餡子と京都 井原理沙は息をつく
片道数時間かかるバス移動は、最早様式美のようなものなのかもしれない。
前方には先生が座り、最後方にはクラスの中心メンバーが居座っている。そこから上下カーストとでもいうべきか、前へ前へと静かになっていく並びだ。中央辺りに女子生徒の巣窟があること以外は、大体発言力順と呼んでもいいだろう。
「………ねむっ」
そんな埋めようのない差が出来上がる中、俺と有吾は前の方でアプリのゲームに勤しんでいた。
俺も彼もゲームは割と嗜む方で、中学の頃もこうしてよく一緒にやっていたものだ。当時はスマートフォンではなく、パカパカ開けるあれだったものだが。
そして、偶然にも一昨日に新作が配信されたばかりで、今は丁度それが面白いのかどうかを実際に遊んで試しているところだった。のだが、朝早くからの集合ということもあり、二人とも既に欠伸を一分間隔でやっている調子である。
「何で、バスなんだろうなぁ」
理由は俺も知りたかった。
ここら辺に、公立の公立感が出ている気がする。公立は公立でも、体育学部などがある高校はまたもっとお金を使っているというのに。
その呻きは、サービスエリアに着くまで続いたという。
☆
巨大な建物が眼前に広がっている。
空の青をこれでもかと反射したガラス張りの壁は、天と地の境界線を見紛うほどに壮大で、街を照らす日光も、太陽に従って道を空ける白雲も、通りを埋め尽くす話し声や信号の音も、全てが彼らを迎えていた。
バスから降り立った場所は、京都駅のバスターミナルの一角。
数時間かけて到着したということもあって、殆どが眠気や空腹に襲われていてヘロヘロだったけれど、この空気を吸えば嫌が応にも瞳を輝かせるだろう。
画像やテレビで幾度となく見た景色ではあった。巨大なバスターミナルに、シンボルたる京都タワー。街行く人の大半が外国からの観光客で、着物で歩いている奥様方も見受けられる。ワクワクした表情で出発していく中学生や、信号の前で横一列に並ぶタクシーの壁。一台行ったと思えば二台帰ってくる薄緑を基調とした市内巡回のバス。
千年の歴史を持つ古都の門。
自然の神秘でもなく、あっと驚かされるような幻想的な光景でもない。けれどそれは、彼らの足をこの場所に、視線を縫い付けてしまっていた。
とはいえ、中には京都に二度、三度訪れたこともある人もいて、その反応自体はまちまちなのだが。
「……えっと、これから自由行動だっけ」
事前に配られた予定表を見ながら、聡はそんなことを呟いた。既に教師陣はバスステーションの近くで何やら話し込んでいて、生徒側も散らばりつつある。
乗って来たバスはここまでのようで、ホテルには各自自力で向かってもらうことになっていた。
どこか寂しい気もしたものだが、お説教染みたありがたいお話が無いことに大半の生徒が感激していたという。
自由行動と言っても、やはり安全にはしっかり注意しなければいけないらしく、最低でも三人以上での行動が推奨、というか義務付けられているので、実質班行動といったところだ。
三名。ということで、男女それぞれ二人組である聡の班は、結局一緒に行動しなければならないということだ。
ちなみに、それを告げられたのはついさっき。バスの中で適当に放った先生の言葉によってである。
「だな。で、結局どこ行くんだ?」
聡の言葉に、タオルで首元の汗を拭いながら有吾が反応を示した。
二日間、京都市内を散策するにあたって、実は絶対に抑えておかねばならない名所というものは存在しない。
伏見稲荷や金閣寺銀閣寺、清水寺といった神社仏閣から、水族館や京都タワーなどのランドマーク。それらを各々興味があれば見に行くくらいで、万人の正解は実はないのである。
なので、優柔不断が目立つ聡は決めかねていたのだが。
「銀閣寺、かな」
今朝方、一花に言ったのが意外にもしっくりきていたらしく、バスに視線を合わせながらそう言った。
☆
「……本っ当に外国人多いな。死にそーになるわ。っていうかもう死んでる」
実際に真っ青な顔でそう言うのは、観光中に外国人に囲まれて香水の匂いをこれでもかと浴びせられた東堂だった。
おかげで、彼の服や髪はほんのりきついスメルを纏っている。
そんな東堂を一瞥し、態とらしく鼻を摘んで井原はしっしと手で追いやる仕草を見せた。
「近寄んないでよー。鼻が曲がりそうだわ、鼻が」
