一 夢か現か
僕はなんてことはない、ただの会社勤めの男だ。大学を中退してからまともに職にもつかず、海外を転々と旅して歩いたりお金に困って一時親戚の家を頼ったりと真っ当な人生とは言えないが、今は就職して普通に働いている。
七月に中途採用で入社してもうすぐ一年になる会社は小さくて給料もさほど良いわけではないが、仕事は納得のいくものだし特に大きなお金を必要としているわけでもないから十分満足している。少なくともストレスはない。社長をはじめ職場の同僚は皆良い人だし、お客さんも僕が関わっているのは良い人たちばかりだ。そもそもうちの会社自体、困ったお客さんというのがほとんど寄って来ない。良い人のところには良い人が集まる、ということだろうか。理由はどうあれありがたい話だ。
僕は現在二十六歳。彼女はいない。お付き合いをしていた時期もあったが今の職に就いてからはさっぱり出会いもなく、かといって探しているわけでもないせいかもうかれこれ数年ほど彼女はいない。だから、そこまで意識しているわけではないが、寂しいとか欲求不満だとかそういう気持ちも少しはあるかもしれない。ストレスじゃないとすればそれが原因だろうか。わからない。僕がどうして夢を見続けるはめになったのか、どうして自分の部屋に女の子がいるなんて夢を見ているのか、さっぱりわからない。
最初は、間違いなく本物の夢を見たのを覚えている。元々眠ると夢を見ることが多いのだが、その日の夢はやけにはっきりとした、自分のアパートの部屋で女の子と一緒に暮らしている夢だった。身長が低く、彼女と呼ぶのもはばかられるような高校生くらいの女の子だった。肩くらいに切りそろえた黒い髪と笑った時のえくぼが印象的だった。
起きた後には、そんな夢を見るなんて自分の中には気付いていなかっただけでお縄を頂戴しなければならないようなとんでもない願望が眠っていたのかと自己嫌悪に陥ったのだが、問題はそれからだった。
何回かその彼女が夢に出てきた後、もっとややこしいことに、起きている(と僕は思っている)間に彼女が見えるようになってしまったのだ。とは言っても彼女は喋ることも動きまわることもなく部屋の隅で壁に向かって体育座りをしているのだが。
僕には霊感など一切無いし、そもそも幽霊だとかUFOだとか超能力だとかそういう非現実的なものは一切信じていない。ツチノコくらいならいてもおかしくないとは思うが。
寝起きに初めて見た時は驚いたが、冷静になって考えればそんなことは普通有り得ない。突然部屋に夢で見ていた女の子が現れたら可能性として考えられるのは、
1、この子は僕が留守の間に部屋に不法侵入した立派な泥棒である。
2、夢に出てきた女の子が目の前にいるということは、これは夢である。
3、今まで夢だと思っていたが、実は全て現実でもうずいぶん長いこと一緒に暮らしていた。
の、どれかである。
ただし、3であった場合は現実と夢の区別がつかなくなるほど僕の頭が完全におかしくなっているということなので、認めたくはない。というか、仕事をしていても友人と付き合っていても以前付き合った何人かの彼女にも家族にもそんな指摘を受けたことはないし……ないない。きっとそんなことはない。
だとすればこれが現実で彼女が泥棒であるかこれが夢であるかのどちらかということになってくるが、僕の部屋から物は無くなっていないし泥棒がいつまでも居続けるわけはない。やっぱり、これは夢だ。僕はありもしない現実を夢見ているのだ。もう一週間にもなる、やけに現実味のある長い夢だが、よっぽど疲れて眠り続けているのだろう。そう思わないとやっていられない。
「中村君、ため息なんかついてどうしたの」
知らないうちにため息をついていたようで事務員の井島さんに心配そうな顔をされた。自分の机に両肘をついたまま答える。
「あ、すみません。いや、うーん。なんていうか、ずっと夢を見ているような気がするというか」
井島さんはそれを聞いて、「なにそれ」と、からから笑った。この会社に二人いる事務員の先輩で、社員の中でも一番長く勤めている明るくて笑った時の顔の皺がとってもキュートなおばちゃんだ。
