本音と弊害 田中聡の言い訳
砕けた景色が広がっていた。
油絵か何かのように空間が歪んでいて、原色をそのまま塗りたくったような空間は、どこか耐え難い不快感すら感じさせるものだった。
長いため息をこぼしながら、少し待つ。
俺はこの空間を知っていた。誰かから説明を聞いたわけでも、調べあげたわけでもないけれど、長年続く経験は、それを頭に植え付けている。
これは、夢だ。
凡そ動物の視るそれとは大分異なるモノだとは思われるが、俺はこの空間のことをそう呼称している。まともな感覚が残っていれば吐きそうになる奇怪な空間も、全ては俺の頭の中というわけだ。
だが、そんな夢の中において、俺がつくったものではない何かが一つ。
離れた場所に、一人の青年が立っていた。背丈は大体中学生くらいで、目線は俺と同じ高さにある。生気の感じられない虚空の瞳はしかしこちらを真っ直ぐに貫いていて離さない。
まるで責められているような表情に、目を逸らしたくなるが、それが許されないことくらいは、幼い頃からの積み重ねで知っていた。
「お前の———」
始まる。
「———顔が嫌いだ。何を考えてるのかわからねぇし、話しかけてやっても面白くなさそうにしやがって。俺がそんなに嫌いかよ。そんなんだから友達も少ないんだよ」
延々と。その男、名は何と言ったか。確かクラスメイトの吉田。は、そうやって愚痴をこぼし始めた。怒気を孕み、強く力を込められた彼の顔の筋肉が動く度に、俺はため息が出る。
霞んでいた瞳にもいつしか生気は戻っていて、どこか楽しそうだ。そんなに、俺に文句を言うのが嬉しいのだろうか。
それから数時間。彼はペースを落とすことなく語り続けた。俺のどこが変で、どこが嫌いで、どこが憎らしくて、どこが気持ち悪いのか。それをエンドレス、休む暇も与えず喋り続けた。
「まぁ、そんな感じかな」
と、気付けば吉田は話すのをやめていた。やってやったとばかりに両手を腰にあて、鼻を鳴らしてみせている。そんなに達成感のあることなのだろうか。
それとほぼ同時に、空間に亀裂が生じる。比喩でも何でもなく、ガラスが突風で割れるように、ヒビの中心から線が伸びていき、やがて瓦解する。
夢が終わる合図だ。
———ほら、夢だろう。
薄く開いた瞼を開閉させ、見慣れた天井を見上げながら、やはりもう一度ため息をつく。
原理も何も知らないけれど、終われば目が覚めるのならば、それは夢だろう。どちらにしても、呼称に意味などない。
大事なのは、あれが本音を言われる場であること。俺に対して思うことを、思うまま、全てを吐き出す。俺ではなく、他人のための場であること。
おかげで、もう長い間、まともな夢はみられていない。
夢をみなかった日はさておき、これが殆ど毎朝のこと。大抵は罵倒されて、陰鬱な気分で目を覚ます。そうして、人に対する態度は変わっていく。
最初の頃は、指摘された部分を直そうだとか努力したものだが、言われ続けていくうちにふと気付くものだ。全員に慕われる人間、全員に納得してもらえる人間など作れないのだと。
俺は、夢の中で人の本音を聴くことが出来る。正確には、その人物の、俺に対する思いを。
毎度誰が出てくるかは完全にランダムで、規則性は今の所見つからない。クラスメイトが出てくる時もあれば、遠い親戚が出てくる時もある。意味がわからないが、俺が知らない人物も度々現れる。ようは、最低限俺を知っている相手、ということらしい。こちらが認識しているかどうかはおそらく関係がない。
幼少の頃から、俺はこの夢に悩まされてきた。最初はただの悪夢だと考えていたし、両親にそれを打ち明けることもあった。けれど、あの子がそんなこと言うようには見えないけれどねぇ、なんてありきたりな言葉をぶつけられ続けるうちに、いつしか誰にもそれを告白することはなくなっていったのだと思う。
大体の人間は俺の嫌な点を挙げてくる。明確なエピソードがあったり、人から聞いた噂話が発端だったり、極端な場合は、真正面から嫌いだとぶつけられることも。全ての人間に好かれようだなんて考えてはいないけれど、友人だと思っていた奴から、初めて面と向かって悪口をぶつけられた時は割と衝撃を受けた覚えがある。