「お前さっき良い匂いだとか言って北欧のおばちゃんに話しかけてたじゃねえかよ。なぁにが曲がんだよ言ってみろ」
「メルリーさんは良いの。あんたがつけた瞬間効力が無くなるの。臭くなるの。分かるかなー、分っかんないかなー」
「メルリーさん誰だよ!? 相変わらずそのクソみてえな性格なおってねえみたいだな」
とことんマイペースな台詞回しをくるくると展開させる井原に、東堂が苛立ち混じりに反論してみせる。が、彼のストレートな性格を知り尽くしているのか、彼女は心のままにいじり倒していた。
「まぁメルリーさんは置いといて、この後どうする?」
おそらく先ほど親しげに話し込んでいた白肌の老婆がメルリーなのだろう。
帰国子女である井原は、成績良好とは言えないものの、語学力、特に英語に関しては凄まじい実力を持っている。
見かけによらず、ただの阿呆ではないというわけである。東堂はただの馬鹿であるが。
いがみ合う二人をよそに、聡が一花にそう尋ねると、彼女はうーん、と考え込む素振りを見せた。
現在地は銀閣寺より真南に主要道路を下っていった地点である。ここから少し行けば、観光名所としては金閣寺などに迫る人気を誇る南禅寺や、最近出来たばかりのコーヒー専門店であるブルーボトルの店舗などがあったりする。
何なら動物園や美術館、平安神宮まであるため、この辺りは選り取り見取りなわけだ。
ふと周囲を眺めてみれば、京都の名に恥じぬ数の修学旅行生がお目にかかれる。色々なデザインの制服が入り乱れ、去ってはまた違う高校の生徒がやってくる。ここへ来るために聡らが乗ってきたバスにも、同じく修学旅行であろうと思われる学生が固まって乗っていた。
「ね、田中くんって普段どんなお店行くの?」
河原町を目指して適当に歩いていると、不意に一花がそんな風に話しかける。
未だに東堂らが二人で話していて暇になったのだろうか、彼女はどこか楽しいものを探しているような表情をしていた。
急に近づく一花の顔に、聡は一瞬仰け反るものの、すぐに持ち直して息をつく。
小さく、形も綺麗な卵型の輪郭。陽光を反射してキラキラと輝く大きな瞳に、薄い唇。清楚な雰囲気を醸し出しながらも、前髪や眉に見られる遊びの要素は、彼女の人気に直結しているのだろうと思えた。
一花朱音という少女は、同性からも異性からも好かれやすい存在だ。
前述の通り、人並み以上に整った顔立ちは勿論のこと、授業や部活の切り替えがしっかり出来る真面目な性格と、喜怒哀楽がストレートに表現出来る言葉の紡ぎ。男子の前では女の子らしさを感じさせるし、同性といる時は持ち前の快活さでリーダーシップを自然ととっていたりする。
だが、その反面、本人が何を考えているのかは分かりにくい。
喜怒哀楽がはっきりしているとはいえ、はっきりしすぎているのも問題なのだ。結局、一花は中心になりやすい人物で、だからこそ彼女を悪く思おうと考える人間がそもそも少ないというだけで、その本質は一言で言えば、演技が上手いというところに尽きる。
というのは、班結成の後で東堂が聡に話していたことだ。
とはいえ、それが正解とも限らない。
東堂もまた捻くれた性格をしていて、常々自分を演じている。表裏がない人間の方が珍しいだろうが、それを自覚しているものは殊の外少ない。
そして、そういう奴は極めて厄介だ。
その手の話を散々聞かされ続けたせいか、聡も一花にかなりの警戒を抱いていたが、ここに来てそれも薄まりつつあった。
彼女は清廉で、周囲から見られる自分を大事にしているのだ。そうすることで、自分を最大限美しく保っている。
だからこそ、誰にでも優しくする。でもそれは、良く思われたいのではなく、悪く見られたくないというだけ。
一花朱音という少女は、決して好意など求めてはいない。
☆
鬱陶しい。
何が動いていて、何が有名なのか。何が人気なのか。そんな事柄が分かりやすくて、河原町というところは居心地が良い。
相変わらず、ユーゴは文句ばかり言ってくる。けれど、割と嫌いじゃない。
心の中で黒いスープをぐるぐると回している人間が多いこの世の中では、彼みたく本音をぶつけてくる奴は珍しいものだ。
だから、嫌いだけど嫌いじゃない。鬱陶しいってのは、要するに褒め言葉だ。
だって、本当に嫌な奴とか怠い奴って、何を言われても何も感じなくなるっしょ?
