三 はじめまして
はっとして左を見ると、顔だけこちらに向けた彼女と目が合った。彼女は驚いた様子で口が開いていて、僕の目をその表情のままじっと見つめていた。
僕は、どきどきしていた。なぜかはわからないが、恋のときめきではないことだけははっきりしていた。彼女はとても可愛らしいけれど、僕のこの気持ちは違う。混乱していたが、今ならきっと話ができるという確信をもって僕は、もう一度彼女の名前を呼んだ。
「アカリ……ちゃん」
彼女は一つまばたきをした。
「はい」
彼女の細くてきれいな声を聞いた後も、僕の心の中はぐちゃぐちゃだった。自分から心を決めて、これは夢だと割り切って、そうして声をかけたはずなのに、この気持ちはなんだ。反応があったのは嬉しいけれど、この現実離れした状況に、本当は全然僕の頭がついて行ってはいなかったのかもしれない。
とにかく落ち着こう。落ち着いて話をしよう。何もかもわからないこの状況が僕を混乱させているのだ。
「えっと、はじめまして、でいいのかな。とにかく話が出来て僕は嬉しい」
「はい、ええと……」
そこで彼女は、僕が続けたかった言葉を投げてきた。
「あなたは誰ですか」
正直それを言いたいのはこちらの方だが、僕と彼女は夢で会っていて、下の名前もなぜか知っていて、もし彼女が僕の名前を知らないと言うのであれば、きちんと名乗るべきだろうと思った。
「僕の名前はイチヤ。中村イチヤだよ」
なんだか、ここが自分の部屋ではないような気になってきた。いつもの光景の中に訪れた日常とは異なる状況に、僕はさっきから心を揺さぶられ続けている。
「中村さん……」
彼女は僕の名前を呟きながら部屋を見回している。どことなくぼんやりした様子で、口はやっぱり少しあいていた。今はひとまずお互いに落ち着いた方がいいのかもしれない。
「座って話そうか」
僕はそう言って、窓を閉めてからクッションを持ってきて彼女の方に敷き、座るように促した。僕が座イスに座ると、彼女もおずおずとクッションに座り、僕たちはテーブルを挟んで向かい合った。
「麦茶、嫌じゃなかったら飲んでね」
少し間が空いて、彼女はこくりと頷いた。コップは既に汗をかいていた。
「あの、中村さん。聞いてもいいですか」
「もちろん。なんでも」
こちらも聞きたいことはたくさんあるが、今はとにかく話がしたかった。そうすることで見えて来ることもきっとあるだろう。何よりも、話して落ち着きたかった。
「えっと、ここは108号室で間違いないですか」
僕は頷いた。
「今は何月……何年の何月何日ですか」
「2015年……平成二十七年の六月三日だよ」
彼女は、はっとした表情をして、「そうですか」と言い、俯いた。
「どうかしたの」
彼女は何度かためらった様子を見せた後で、顔を上げた。
「私は今の状況が、正直飲み込めていなかったんです。ついさっきまで、随分長いこと暗いところで眠っていたような、夢を見ていたような気がしていて、中村さんに急に名前を呼ばれて気がついたらここにいて」
彼女は一呼吸おいて、僕を見てからまた俯いた。
「でも、思い出しました。私の、眠る前の最後の記憶は2014年四月二十日の、山の中です」
正座した足に手をついてピンと張っている彼女の腕が、震えているのが見えた。
「私は、そこで死にました」
長い間があった。彼女は少し震えたまま俯いていた。僕は、そうなんだという気持ちとやっぱりと言う気持ちが入り混じって、それでもさっきよりはずいぶんと落ち着いていた。
僕はコップを手にとって、一口麦茶を飲んだ。コップが元々置いてあった場所には丸く水が溜まっていた。何も見えないところから水が現れるなんて、幽霊みたいだなと思った。
どうしたもんかな、と思った。彼女はまだ混乱しているようだし、現状を――というより彼女を――どうにかしようにも、時間がかかりそうだ。いずれ僕たちには時間が必要かもしれない。
「僕の話をするね」
そう切り出して、俯いたままの彼女に、僕が去年の七月にここに引っ越してきたことやこれまでの人生をどこでどんな風に暮らして来たか、ざっと一通り説明した。
「僕はこの町の人間じゃないし、他の場所でも多分今まで僕たち会ったことはないと思うんだけど、合ってるかな。どう思う」
「会ったことは、ないと思います」
俯いたままそう言ってから、彼女は顔を上げた。
「あれ、でも、じゃあなんで中村さんは私の名前を知ってるんですか」
「そうだよね、これは不思議な話なんだけど」
こんな状況でもう何が不思議かはよく分からないが。
「アカリちゃん……って呼んでもいいのかな、夢を見たんだ。この部屋で一緒に暮らしてる夢」
「夢ですか」
僕は頷いた。
「そう。寝てる間に見る夢。夢の中でアカリちゃんが何回か出てきて、変な夢だなと思っていたら、部屋に本当に出てきたんだ」
彼女はさっきまで自分が座っていた場所を見つめてから、僕に向き直った。
「私が、ですか」
「そう。変な話でしょ。だから僕は正直今でも自分が夢を見ているんじゃないかと思ってる」
彼女はなんと言ったらいいか分からないようだった。
「でもこれが夢だとしても、目の前にアカリちゃんはいるわけだし、毎日仕事にも行っているし、この麦茶もおいしい」
手に持ったままだったコップの麦茶を飲んで、テーブルに置いた。麦茶はもう、ずいぶんぬるくなっていた。
「何が言いたいかっていうと、僕は生活を続けなくちゃいけないんだ。この状況に混乱しているけど、夢が覚めることをお祈りして毎日を過ごしていてもしょうがないし」
彼女は分かったような分かっていないような、曖昧な感じで頷いた。
「だから、アカリちゃんがもう一年も前に死んでいて、突然僕の部屋に現れた幽霊だとしても、僕はとりあえずうちに遊びに来た友だちだと思うことにする。幽霊がどこかへ行けるもんなのか僕は知らないけど、もし行くところがないならここに泊まるといい」
彼女は悩んでいた。
「今はゆっくり考える時間が必要なのかもしれないよ。正直僕も飲み込むのに時間、かかりそうだし」
僕が少し笑うと、彼女は口を開いた。
「正直、どうしたらいいかわからなくて。私も頭の中ぐちゃぐちゃで……」
彼女はかなり混乱しているようだ。
「うーん、じゃあ、こうしよう」
僕の顔を見つめる彼女に、僕は笑いかけた。
「とりあえず晩御飯にしよう。お腹がすいた」