後輩と理由 相原愛佳は掴めない
帰路の夕暮れに濡れる信号機は、同色のランプを静かに点灯させている。
青の点滅。のろのろと自転車を押していた手を止め、何の気も無しに俺は立ち止まった。ランプの色が変わるまで残り一秒か二秒。雲がどこか遠くの空へと去って行くのを薄目で流しながら、ぼんやりと時間を待っていた。
「あ、先輩じゃないですか」
だが、どうやらそれは大きな間違いだったらしい。
耳に入れば一日は頭から離れない甲高い声。どう考えても作ったその音に辟易しつつ、顔を動かさずに辺りを見回した。
うげっ、という声が出ていなかったか不安になる。前、右、左。上下にいないとすれば、彼女は後ろにいるのだろう。さながらホラーゲームか何かだ。本来そこにあるはずのない人物の呼びかけに、仕方なく俺は振り返った。
そこには途轍もなく可憐な女子生徒の姿があった。中身を知っているために今更驚くも何も無いが、廊下を歩いていればさぞ目を引くであろう彼女の姿は、最悪なことに、射した夕陽に照らされてその造形を更に強化してしまっている。
ぱっちりと開いた二重の瞳。女子高生らしい素朴さを出しつつも、パッと目に止まる、爽やかに揃えられた短髪。健康的に焼けた肌。小柄な体躯。
どこをどう見ても美辞麗句しか出てこないのが腹に立つほど、単純に可愛らしい後輩少女。相原愛佳は首をこてんと傾げながら、大きな眼球でこちらを捉えていた。
「何でこんなところにいるんだよ」
「あーっ、その質問絶対来ると思ってました。じゃあ私もこう返しましょー。なぁーにーゆーえー、先輩はこんなところにいるんですかね?」
「質問に質問で返すな。まずはお前が答えるんだよまずは」
ぺこっ。と、軽く頭頂部にチョップをいれてみると、相原は「いだぁっ」と、心にも無い嘘を吐いてみせる。
女子の髪の毛を少しでも崩せば怒髪天が目を覚ます。チョップといっても、つむじに毛根的ダメージを一撃入れてやっただけだ。というのに、相原はぽんぽんと、ヒットした箇所に慈愛の手のひらを当てていた。
「そう、ですね」
そんな猿芝居に飽きたのか、顎に指を当てて考える素振りを見せる相原に、俺は大きくため息をついた。
何だか当たり前のように会話が進んでいる気がするが、この後輩とはあまり話したくないのだ。
「うーん、どうしましょう。先輩って割と硬い頭してますし、誤魔化すのも中々大変なんですよね……」
「頭の中身が凄い速度でだだ漏れしていってるけど大丈夫かお前。もう修復出来ねぇぞ」
「いえ、ですね? 私、水泳部じゃないですか」
「そうだな」
こくり、と一度肯定をしてやる。そう、俺が何の接点も持たない後輩生徒と関わりなど持とうはずがない。このガキ。訂正。この後輩は、俺がつい数日前まで所属していた水泳部の部員だったのだ。そして、女子生徒。
大体もう分かりきった話なのだが、夢で俺に言われのない中傷を与えてきたのは、彼女と他数名だ。つまりは、水泳部を辞める原因の一端に関わった人間とも言える。
夢の中では本心を聞くことが出来る。要するに、こんな風に、誰も見ていない状況で、そんな風に思っている本心を隠しながら、ここまで嫌気無く接することが出来るのだ。
「で、とりあえずプールサイドまで出てみたんですけど、先輩がいないなぁって思いまして。何となく出てきちゃいました」
「出てきちゃいました。じゃねぇよ」
悪気もなく言うのだから性質が悪い。とはいえ、夢は夢だ。あれが幾ら本心であっても、彼女にそれを喋った記憶など無い。勝手にいなくなってラッキー程度に考えているはずだ。
「先輩に聞いてないのか。俺は部活辞めたんだよ。水泳部にはもう行かない」
「それは聞きましたけど、なーんか気になるんですよね。先輩って、取っ付きにくさの塊みたいなヒトですけど、部活結構楽しんでたじゃないですか」
「まぁ楽しかったからな。夏場は涼しくて良いし」
「女子の水着も見放題じゃないですかー」
「あんまり頷きたい言葉じゃねぇな」
「ははぁん。差し詰め、先輩ってホモですね?」
「結論を出すな。違うけど、女子の水着見放題で最高だとか、思ってても言えることじゃない。分かるだろ」
ふと、思い返す。
ほんの数日前。気持ちの悪い脂汗を服に染み込ませて起き上がった日のことを。
夢に出てきたのは、三人の女子部員。目の前の相原と、もう一人後輩がいて、三人目は同学年だった。
彼女たちは現れるとほぼ同時に、キモいだの何だのと言い始め、互いに互いの意見を肯定し合いながら、俺に視姦野郎の称号を与えていった。
誰かが自分のことを嫌っている状況は、割と当たり前のもので、珍しくもない。全員に好かれることなどありえなくて、みんなと仲が良くてもきっとその中の誰かが嘘をついている。
単純な話、三人に嫌われていようと、どうだって良い。特別容姿が整っているわけでも、話し上手なわけでもないのだから、水泳部という条件下であれば、そんな疑念は抱いて当然だと思う。
男子に無いわけではないが、女子は特に肌を晒すという行為に恥じらいを感じている。そのレベルは人それぞれとしても、視線は否応なく向けられるだろう。それが授業中か、部活動中か、大会か、あるいは公共施設かはあまり関係がない。
