訓練、始まるよー?
「オルタンシアは本当に絵が上手だな」
「…異常って言ってもいいのよ?」
「異常じゃない。上手なのは悪いことじゃない」
アンディラートはスケッチブックを持参するようになった。
訪ねてきては中庭で飲んでいたお茶もなくなった。
貴族のお客様対応ではなくなってしまったことに両親は困惑していたが、「仲良くなったので、うちの綺麗な庭や遊びに来る鳥の絵を描いて遊ぶことにした」と伝えると納得した。
本気で画家を目指すようでは困るけれど、絵画も貴族的趣味や習い事の範疇としては、そう悪くはないらしいのだ。
多少描いた経験があれば、目利きにも良い影響が出るということらしい。
今は、彼が来ると玄関先で、使用人に用意してもらっていた籠を渡してもらうようにしている。
そうしてそれを持った彼が、裏庭へとやってくるのだ。
絵を描いて、おやつを食べて、お茶を飲んで、日向ぼっこをして…小ピクニックのように過ごす。
アンディラートはとてもよく喋るようになった。
フワフワンシアの演技をやめてしまったので、引かれるかなぁと思っていたのだけれど。
彼は相変わらず遊びに来ては、自然に存在している。
「君はよく、こんな私を嫌がらないねぇ…」
しみじみと私が言うと、彼は急に嫌な顔をする。
気付いて私は口を閉じた。
ついつい「異常」だの「こんな私」だのと言ってしまうのだが、何も知らないアンディラートは私が絵の才能を異常だと悩んで隠していると思っているようなのだ。
私が言っているのはもちろん、前の生の影響を多大に残したこの自我と、身体強化様から始まる諸々の能力のことではあるが、さすがにこれをアンディラートにお伝えすることは出来ない。
「オルタンシアだって、一向に上手くならない俺の絵を嫌がらないじゃないか」
「上手いほうだと思うよ。ただ、私と比べるのは良くないねぇ」
「…ちぇっ」
アンディラートが拗ねたので、ちょっと笑ってしまった。
彼の絵を覗き込んだ先で、手に切り傷が多く出来ているのに驚く。
「これ、どうしたの」
「うわわ、馬鹿っ、何すんだっ」
わたわたとアンディラートが私の手を振り払った。
更には取り落とした鉛筆を拾い上げるふりで、少し距離を取って座り直す。
これは悲しい扱いだ。
「…睨むなよ」
「アンディラートが冷たい…怪我を心配しただけなのに。友達甲斐ないわー」
「冷たくない。お前は、もっとこうっ、…令嬢としての距離感とかあるだろっ」
「君相手に取り繕う必要あるのかなぁ。まぁ、外では上手くやるよ。そんなことより怪我はどうしたの。薬は?」
見せろ見せろ。ちゃんと手当てはしているのかい。
鉛筆は普通に持てていたみたいだけども。痛いの怖い。
アンディラートは仕方なさそうに小さく首を振って、スケッチブックを横に置いた。
私があんまり気にするものだから、傷のある手を見せてくれる。
わぁ、痛そう。結構深くないか、これ。
…ええー、青痣とかもあるよ。手なのに。
何なの、虐待?
やだ、次会うときには指取れたり骨折れたりしてそう、怖い。
「薬は塗ってるし、すぐ治る。剣の訓練を始めたんだ」
「えっ、剣!」
「驚くことじゃないだろ。皆このくらいの年から始めるものだ」
あっ、手だけじゃないじゃん、手首も…え、どこまで怪我してんの。
アンディラートの袖のボタンをぷちっと外す。
捲り上げて確認しようとすると、慌てたように振り払われた。
ちょっ、服を押さえて身を硬くするな。腕くらいでなんで顔赤くするの。
恥らう乙女みたいな態度やめろ、可愛い。
ぬぅ。このオルタンシア、お母様の娘としては男に可愛さで負けるわけにはいかないよ?
