夜明け
苦しくて、思いきり息を吸い込んだ。
多量の空気が気管に流れ込む、必要以上に大きな音。
びっくりして目を開けた。
起き抜けはイマイチ頭が働かないもので、見慣れない部屋の床にぺたりと座り込んでいた自分に、ちょっとだけ動揺する。
ややしばらく、輪郭が滲んだような室内を見つめてしまった。
灰色の石壁に、茶色い木の扉。野菜の入った袋や木箱。裏口だとは思っていたけれど、調理場からの勝手口だったのか。
「…ぁ…。みえる…」
まだ少しぼやけてはいるが、視界のモザイクは随分と小さく崩れていた。
細かい物の見分けはつかないけれど、大体の物は輪郭がわかる。袋や箱に書かれた文字は読めないけれど、何が入っているのか、野菜を見て判別が付く。
両手を目の前に持ち上げてみる。
少し労力は要るものの、持ち上がった。指紋はまだ見えないが、指の形はわかる。
先程無意識に呟いた言葉も、聞き取れるレベルで喋れていたように思う。
…回復、してきている。
決して負ける気だったわけじゃない。できるだけの手は尽くしたつもり。
それでも、不安でしかなかった。
暴漢という危機を前に、視覚聴覚を無力化され、身体強化を使用してさえ動くこともままならない負の変化。サポートがなければ、蹲って震える以外になかったはずの状況。
けれど、光明が差した。
回復はプラスの変化。状況の反転だ。
乗り越えられるという確信に、口の端が持ち上がるのがわかった。
現状。そう、現状把握が、まずは大事。
ぼんやりと裏口対角の壁に目を遣れば、扉はないもののアーチで区切られている。あちらにまた部屋が続いているのだろう。
向こうは、薄明るい。目を凝らしながら、無意識に立ち上がっていた。
重い足を引きずりながら歩いて行くと、窓のある細い廊下に出た。
既に白んだ空が見えた。
地平の見えない建物の隙間。けれどそこに、青と赤の混じる境界がある。
よるが、あけた。
認識すると同時に、胸の内に予知夢の効果切れが感じられた。
あの夢は、もう二度と見ない。
眠ることに怯える必要もない。
悪夢は、終わりだ。
紺色を払う、淡い朱を、こんなにも愛しく思ったことはなかった。
視界はまたモザイクに埋め尽くされたけれど、頬を伝う温かさがその質の違いを教えてくれる。
前と同じ危機。前とは違う結末。
ならば、オルタンシアとしての生を頑張れると、強く思う。
根性が足りなくて悪役にはなれなかったけれど、前世のトラウマともいうべき諦念の死を避けられた。
もう帰ってしまいたいな。お父様とアンディラートの顔を見たい。頑張ったねって褒められたい。無茶なんかしてって叱られるんでもいいや。ただ存在を受け入れられたい。
だけどやることも考えることも、まだたくさんある。
私の今生のしがらみを断ち切るために、家を出られるチャンスは今しかないだろう。
もしも理由を話せば尚のこと。お母様に関わることなのだから、お父様が、私の独断を許すわけがないのだ。
けれど、お父様はもうお母様だけのものではない。新しいお母様のことも、考えていかねばならない。
ちゃんと自分で、やらなきゃね。
すん、と小さく鼻を鳴らして、目許を指先で拭う。
指にも頬にも、未だ鈍いものの感触がある。そんなことを、こんなに喜ぶ日が来るなんて思わなかった。
まだ表情なんかはよく見えないけれど、窓ガラスに映る自分に目を留めれば…随分と薄汚れて見えた。何度も転んだのだから当然か。
廊下の先には扉がひとつ。
真っ黒マダムにお礼を言って、ここを出ようかな。
そう思って、扉を開けた。
途端に、ふりそそぐ、きらめき。
「…ステンドグラス…!」
組み合わされた青や黄色のガラス。それを通して降りそそいだ柔らかな朝日が、聖堂の中を照らしていた。
謎のオブジェと床が、透き通った輝きに色付いている。
「…きれい…」
私には、死後にも救いなんてなかった。
クズは天国にも地獄にもいけないのか。
長い行列に並んで、くじで当たった能力を持たされて、現世へ送り返されただけだ。
次の生を応援してくれたのは、神でも天使でもなく、サトリさんという個人。
私は神様なんて信じない。
信じていないから助けてくれないのか、助けてくれないから信じられないのか…そんな哲学は、どうでもいい。
それでも、人々がこの場所に神聖さを見出すなら、その気持ちは理解できると思う。
一宿一飯の恩って言うし、真っ黒マダムだけではなく、信仰対象にも一応お礼を言っていこうかしら…。
一部が欠けた円に、幾つか棒を組み合わせたようなシンボル。十字架ではない。これがこちらの、祈りの対象なのだろうか。
ちらりと見渡すが、期待したような神様の像などは見当たらない。
偶像崇拝は禁止なのでしょうか。
神などおらぬ派の私としては、厳めしいオッサン像にお参りするなんて鼻白むだろうから、別に良いのですけれど。
ステンドグラスの光がそそぐ、一番綺麗な位置。これ見よがしな場所を陣取っているのだから、きっとこのオブジェに祈ればいいのよね…?