一度感じてしまえば、周りの視線を自然気にしてしまうものだ。それに対して、部活だから恥ずかしがるな、などとは口が裂けても言えない話である。
ただ、視線を向けてきていると、そう思われている。それに対して、何か反論をしようものもないし、出来るわけもない。
俺は女子ではないから、彼女らの感性を理解することも、否定することも出来ない。
思っていたなら面と向かって言えと言うのも酷なことだろう。だから、これで良いのだ。水泳部には思い入れがあったし、相原の言う通り、楽しんでいたのも事実。けれど、彼女らにそう思わせ続けて、自分だけは夢で聞いたことを無かったことにするのも違うだろうし、かといってそれに対策を取ることも出来ない。
面倒になって、その状況が出来上がる舞台を消しただけだ。いずれしなくなるモノを、少し早い段階で捨てた。それだけだろう。
「———別に、仲良しこよしでしましょうねとは言わねぇけど」
「え、何です?」
「いや、何でも。っていうか、サボりじゃないなら部活戻った方が良いと思うぞ」
適当に誤魔化しながら、改めて確認する。
相原は本当に、良く出来た後輩だ。こう例えると少し違ってくるのかもしれないが、理想の年下というのは彼女のような人を指すのだというくらいに。
「いえいえ、折角先輩を見つけたんですよ。今逃したらそれこそ部活来なくなっちゃうじゃないですか」
「だからさぁ」
むふー。と、気合いを入れ直すように、相原は小さな肩を上下させる。
「でも……、そうですね。こんな道端で話すのも何ですし、どこか移動しません?」
「話すの確定かよ」
最早隠しても仕方がないので、本気で面倒臭そうに眉間に皺を寄せると、この後輩はしかしそれでも退くことをしなかった。
「———はいっ」
どうやら、本当にこの後輩は俺を逃がさないつもりらしい。夢の中ではあれほどニヤニヤして気持ちが悪いだ何だと、さながらいじめっ子のように言いたい放題言ってきたというのに、その本心を隠してまで話そうとするものだろうか。
それとも。あれはあれで、彼女なりのコミュニケーション手段なのだろうか。
☆
どちらにしても、盛大に厄介で面倒な後輩だということには、変わりないのは確かだった。
去っていく店員の姿を見送ると、相原は一口分、提供されたミルクココアのカップを傾けた。味の余韻を楽しんでいるのか、そのまますんすん呼吸をすると、満足げに微笑んだ。
先輩に奢ってもらった飲み物は値段分程度は美味しいようだ。
「で、先輩ってどうして水泳部やめたんです?」
そんな奢り甲斐のある後輩は、こちらがサンドイッチを頬張るのを手で制止して、強引に質問を挟み込んできた。冷めたり伸びてしまったりする不安はない食べ物だが、ご飯をお預けされた犬のような気分だ。
どうして部活をやめたのか。
なるほど。確かにこれは道端ではし辛い話だろう。別にしても良い気がするが、中々に時間がかかりそうだということは相原も察しているみたいだ。そして、その予想は残念ながら大正解である。
とはいえ、だ。長くなるとは言うものの、結論は既に出している。水泳部の部長である畔上先輩に、理由は話しているのだから。勿論、その場で思い付いた適当な嘘ではあるが。
今朝、水嶋センパイからも同様のことを聞かれたので、その情報は部内に流れてはいないのだろう。
水嶋センパイは快活とした男勝りの女子であったため、あまりそこに深くは突っ込んでこずにさらりと流してくれたが、こちらはそうはいかなさそうで、どうしたものかと現在進行形で悩まされている。
畔上部長に話した通りに説明するのは簡単だが、それも何となく、彼女には通用しない気がしてならない。
そして、学生がよく通うチェーン系列の喫茶店。に、強引に誘い込まれている現状。逃げ場もくそもあったものではない。
少しの間、沈黙していると、相原はずずいっと顔を覗き込んできた。
「……一応、部長には話してる。そっちに聞きに行っても良かったと思うぞ」
「思わないです。畔上先輩って凄い怖いじゃないですか。胸毛やばいですし」
「胸毛は余計だって。まぁ、俺にわざわざ聞きにくるなとは言わないけど、そもそも何でそんなに聞きたいんでしょうか」
「言われてみれば先輩のことを聞くのにここまで追いかけてるのは自分でも引くなーって思っちゃってるんですけど、そこはそれです。衝動です」
手を胸元で動かした後、相原は再びカップに口をつける。
こちらもこちらで、頼んだ飲み物で喉を潤しながら、ただ彼女の話を聞いていた。
だが、どこまでいっても答えは出せず、流れる沈黙に身を預けたまま、俺たちは店を出た。
逃さないとまで言っていた相原は、すっかり太陽の沈んだ暗い空とスマートフォンの画面とを交互に見やると、流石に背中を向けた。
見送りながら、ふと考える。
俺には、彼女に答えてやれる考えがあったのかどうか。
答えなかったのではなく、答えられなかったのではないかと。
彼女の寂しげな後ろ姿をぼんやり眺めていると、そんな違和感に悩まされてしまうようだった。これは、罪悪感からくるものか、あるいは。




