72
神の御許は清浄な場所。
救いたもう、救いたもう。
祈りを捧げ、赦されよう。
救いたもう、我らを救いたもうて。
神のご加護に、すがりたもう。
「ぅ……?」
遠くから聞こえてくる、美しい讃美歌。
今よりまだ小さな頃、アルヒに連れられて大聖堂に行った時に聞いたものと一緒だった。
荘厳なるパイプオルガン音色が響き、歌声と共に昇華される。
神の御許まで届くだろう。
「ここは……?」
「目覚めたのね」
暗闇の中から、聞きなれた声が聞こえた。
そちらに顔を向けると、壁に寄りかかった女が立っていた。
「ずいぶんグッスリ眠っていたじゃない。この薬の効き目も良かったんでしょうけど、精神的にも疲れていたんじゃない?……大好きな幼なじみの為に、奔走していたみたいだし」
手に持つ薬入りの瓶を左右に振りながら、鼻で笑う。
エミリエンヌはここにきてやっと、話しかけてきているのが誰だかわかった。
「ジュリエンヌお姉様!?」
「やっと気づいたの?……相変わらず、平和ボケしている子だこと」
ゆっくりと、エミリエンヌの方に歩いてくるジュリエンヌ。
近づいてくるにつれ、その迫力にせまった表情を目の当たりにした。
「……昔から、お前のことが気に食わなかった」
「え?」
「どれだけ不遇な目にあわせても、みすぼらしくもならず汚ならしくもならないで。美しく、愛らしく、誇り高い姿のままで。お前は……人を惹きつけてやまない魅力を、生まれながら兼ね備えていた」
それがとても、憎らしくて仕方がない。
歯ぎしりするほど顔を歪め、エミリエンヌを睨み付ける。
絞り出された声は、おどろおどろしいものだったが。
今すぐどうこうなる気配は、感じなかったので。
ひとまずは動かないでいた。
寝かされていた場所は、フカフカのソファーの上だったが。
こう暗くては、動くのは危ないと。
そう考えてのことだった。
「教えておくれ」
ジュリエンヌの顔が、吐息の熱さを間近で感じるほど近くなる。
驚いて思わず後ずさるが、さらに回り込まれ逃げ場を失った。
「教えておくれ、エミリエンヌ」
「何、を?」
「なぜあの方は、お前をひどく気にかける?」
「あの方?」
「お前にひどくご執心で、寵愛している尊きお方のことだ。…………教えておくれ」
右手が、エミリエンヌの柔らかな頬に触れる。
表面を軽く滑るように触れた程度だが……身体中が悪寒で身震いするには、充分過ぎる行為だった。
「私には無くて、お前にあるものはなんなのか」
「お姉様っ……!」
「あの方はなぜ、私を求めてはくださらないのか……あの美しい金の瞳に、私を映してはくださらないのか――――」
「金の、瞳?」
「闇夜に浮かぶ、鮮やかな金の瞳っ……!!あの瞳で見つめられたら、私の為だけに愛を囁いてくださったら……」
この身が果てようとも、構わない。
まさしくこの身の全てを賭けて、手に入れたいと望んだ。
それをこの子供は、自らが望んだ訳でもなく。
努力すらせず、目の前でかすめとるかのように。
簡単に、奪った。
「さぞ、嬉しいことだろう」
「お姉様、痛いっ……!」
頬に徐々に食い込む爪を退かそうと、両手を持っていくのだが。
エミリエンヌの力でも、腕くらいは退かせそうなものなのに。
びくともしない、まるで固定された鉄の棒だった。
「今まで酷い目に合わせてきた人間に、体のいい仕返しが出来て。内心では喜んでいるんだろう!!」
「違っ、私はそんな……!!」
「なぜ、お前は愛される?なぜ私ではだめなの……?お前と私の何が違う!?」
彼女は、泣いていた。
大粒の涙を、珠のように頬の上を転がして。
それは止まることなく、溢れて止まらなかった。
「私は、あの方が欲しい!たとえ、どんなことをしてでも……っ!!」
エミリエンヌは、自分の首が絞まるのがわかって。
一瞬で死を覚悟した。
昔から体罰は無かったものの、いつ殺されてもおかしくない状況下にあったのだ。
こんなところで、自分の生涯の幕引きだなんて。
(……せめて最後に、あの人に会いたかった)
会いたい人に会えずに死ぬ。
そんな悲業の死を、まさか自分が遂げることになるとは夢にも思っていなかったので。
自然と口角を上げる。
それを見た殺す側は、余計に力を入れた。
エミリエンヌの息も絶え絶えになりかけた、その時。
不思議な歌声が流れる。
甘いような蕩けるようなその歌声は、少女たちの耳に届く。
遠くから聞こえてくるそれは、だんだんとこの部屋に近づいてきて。
ふと、部屋の前でその歌は止まった。
「次はエミリエンヌの体を奪うつもり?」
ドアを蹴破って破壊した大きな音と共に、全身を正装の黒のドレスに身を包んだディーヴァが。
ラウフとマクシミリアンと共に、部屋の中に踏み込んだ。
「なぜここがっ」
「キャー、スゴーイ、定番ノ決マリ文句ガ出ター」
「棒読みし過ぎだろ〜」
「仕方ない、確かに定番過ぎる」
「この大聖堂の司祭との繋がりに、気づいていないとでも思った?街中を歩いて、司祭のあまりよろしくない趣味の噂を拾っておいたの。ジュリエンヌがだめ押ししてくれたから、簡単に捜しだせたわ!」
「げほっ、ディーヴァ……!!」
「エミー、少しだけ待っててね?すぐに終わらせるから」
今だかつてない程の笑みを浮かべた後、すぐにジュリエンヌの方に顔を向ける。
その顔は、無表情だった。
