言われることも殆どなく、同性にも嫌われていない彼女は、矛盾しているが、やはり完璧だと言えるだろう。


 そんな女性が、ニコニコしながら話しかけてきてくれて、どんな会話をしても大体頑張って応じてくれる。

 普通なら、こうして勝手に騙されて、一人で舞い上がって告白でもして、盛大に断られて恥をかくのだろう。ごめんなさい、と一花ひとはな朱音あかねらしく優しく告げるのだろう。深く傷付かずに、適度な距離を徐々に開けていくのだと思う。


 そうすれば、結局その本心は見なくて済む。

 本来、本音なんて見なければ楽で良いのだ。知りたくなっても、決して見ることは出来ないそれに触れる必要など無くていい。

 だが、さとしはそれを見てしまう。人が見せない裏を見てしまう。


 それでも、それはさとしだけが知るものだ。

 夢を理由に人に文句を言うことは出来ないし、仮にそれを言ったところで、信じてなどもらえない。


 だから、一花ひとはなは着飾った美しい面のままで笑顔を向けてくれる。

 知らなければただ可愛いとだけ思っていられたその顔を。


「今日はどこに行こっか。昨日は河原町行ってみたし、今度は伏見稲荷とか? 私、すごーく行ってみたかったんだよね」


 大きな瞳を輝かせて、彼女はふんす、と拳を作ってみせる。

 そんな仕草に、髪の毛のセットを済ませてきた有吾ゆうごが、やれやれとばかりに挨拶をした。彼が一花ひとはなの隣に座ると、今度は井原いばらがやってくる。


「どした、さとし。トイレにでも行きてえって顔してんな」


「……え、っと。や、そんなことないぞ。大丈夫」


 いぶかしげな表情をして、有吾ゆうごは、本当か、と親友の顔を覗き込む。

 一連のやりとりに、一花ひとはなはやはり心配そうな顔をした。理想的な顔。意識的に見れば見るほど、吐き気のする作り方だと、確かにさとしはそう思っていた。有吾ゆうごの言葉も、あながち間違いではない。要は便所の使い方の問題だ。


「ってか、食事中に汚い話しないでくれる? ほんっと、ユーゴってこれだから彼女出来ないんだよ?」


「あぁ? 友達の心配する時にマナーなんて気にしてられっかよ」


「二人とも、落ち着いてよー。本当に仲良いよね、有吾ゆうごくんも理沙りさも」


 実に、朝食の場は賑やかになっていく。

 面と、面と、面と、面と、面と、面。

 面作りばかり上手になって、いつしか本音を言うことは違反行為のように禁じられてきた。


 口々に言い合いながらも口元に楽しさを浮かばせる彼らを眺めながら、さとしはつまらなさそうに箸を進める。

 甘ったるいのは、やはり苦手だった。



 ☆



 次の日も、藤色の花弁が散った場所に立っていた。

 足跡だらけで汚れた花は所々が土色に染まり、枯れ始めた樹木はこちらを見下しているようだった。


「今日の君は何だったのかな」


 そう始めて、一花ひとはなは下手くそな作り笑いを浮かべる。

 本音が出るのがこの場所だと言うのなら、きっとそれすらも彼女の本心なのだろう。


「もう終わった事だから良いけど。学校に戻っても、二度とこっちに話しかけないでよね。あんたの眼、気持ち悪いんだ」


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