いくぜ、プリティ全開の笑顔だ。
「…ということは、私の訓練もそろそろ始まるのかな? 楽しみー!」
キャハッと笑って見せると、一瞬の沈黙の後に呆れたような視線が返った。
「なんでだよ、そんなわけないだろ!」
「ですよね! 知ってた!」
だけどアンディラートが剣を扱えるようになったら、教えてもらうのもいいかもしれない。
身体強化があっても、それは『人としておかしくない範疇』だと説明されていた。
武器とそれを扱える技量が、私の身体強化を上回るような相手が現れれば。
…急にぞくりとして、私は身を震わせた。
「オルタンシア? どうした?」
異変に気づいて、アンディラートが問う。
剣の指導を頼むべきか迷ったけれど、アンディラートもまだ訓練を始めたばかりだ。
…少し扱えるようにならないと、他人に教えるなんて無理な話だろう。
「アンディラート。今、3日に1度くらいこっちに来てるよね」
「うん」
「1週間に1回くらいに減らさない?」
「う…、え? えぇっ!?」
驚いたアンディラートの顔色が見る見る悪くなる。
違うよ、もう来るなとかそういうんじゃないよ。
その急激な変化に私も驚いて、慌てて付け足す。
「いや、聞いて? アンディラートがその分を訓練に当ててくれたら、もっと早く強くなるでしょ」
「…そ…れは、そうかも知れないけど、でも…」
あー。切り傷青痣だもんね。打撲に筋肉痛もあるだろうし。
男の子だって痛い訓練なんか嫌だよね。
うーん。
それじゃあ、やる気が出るようにひとつだけ情報を開示するか。
「実は私、この家の中でも襲撃に遭ってるんだよね。多分お父様の関係で狙われるんだと思うんだけど」
「…はっ?」
予知夢で危ない目に会う前に対策は立てられるから、今のところ問題はないけれど。
これを言っておけばアンディラートも自衛が必要だと思ってくれるだろう。
「今までは奇跡的なタイミングで、私が通り過ぎた直後に犯人が捕まったりしてて。だから、もしアンディラートが早く強くなってくれたら」
「わ、かった。俺、早く強くなってオルタンシアを守れるようになるよ!」
「一緒にいる君が危険な目に遭っても死ぬ確率が減る…あれ?」
使用人が取り押さえてお父様に報告しているはずなので、隠していることではない。
そう思って口にしたのだが、何だか結論一歩手前辺りがずれた。
不思議そうに、私達は顔を見合わせた。
「…早く強くなって、守れるようになる」
「えぇと。うん。待ってるね」
言い直してまでゴリ押してきたアンディラートに、とりあえず私は頷きを返した。
やる気になっているのなら、水を差す必要はないと思うんだ。
「…でも…じゃあその間、オルタンシアは一人で絵を描くのか?」
襲撃を受ける可能性があるのなら、危険なんじゃないのか、と。
そんなことを聞いてきたアンディラートに私は頷く。
「うん。でも、私も絵は程々にして、次の段階に進んでみようと思う」
「次って?」
「…内緒。でも、私が自分の身を守るのに必要なことの練習だよ」
サポート能力の練習だ。
グリューベルを描きまくった結果、そろそろ出来るんじゃないかなという気がしている。
鳥を作って動かせたら、また別のものにも挑戦していかなくてはいけない。
きっと、何でも作れる子になるくらいの気概で行ったほうがいい。
人生、何が起こるかわからないのだから。
「…そうか。オルタンシアも、護身術の訓練をするのか」
「うん、まぁ。そうだね」
「…俺と一緒か」
ちょっと笑ってしまった。
なんだい、アンディラートは訓練仲間が欲しかったのか。
「そうだね。一緒だね。ねぇ、強くなったら教えてね。君が剣を振るところが見たいんだ」
見せてもらえば自分で練習することも出来るかもしれないし。
ああ、でもその前にマイ剣を手に入れなきゃダメかなぁ。
お父様にねだるのも難しいな。アンディラートのお下がりに期待するかな。
アンディラートは大きな目を真ん丸くして、それからスケッチブックを拾い上げた。
「…アンディラート?」
「強くなったら見せてやるよ!」
「うん」
「じゃあ、そろそろ帰る。しばらく来ない」
やる気になった途端にこの発言だ。
子供は元気だなぁ。
苦笑を隠して、問いかける。
「あれ、そうなの? 次はいつ来るの?」
「…俺が来ないと、寂しいか?」
チラッと上目遣いをしちゃうアンディラート。
よくわからないが、この天使には随分と懐かれているようだ。
素直に嬉しいわ。
「そうね。君と遊ぶ時間が減るのは、やっぱり少し辛いかな」
貴重な癒しタイムなんだよねぇ。
アンディラートってなんかこう、すごく側にいても邪魔にならない子なんだもんな。
本性がバレてるから何も演じなくてもいいし、それでいて相変わらず私のことを嫌がらない。
私がやっていることを、自分も一緒にやりたがるのがまた可愛い。
無理矢理に話題を探さなくても沈黙は重くないし、とても気が楽だ。
一家に一台、アンディラート。
「…そ、そうか。うん。そうだよなっ」
「だけど時間は無限にあるわけじゃないから。今、出来ることはしなくっちゃね」
うう。また無邪気な顔して人を疑うお仕事が始まるお…。
だけど私の謎能力の解明はしないと。
ちょっと最近、アンディラートの存在に甘えすぎてたところはあるからなぁ。
今、私は悪夢を見ていない。
だからこそ今のうちに戦力増強に励みたいところなんだ。
次に見る悪夢で、一体何が起こるかわからないのだから。