「そんな変なこと言い出すなんて大丈夫なの。中村君、二月くらいからずっと忙しかったし、疲れているんじゃないの。まだ若いけど入ってまだ一年も経ってないんだし、あんまり無理しちゃだめよ」
明るく心配してくれる井島さんに僕はつられて笑って、「ありがとうございます」と返した。丁度電話が鳴って、井島さんは「はい」と元気よく受話器をとった。同じく受話器に手を伸ばしたけれど取り逃してしまった事務員の若い方、小林さんが口だけですみませんと井島さんに謝り、井島さんは電話応対しつつ空いている手を横に振りながら「いいのよ」と言うように笑った。
「ねえ、中村君」
集中し直そうとキーボードに手を置いた僕の顔を覗き込むようにして、小林さんがひそひそ声で話しかけてきた。
「夢を見ているような気がするって、何かいいことでもあったの」
ああそうか、そういう風にとられるのか、と思った。
「いやあ、その逆です」
「逆って」と、首を少し傾げた小林さんがよくわからないというような表情を浮かべている。
僕はどう説明したものかと悩んだ後で、聞いてみることにした。井島さんの電話が終わり、書きとったメモを外出中の部長の机に置きに席を立った。
「あの、例えばの話なんですけど、僕くらいの年齢の男性が女子高生と一緒に暮らしてる状況って起こり得ると思いますか」
「えっ、中村君ってそういう趣味があったの……」
声に見やれば先輩の青山さんが左隣で完全に引いている。聞こえていたらしい。すぐに反論したかったが、この夢が僕の願望によって生み出されたのではという考えが頭をよぎり反応が遅れた。
「青山さん、中村君は、例えばの話って言ったんですよ。いきなりすぎて私もびっくりしましたけど」
小林さんがフォローしてくれて少しほっとした。
「名誉のために言いますが僕にそんな趣味はこれっぽっちもないです。ないんですけど、そういう状況ってどうしたら起こるのかなあって思ったんです」
「なになに、ドラマか何かの話」
メモを置いて自分の席に戻って来た井島さんが少し身を乗り出して会話に混ざって来た。なんだか楽しそうだ。僕が答える前に小林さんが説明をしてくれた。
「二十代半ばの男性と女子高生が一緒に暮らしている状況はどうしたら生まれるかって中村君に聞かれたんですよ、井島さん」
井島さんは「なるほどねえ」と楽しそうな顔のまま考え出した。青山さんは向かいの窓の上のあたりをぼんやり眺めながら、「うーん、そうだなあ」と考えている。持っているペンを二本の指にはさんでゆらゆら揺らしながら、「少女漫画みたいな話よねえ」と言った。ペンの赤い芯を囲む透明な合成樹脂に窓から差す午後の陽が光る。
「少女漫画ですか」
僕が返すと、小林さんも「そうですね」と続いた。
「少女漫画だとありそうです。会社員に恋する女子高生が、親とケンカした勢いで家出して転がり込むとか。年齢差のある禁断の恋って結構ベタなテーマですからね」
井島さんはあらまあと楽しそうに笑っている。青山さんのペンがぴたりと止まった。
「ありがちよね。あとはサスペンスものだと、もっと怖いのもあるかも」
真剣な表情で語りだした青山さんに、「えっ、怖いのってどんなの」と、井島さん。
「その男性が実は過去にひき逃げをしたことがあって、運よく捕まりはしなかったんだけど、被害者の家族が顔を見ていた。それが実はその女子高生で、復讐のために恋をしているふりをして転がり込んでいた、とか」
井島さんは両手で口をふさいで「あらあ」と驚いた。
「なるほど、そして女子高生は彼を殺害。警察に自首した後、黙秘を続ける女子高生。そんな難事件を名探偵が解決するっていうドラマ展開ですね」
小林さんもノリノリだ。井島さんは口に手をあてたまま声も出なくなっているが目は輝いている。
その後も二人の妄想は膨らみ、架空のドラマトークは再び電話が鳴るまで続いた。
これが夢だとしても、彼女は一体なぜ僕の部屋に現れたのだろう。小林さんの言う少女漫画のような動機か、はたまた青山さんのサスペンス展開か……いやいや、僕はひき逃げなんてしていないし他人の恨みをかったことなんてないはずだ……たぶん。
なんにせよ考えていても仕方がないし、どうせこれは夢だ。悩むよりも恥をかき捨てて本人に直接聞いた方がいい。そうだ、そうしよう。今日帰ったら、彼女に声をかけてみよう。