ユーゴの友達らしい、この田中って奴も、そういう意味では分かりやすい。
本人に自覚は多分ないだろーけど、人に優しい奴ほど言葉を選ぶものだ。ま、その優しさってのは、多分誰にも伝わらない優しさなんだろーと思う。
でも、人ってそんな感じで、どれだけ人のこと考えてても、自分が結局一番優しいんだとか、賢いんだとか、そういうことを考えがちらしい。
気の弱い人ほど利用されるし、賢い奴は人を馬鹿にする。どこかで調子に乗って、どん底に落ちるまで気付かない。
けど面倒なのは、そういう奴らは世渡りが上手いというところだ。蹴落とされることなんてまず無いし、調子に乗り続けることも出来る。
多分、あたしとユーゴがずっと話してるからだとは思うけど、田中は朱音と一緒にいる。
異性から見たら、一番最悪なタイプだと思うんだけどな。朱音って。
そりゃ、可愛いよ。
顔も整ってて、髪も綺麗。不良に見えない程度に着崩してるから、なんとなく取っつきやすいイメージもある。清楚過ぎてもお堅い雰囲気出がちなんだよね。
真面目過ぎない委員長タイプっていうのかな。そういうのを意識して作ってる。
まぁ、キャラを作ってない人の方が珍しいだろーけど、要はそういうこと。
田中は、けどよくよく考えれば朱音に似てる。気がする。
それはキャラを作ってるとか、人から良く見られようとしているとか、そういったことじゃなくて、そう。
他人の心根ってものを一切信用してないところ。
ユーゴにもその節はあるけど、その辺は類は友を呼ぶ的なやつだろう。つまりは、他人の表層を疑っているのだ。いつも。
そういうのって、人と接する上で面倒くさいだろうなって思うんだけど、それもあんまり気にしないのかな。
でも、同じクラスで数ヶ月暮らしてたけど、田中がそこまで人間嫌いには見えない。部活も行っているみたいだったし、修学旅行もきっちり来てるし。会話も、多分普通に出来てる。
ただ、あの手のタイプはやっぱり朱音に近づくべきじゃない。
何でって。裏も表も引っ括めて、あの子は一花朱音なんだから。
まぁ、同性としては話しやすくて良いんだけどね。
☆
「いやー、コーヒー美味しかったね」
鼻腔に微かに残る風味を楽しみながら、大きく伸びをするのは、快活な笑顔を見せる一花朱音だ。
朗らかな気分で歩く彼女の片手には、小さな紙袋が握られている。
時刻は午後一時を過ぎていた。
昼時になってお腹を空かせた聡の班は、この近辺に有名な珈琲の店があるということで、そこに昼食をとりに行っていた。
「ネットで取り上げられてる店だしな。一度行ってみたかったんだが、まー正解だったみたいだ」
購入したサンドイッチを頬張り、有吾は満足気に笑っている。
昼をどこで食べるかは決められていなかったのだが、折角の修学旅行をチェーン店でというのも何とやらで、かといって老舗や高級店に入るのも金銭的な問題で気が引けた。
そういう意味で、有吾の提案は功を奏したと言うべきか。
「ユーゴらしいチョイスだったけどねー。あたしはパフェとか食べたかったけど」
かったるそうにそう語るのは、あんぱんの甘みに瞳を輝かせる井原だった。
その様子を見て有吾は何も言わずに鼻を鳴らし、聡は微笑ましそうにそれを眺めている。
「さっきからパフェとかタピオカとかよぉ。そんな今時の流行りみたいなモンに乗っかってる割には、おばあちゃんみてえなの食べてはしゃいでんじゃねぇか」
「な……っ!? ふ、ふふーん。タピオカの時代はもう終わるんだから。消えて無くなっていくものより、永劫普及のあんぱんこそ覇者だと思うけど?」
顔を赤らめながらも、口元は緩んでいる。
特別パンが好きというわけではないものの、彼女にとって餡子はそれなりに好物なのだった。
「あんぱん好きなんだ?」
聡が尋ねると、井原は眩しいくらいの笑顔で大きく頷いた。
昼休みの時間、彼女はよく購買であんぱんを買ってきている。糖分が好きなのか、餡子が好きなのか。そこは聡には分からない範囲の話だが、なんとなくそこには井原の優しさが見られる気がする。
「よくおば……祖母がお餅に餡子入れてくれてたんだよねー。あたし、なんかそれがもう染み付いちゃっててー」
「って話は長くなるから気をつけろよ聡」
「あんたに話す思い出なんざ一個もないし。今あたしと田中が喋ってんでしょ?」
「あー怖い怖い。分かったよ。じゃあ俺は一花と話すとしようかな」
井原は片手でしっしと有吾を追い払って、小さくため息をついた。
けれど、それは嫌なことがあったとかそういったことではなくて、むしろその逆の感情が想起されるようなものだった。
緑茶を飲んで息を漏らすような、そんな、不思議と落ち着くような。
話をしながら、少しずつ、今までは関わってこなかった井原理沙という女性について分かってくる。
そんな感触に、聡は苦々しく笑うのだった。