きっと知らなくてもいいことだったのだと思う。今朝出てきた吉田は、以前に現れた時は別のことを言っていたし、おそらく人に対する感情なんてのは些細な出来事一つで変わっていくのだから。
嫌いと言われて、じゃあ好きになってもらえるように頑張ろう。とか、ポジティブシンキングに走る人もいるだろう。素晴らしいね。是非とも頑張ってもらいたい。けれど、どちらにしても、毎日誰かから本音を聞かされ続けて、それでもまだ人前で笑顔を保てるほど、俺の器は大きくなかったというだけの話だ。
寝転がって携帯の画面を眺めていると、何となく香ばしい匂いが部屋に入ってきたことに気付く。母が朝食の準備を済ませてくれたのだろう。説明口調で言えば、薄っすら焦げ目のついたパンと、それにバターと卵らしい何か。今朝は洋食らしい。
「おはよう、遅かったのね。朝練は?」
開幕。階段をとんてん降りてきた俺に一言浴びせてきたのは、ぺたりと髪の毛の落ち込んだオフ状態の母親だった。フライパン片手に、キッチンの向こう側からこちらに笑いかけてきてくれている。
完全に余談だが、このお母さんは二週間前くらいに夢に出てきて、もう少し明るい子に育ってくれれば言うことないんだけどねぇ、なんて心配そうな顔で言ってきていたりする。
つまりは、彼女の前では俺は明るい性格でいることを望まれているのであろう。であっても、無理に明るく振る舞うとぎこちなくなって逆に気持ちが悪いだろうということは分かりきっているので、どうしようもないのだが。
母親という存在がそういうものだというのは前提の話なのかもしれないが、そういう感じで、うちの母親はかなりの心配性だ。
なので。
「部活ならやめた」
なんて言った暁には、
「え? 何でよぉ。折角良い感じに馴染めてたみたいだったのに」
と、眉根を寄せ上げて口をへの字にしてみせる。見学しに来たわけでもないのに、どうして馴染めていただなんて分かるのか。敢えて何か言うわけではないけれど、ため息くらいはつきたくもなる。
別段、何か特別な理由があるわけではない。所属していた水泳部はそこそこ楽しかったし、部の雰囲気も熱血すぎず緩すぎずで居心地が良かったのは確かだ。何より泳ぐのは好きだし、中学から続けているというのもあって、個人的にはむしろ気に入っている方だった。
原因は夢だ。
この前の月曜、夢で部の女子グループから、こちらをちらちら見てくるのは気持ちが悪いからやめてほしい、なんて言われなければ、俺だってずっとバッタをしていたかった。というか、酷すぎませんかね……。まず見てないし、そもそもゴーグルのせいで眼球がどこに向いているのかすら分からないはずなんですけど。
流石に女子部員からのブーイングがあったなんて言えないが、適当に話を合わせつつトーストを齧っていると、壁にかけられた時計の長針が八を示そうとしていた。
部活の朝練が無くなったこともあり、何時に家を出るべきか昨晩は少し悩んでいたものだが、始業時刻を考えると、そろそろ出ても良い頃合いだろう。
残ったスクランブルエッグやらソーセージやらを口に放り込み、ごきゅりと飲み込んでは牛乳を一息で飲み干した。歯磨きに整髪、着替えと準備をそこそこに済ませ、お気に入りのプレイリストを設定してイヤフォンを耳に装着する。
そうこうして家を飛び出し、えっちらおっちら自転車を漕ぎ始めた。
「———はぁ」
いつもの信号で足止めをかけられ、一時停止。自転車のハンドルに腕を乗せ、その上に顎を乗せる。自然と出るため息に我ながら暗いなと呆れてしまう。すぐ横のコンビニでガムか何かを買うのも良いのだが、遅刻なんてしてもたまらないために、適当な考え事をしながら信号機の色が変わるのを待っていた。
数秒すると、横断歩道を挟んだ向かい側に、見知った顔があることに今更気が付いた。
柳木涼子だったか。茶がかった黒い短髪に、卵型の柔らかな顔立ち。美人と可憐の中間をいく彼女は、中学の頃も部内では男子人気が高かった。かくいう俺も、柳木とは少しばかり縁がある。が、それも昔の話だ。
今はすれ違う寸前で、お互いがお互いに気付いていても、視線すら交わさずに通り過ぎていく。進学した高校が別々なのだから、当然といえば当然なのだが。
