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二 帰宅、アパートにて

 退勤した後、自転車に乗って自宅へと向かった。会社からアパートまではのんびりこいでも自転車で十五分もかからない。

 ホームセンターで安く買った目立つ青色の多段階変速ギアのやけに重たいこの自転車にも思えばずいぶん長いこと乗っている。空気入れを買っていないせいで一度も空気を補充していないが大丈夫だろうか。子どもの頃パンクした自転車を直してもらった際、自転車屋のおじちゃんに、「空気をまめに入れとかないとパンクしやすいから気をつけな」と言われたはずだが、、喉元過ぎれば熱さ忘れるとはこのことだ。

 帰りがけにスーパーで買い物をして帰ることもあるが、今日は特に必要な物も無いし真っすぐ帰ることにした。


 「ただいま」と、返事をする相手もいないのに唱えながら帰宅する習慣も、彼女が部屋に現れるようになってからはしなくなった。

 もしも返事が返って来たら僕はどうしたらいいのだろう。夢でしか会ったことの無い壁際の少女は、まだ僕にとっては知らない人だ。

 電気をつけて玄関で靴を脱ぎ、キッチンつきのフローリングの廊下を通ってワンルームのドアの前に立つ。

「……よし」

 気合いを入れてドアの取っ手に手をかける。もしもそこにまだ彼女がいたら、今日は声をかけよう。会社でそう決めた。きっとこの夢は、そうすることでしか進んでゆかない。

 取っ手を押し下げ、ぐっと手前に引いて部屋に入る。アパートの一階に住んでいるため外出中は閉めっぱなしにしているカーテンのせいで、中は暗い。それでも今時期は日が長いのもあって、うっすらと部屋の中に置いてある物の輪郭は分かる。部屋の隅の彼女の輪郭も。

 僕はとりあえずいつも通りに電気をつけ、仕事鞄を下ろして廊下に戻った。冷蔵庫を開けてつくり置きの麦茶の入ったポットを取りだし、銀行でいつだったかもらったキャラクターもののガラスコップに注ぎ、飲み干した。

 最近一気に暑くなってきたのもあって冷たい飲み物がコップを握る手のひらや口や喉に伝わるのは気持ち良いが、冷たすぎるとごくごく飲めないのはなぜなのだろう。急に冷えるのは良くないという体からのサインだろうか。

 僕はポットとコップを手に部屋に戻り、背の低いこたつテーブルに置いてから少し考えて、キッチンに戻ってもう一つコップを取りだした。先ほどのキャラクターもののガラスコップの色違いだ。

 テーブルの手前側に先ほど口をつけた青色のコップを置き、奥側――彼女がいる方に赤いコップをコトリと少し音を立てて置いた。

 彼女は相変わらず壁に向かって体育座りをしたままぴくりとも動かない。黒い髪からのぞく耳は色が淡い。夢で彼女の名前は呼んでいただろうか……思い出せない。彼女の笑った顔だけが頭にこびりついている。その顔は、こちらからは見えない。

 僕は座イスに腰掛けてポットを持ち上げ、麦茶を青色のコップに注いだ後、赤いコップにも注いだ。

 なんと声をかけよう。僕はしばらく考えて、口を開いた。

「あのさ」

 彼女は動かない。

「もし、その……僕の声が聞こえていたら、話がしてみたいんだけど」

 しばらく待ってみたが、彼女はうんともすんとも言わず、座ったまま動かずにいる。聞こえていないのだろうか、無視されているのだろうか、それとも彼女はそこには存在してはいないのだろうか。

 僕は失敗に終わった初めてのコミュニケーションに小さくため息をついて立ち上がり、彼女の右手側に立つ形で窓を開けた。空気がこもっていた部屋の中に夕方の風がさらりと入り込んできて気持ちが良い。

 アパートの裏手の空き地に伸び伸びと生える草花を眺める。うっすらと暗くなってゆく中で濃い紫に見えるあの花は、昼間はどんな色だろうか。

 ここは角部屋だから隣接しているアパートの角の部屋が見える。時折赤ちゃんの泣き声が聞こえて来るから若い夫婦が住んでいるんだろうなと思ってはいるが、姿は見かけたことが無い。

「そういえば、今のお隣さんのことも知らないな」

 前のお隣さんは僕よりも少し後に越してきて、入居の時にわざわざ洗剤を持って挨拶に来てくれた人だった。丁寧な人だなあと思ったがいつの間にか引っ越したようで、いつからかドアの郵便受けには、入居者はいないよとテープで封がされていた。それがまたいつの間にか誰かが引っ越してきていて、どうやらそれが若者らしく、以前は聞こえてこなかった賑やかな声がどこからかもれてくるようになった。でも、顔は一度も見たことが無い。

 この町には就職と共にやってきた。元々知り合いもいないし、大して娯楽もない小さな町だから外に出ることも日用品の買い出しくらいしかなく、この町は知らない人だらけだ。

 知らない人たちなんて、幽霊みたいなもんだな、と思った。どこで何をしているのかもわからない。いつどこに現れるのかもわからない。

 今頃同僚と飲みに出て乾杯しているかもしれないし、車を走らせているかもしれない。夕飯の支度をしているかもしれないしまだ働いているかもしれないし、家でペットと戯れたりテレビを見たりお風呂につかって一日の疲れを癒したりヘッドホンをつけて電子ドラムを叩きまくったりしているかもしれない。でもその人たちの誰一人として、僕は知らない。顔も名前も何もかも。

 そう考えれば毎日壁に向かって座り続けている少女が部屋にいることだってあるのかもしれないし、僕は夢の中とはいえ彼女に会っているわけだし、これが夢であろうがこれが例えば現実で万が一彼女が幽霊だったとしても、僕にとっては姿も見たことの無い隣人なんかよりよっぽど身近な存在だ。

 その時、少しだけ風が強くなり、真正面から部屋に吹き込んで、思わずまばたきをした僕は突然、夢の中で呼んでいた彼女の名前を思い出した。

「――アカリ」


 僕の左手の方で、黒髪が揺れた。

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