冷たさを帯びて、刺さるような視線が見られている側を襲う。
必死に涙をこらえるも、その冷たさに耐えきれず。
再びポロポロと溢すのだった。
「リリアンヌ、……そういえば名前を変えなかったのね。二百年間、ずっと」
「……名前を変えたら、わかってくれないと思ったから……」
「は?」
「ただでさえ、姿が変わっているのに……名前まで変えたら、あなたは、私だと……気づいてくれないのでは、ないかと。そう思って」
ある意味、とても純粋で……一途で。
痛々しい気持ちを、永い永い間。
ずっと、持ち続けて。
必死に、守り続けて。
「前を見ることは出来なかったの?」
「私は、あなたを……」
「淀みの中に留まって、たった一つのものしか見ようとしないで。……虚しくないの?」
「私に残ったものは!もうあなたしかなかったのです!!」
家族はとうの昔に死んだ。
新しく家族を作ることは、出来たかもしれない。
だがリリアンヌは、ディーヴァを望んだ。
赤の他人に踏み込むことを恐れ、助けてくれた唯一無二の存在にひどく心惹かれ。
他には何もいらない、欲しくない。
ディーヴァだけでいい、ディーヴァしかいらない。
この手に残るものは、たった一つのものでいい。
「あなたの家族になりたかった」
「……あの頃はかなり危険な生活をしてて、とても子供一人を連れて旅に出られなか……」
「あなたと一緒にいられるなら!!たとえどんなに恐ろしいことが待ち受けていようとも、耐えられたわ!!!」
ずっと一緒にいたかった。
離れたくなんてなかった、あなたの側で――――永遠に。
役に立って、共に生きて。
たとえこの想いに応えてくれなくても、構わない。
「あなたが私から離れたから、だから。二度と離れられないようにしようと思った」
「あたしと契り、子を成し。やがては宿ったその子に成り代わることが?」
「いくらあなたでも、実の子供のことは放っておけないでしょう?他人の子供でも放っておけないのだもの」
「ま、そうね……」
「私があなたの子供になれば、もう手離そうなんて思えないわ!あなたは私と、ずっと一緒にいるのよっ……!!」
「それは無理よ」
リリアンヌの、首が絞まる。
あの焼けたドロエの屋敷の時のように、容赦なくディーヴァが首を絞める。
首に食い込む手を外そうとするも、力の入れようが半端ないのでそれも出来なかった。
「エミー!こっちへ、早く!!」
「エミリエンヌ!!」
「ラウフ!?――――っっ!!?」
ディーヴァがリリアンヌを捕まえている隙をつき、二人はエミリエンヌ救出する。
エミリエンヌは驚く中、片割れの男を見てさらに驚いた。
それは、今よりもっと小さな頃に別れてしまった初恋の人。
ディーヴァに協力を要請するほど、なんとか助けになりたいと思った相手。
マクシミリアン・アルヒ=ドヴィエ。
まさしくその人だった。
「アルヒ!!!あなた……どうしてここに!?」
「エミリエンヌ、君が危険な目に合っていると聞いて」
「私を、助けに……?」
「約束したからね。……遠い昔に――――」
腕の中に収まるエミリエンヌの髪を、優しく撫でながらそう話す。
不思議そうに首を傾げながら、おどけた風に笑うマクシミリアンを下から見上げていた。
「エミー……俺もいるんですけど〜?」
「何しに来たのよ」
「酷っ!何しにって、エミーを助けに来たんだって」
「ディーヴァとアルヒだけで充分じゃない」
「……俺だって、エミーを大切に想ってるんだけど?大切だから〜……どんな危険があろうとも、助けに行くのは当然じゃん?」
そんな、歯が浮くようなセリフだけでも恥ずかしいというのに。
とびきりの笑顔が急接近すれば、小さくても乙女心が宿っているお姫様としては。
ときめきと照れで、顔が真っ赤に染まってしまった。
「あれ〜?この部屋暑い?エミー、顔真っ赤だけど〜?」
「うるさい!バカ!!」
「お楽しみのところ、悪いのだけれど。エミーを連れて、早くここから脱出してほしのよね。……これからちょっとだけ教育上、よろしくないことをするから」
「何する気だよ」
「見せたくないことよ、察しなさいな。あっ、マクシミリアンは残ってちょうだい」
「何か手伝うことが?」
「見ていればいいのよ、ただ……見ていればね」
笑顔でリリアンヌの首を絞め続ける光景を、直視させたくはないと。
ラウフは早急にエミリエンヌを受けとり、そのまま部屋を出て行こうとする。
エミリエンヌはディーヴァの名前を呼ぶが、微笑みを見せただけで。
何も答えはしなかった。
「さて、リリアンヌ」
「ひっ……!あ……ぐぅ、んんっ!!」
「外れないでしょう?あたし、こう見えても力は結構強いの。だから〜……お前ごとき矮小な存在が、どうこう出来ると思うことすらおこがましい」
明るい声から、低い声へと変わる。
「あたしに理想を抱くな、求めるな。お前がどう足掻こうが、あたしが子を授けることも無ければ、授かることもあり得ない。――――だからこそ、あたしは他人の子にあり得ない程の愛情を注げる」
自分では、到底得られないものだから。
求めてしまったら、そんなことをしてしまったら。
きっと、先に死なれてしまって。
置いていかれる。
自分よりも長く生きるはずの子に、先に死なれて。
新しく産んでも、また次を産んでも。
次々と、先に逝かれてしまったら。
きっと自分は、壊れてしまう。