しかし、大体そんなものなのだろう。卒業式を終えた教室で、高校行っても遊ぼうぜなどと言っていた連中の一体何割が実際に進学してからも定期的に会っているというのか。
高校の方が関係の密度が濃いだとか、過去は過去だとか夢もないことを言うつもりはないが、交友関係は日々更新されていくものだ。二ヶ月会わなかっただけでも顔が朧ろになっていくのに。
柳木の顔も、以前と比べると少し、良い意味で高校生らしい顔になってきている気がする。そう、その気もするし、以前と同じような気もする。
そうこう考え事をしている内に、校門がすぐ目の前に見えてくる。気付けば額にはじんわり汗が滲んでいて、脇のあたりはカッターシャツの布がぺたりとくっついていた。
梅雨もなんとなく明け、照りに照った陽光は学生の敵だなとふと考える。特に女子はひどいはずだ。中学生の頃は殆ど口に出していなかったのに、高校に入学してからは、やれ日焼けだ、やれ化粧が崩れるだ色々とうるさくなってきているのだから。
「……あっつ、い」
周りに人がいないことを確認して、下駄箱で声をこぼす。数日前までは、どれだけ暑くても朝練の水泳でどばんと汗を流し落せたものだが、本日よりそれは失われてしまった。
今朝、母にも言ったが、中々に水泳部は心地が良かった。汗でベタベタになることもなければ、用品にもお金があまりかからない。太ももと背中が激痛を唱えるのが難ではあったが、運動部ならどんなところでも多少の筋肉痛は起こって然るべきだし、何より女子の水着姿は眼福だった。そう考えると、こっちを見ていたと主張する女子部員の意見もあながち間違いでもなかったのかもしれない。
中学の頃は、泳ぐことがとにかく楽しくて、視線はいつも水の中に向けていた。今もそれは変わらないのだが、どうにも下心には敵わない。
首筋から鎖骨を伝う雫。へその凹みにまでしっかり張り付いた競泳水着。そしてそれが正しくイルカのように波を打つ姿。そこだけは譲れない。
「こら田中」
と、廊下をつらつら歩いていたところに、背中をむんずっと鷲掴みされた。振り切ることも出来たのだが、俺に対してこんなことをしてくる知り合いに心当たりがあったので、仕方なく声のする方へ振り向いた。
そこには、程良く日に焼けた短髪の女子生徒が立っていた。髪は整っているがどこか湿っていて、先ほどまで濡らしていたことが伺える。気の強さを感じさせる吊り目と、綺麗に通った鼻筋。彼女は脳内議題にあがっていた水泳部女子の一人であり、俺の一個上の三年生だ。
今にも拳骨を振り下ろしてきそうな威圧感に負け、俺は暑さとは関係のない汗を垂らしながら、その先輩の名を呼んだ。
「あー、えっと。どうしたんですか、水嶋センパイ」
「どうしたんですか、じゃないよ。何、水泳部やめるんだって?」
ちら、と壁の時計を一瞥してから、水嶋センパイは話し始めた。腕やら髪が揺れる度に、水泳後特有の塩素の臭いが鼻腔に届く。部員の中には、この臭いがつくのが嫌で、コンビニなんかで売ってるフレグランスを付けている人もいるのだが、彼女は特にそういったことは気にしないタイプの人物だった。
「まぁ。ちょっと色々あったんで、やめようかなって」
まさか夢で女子部員からブーイングを受けたのでやめますとも言えず、何とかそれらしい意見を口に出すしかなかった。実際、嘘はついていない。色々あったのだ。その色々には本当に色々含まれているわけだが。
仮に女子部員が現実で夢同様、視線が気になって気持ちが悪い、なんて言ってこなかったとしても、何となく居辛さでやめてしまいそうな気もした。少なくとも、そんな風に思われている中で、いつものようにコミュニケーションを続けることなど出来ない。
だが、水嶋センパイはそんなことを一切気にしていないようだった。三年生ということもあって、実質女子側の部長のような立ち位置にいるセンパイは、後輩のことをよく見てくれている。悩み相談なんかを受ける様子も度々目にしている。
もしかすれば、きっと俺の視線についての愚痴も聞いているかもしれない。
「決めたんなら止めても仕方ないけどさ。たまには顔出しなよ。また人足りない時とか」
そう言って手を振るセンパイを、俺はただ小さくお辞儀して見送った。