まだ本調子じゃないから、立っているのも疲れてきたもの。誰にともなくそんな言い訳をしながら、オブジェの前に跪く。
お賽銭でも置くか。銀貨でいいかな。
「昨夜はお世話になりました。きっと神様には私を守ってくれる気なんてないのだろうけれど、アンディラートやお父様のためと思って、私が世の片隅で息をすることくらいは、許していただけると幸いです」
目を閉じて祈る。
暖かくてカラフルな光がそそぐ。
…なんか穏やかで気持ちいいわ、ここ。裏庭を思い出す。
しかし、ここで転がって昼寝するわけにもいかない。
気合いを入れて、よっこいせっと立ち上がる。
考えてみれば、早朝すぎて真っ黒マダムがまだ起きていない可能性あるよね…。
ちょうど参拝者用に並んだベンチがあるし、ここでしばらく待たせてもらおう。うっ、座布団がないからお尻に固さと冷たさが…感知できて嬉しいけれど嬉しくない、複雑。
「毒は抜けたのか」
男の声が、聖堂内に響いた。
息を飲んで立ち上がり、声の主を振り返る。
焦茶色。
あいつ、焦茶色だ。
「そうも見えないが、もしこの教会に悪さをするつもりなら外に出ろ、相手をしてやる。…お互い、腕は知っているだろうがな」
警戒を見せる私に、相手は片手を振った。危害を加えるつもりはない、ということだろうか。
それに、「お互い腕を知っている」だと?
知らんよ。誰だよ、お前。
焦茶色…服装は軽装だけど…そうね、町人よりは冒険者っぽい感じかしら。
言われてみれば、うーん、どこかで見たような顔をしている気もするけれど、いかんせん私には下町の知り合いなんて…。
「…俺との決闘は、いい勝負だったと思うが?」
「ああ!」
唯一、手強かった冒険者か!
顔見知りってわかると、どうして急に気が抜けてしまうんだろう。
気を抜いてもいいような相手ではないんだけどね。
「あのときはどうも。結局、決闘でヒヤッとしたのは貴方との勝負だけでしたよ」
無意識に笑顔で対応してしまうが、相手は眉をひそめて肩を竦めた。
「…女児相手に土を付けられるなんて屈辱は、こちらも、あれきりにしたい」
あれ。
こやつ、めっさ怒っとるやんけ!
「えっと。…あの、でも、あの時わざと負けてくれたのだと、噂で聞いたのだけれど」
そういや決闘後すごく見られていたな。
わざと負けたのじゃなかったなら、名高い冒険者を倒した貴族令嬢という異質な存在を、誰より訝しんでいたのは彼かもしれない。
「代闘士は他人の名誉を預かる仕事だ。女児相手の戦いのうえ、断れないタイプの悪質な指名依頼だったとしても、そんな八百長ができるものか」
あ、そうなのですか。
ならば意図せずお仕事を失敗した彼には、きっと何かしら不利益があったのだろう。
お仕事なので女子供相手でも全力を出します、というその姿勢、嫌いじゃないけど。
何にせよクズに味方したのだから、女児に負けたという結果について同情はしない。
そもそも君の被る不利益だって、お父様を危険にさらすのと比べるほどの不利益じゃないんだろうから、何ら気にならないけどねッ!
「それで。結構な重症だったが、もう動いて平気なのか」
「あっ、はい。…ん? さっき、毒…っていいませんでしたか?」
「言ったな。シスターの診断では致死量の麻痺毒に冒されているとのことだった。治療しようにもお前が拒むので、念のため俺が付いた。急変すればシスターを呼ぶ予定だったが…呼吸が止まるかと思ったら、自力で息を吹き返したからな。目が覚めたらすぐにどこかへ行こうとするし、つくづく常識外だ」
…おう。
え。あれ。
つまり私、昨日の夜から今まで、ずっと見張られているってことよね。
気が付かなかったけれど、じゃあ、この人、ずっと近くにいたのかしら。さっき私が廊下で空見てメソメソしてたときも?
「それはご迷惑をおかけし。申し訳なく」
居たたまれない思いだ。
言葉に感情がこもらなくなってしまうのは、許してほしい。
思考停止してしまいそうなので、無理やり別のことを考えて頭を動かす。
麻痺毒か…確かに、症状としては各所の麻痺なのかもわからんわね。でも致死量って…私、いつ毒なんか摂取したのかなぁ?
それに、呼吸が止まるって…あ、さっきの超苦しかったときかな。あれ、普通なら止まってるところなのだね。身体強化様の加護で普通より長持ちしたから、一晩経って毒が抜けてくるのに間に合って、復活したのか。
…身体強化様は、本当に裏切らないな。




