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「大丈夫だよ」
「あなた……」
「菜緒も優も、俺が守るよ。二人が幸せな人生を歩めるように」
身を寄せあい、互いの温もりを身近に感じて。
菜緒は静かに、目を閉じた。
――――――玄関に置いていたカートを、用意してもらった部屋に持っていって着替えを取り出した後、優と一緒にお風呂に入った。
ゆっくり湯船に浸かって、優のお風呂用のオモチャで一緒に遊んであげながら、久しぶりにほっこりと温まることが出来た。
……アパートでは、シャワーしかなくてさっさと済ませていたので。
ゆっくりすることはなかったが。
身も心も、温まった。
その後、葵が優の為に買ってあった『豚の着ぐるみ風のパジャマ』を着せてあげる。
「ブタさん?」
「そうだよ〜!ピンクのブタさん、すー君に絶対似合うよ〜?」
正月に帰ってきた時に、プレゼントしようと思って買っておいたのだが。
まさか、これほど似合うとは……っ!!
「みてみて!あおいちゃん、にあうー?にあうぶー?ぶーぶー」
……自分は兄とは違い、変態ではないと思っていた。
それがどうだ。
歩くたびに巻かれた尻尾が、お尻と一緒にフリフリと揺れて、リンゴのほっぺをブイサインのヒヅメが押さえている。
葵は優の姿が可愛すぎて、床にうちひしがれてしまった。
「あおいちゃん!ぶー」
小さな唇を突きだし、ぶーぶー言う優の姿に。
葵のハートは撃ち抜かれる。
携帯を部屋に忘れたので、写メを撮ることが出来ない。
なぜせめて、脱衣場に持ってこなかったのかと。
自分の浅はかさを恨んだ。
「か、可愛すぎて……!胸が苦しい……っ!!」
「あおいちゃんー?」
優の為に用意されたようなそのデザインに、グッドデザイン賞を贈りたい。
むしろ贈らせてほしい。
鼻血が噴き出す勢いで、優に萌えまくっていると。
ちょうど晩ご飯が出来上がったようで、母が葵たちを呼ぶ声が聞こえた。
優の手を握り、一緒に居間に向かう。
……そこで、優の可愛く変身した姿に家族全員が、喜びの悲鳴を上げた。
いい仕事をしたと、妙に誇らしげな葵の姿がそこにはあった。
和気あいあいと、和やかで楽しい食事を終え。
用意してもらった自室に、布団を敷いて寝る準備を整える。
優も一緒に寝ると言ってきかなかったが。
今夜ばかりは少し疲れていたので、兄夫婦が気をきかせてくれ。
ぐずる優を連れていってくれた。
……ものすごくいい笑顔を浮かべていたが、ものすごく傷も増えていた勝のことは。
あえてスルーしておこう。
一人になって、電気を消してやけに静かになった部屋の中で。
自分の心臓の音がよく聞こえ、そのせいで余計に眠れなかった。
こんなに静かな夜も、静かで穏やかで。
明日が来ることが怖くない夜も、とても久しぶりだったのだ。
やがて葵は、布団全体が温まり自身もその温かさが心地よくなった頃。
ようやく眠りにつけたのだった。
――――――農家の朝は早い。
一般の勤め人よりも早く起きて、仕事を開始するのだから。
社会人として働き始めた頃から特に、農家の仕事をしている人全てを尊敬したものだった。
むろん、葵も実家に帰ってきた以上は、仕事を手伝おうとは思っている。
だが、帰ってきたばかりということで。
葵はゆっくり目覚めることを許された上に、優の面倒を見るという。
至れり尽くせりの仕事を仰せつかったのだ。
優はいつもは、幼稚園に通っているのだが。
今日は生憎の日曜日。
家族もみんな畑仕事に出るので、今日ばかりは葵が一緒にいることになった。
優が葵に『きょーもいっしょねー!』なんて。
またキラキラの笑顔を見せる。
自分は変態ではないので、興奮のあまり壁を手でバンバン叩いたり、頭をガンガン打ち付けたりは出来ない。
手が真っ赤になるまで、拳を握るのが精一杯だった。
「何やってるの」
こっそり身悶えていれば。
母が背後から葵に呆れを含んだ声で、声をかけられた。
「悶えたいのを必死に堪えてるの!」
プルプル震えて、ニヤけたいのを堪えてる様を見せるわけにはいかないと。
顔を背けていると。
「……そういうところは、勝と兄妹だとわかるわね」
「兄さんと同じだけは絶対嫌!!あんな風だと思われたらもう外歩けない!引きこもりになる!!」
心底嫌そうにそう叫ぶと、珍しく重いため息を吐き出した母は。
葵の頭を、ペシペシと叩いた。
「そういうのはいいから。葵、お祖母ちゃん家に行ってもらいたいのよ。朝ご飯で漬け物が切れちゃって」
「え、もう無いの!?」
さすがは農家というべきか。
自家製の漬け物を、毎回食卓に並べ争奪戦を繰り広げている。
葵の家では、普段は母か菜緒が作った漬け物を食べるのだが。
特別な日とかには、父方の祖母が漬けた漬け物を食べることが出来るのだ。
昨日と今日は、葵が帰ってきたということで。
特別に漬け物を、大量に食卓で振る舞われた。
そのおかげで、漬け物の在庫は品切れ。
原因の一端を担った葵に、取りに行ってくれと頼んだのだ。
ついでに、祖母に顔を見せに行ってこいと葵に告げる。
「あの人も心配してたんだから、安心させてきなさい」
「……わかった。すー君、デートに行こう!」
「あおいちゃんとデートー?行くー!デートー!」
体全体を使って、大げさに見えるほど喜んでいるのを見て。
葵は、せめてもと親指を力強く立てた。
そのことに母は呆れたが、構うものかと葵は喜びにうち震えている。
「早く行っておいで!すー君がいるんだから、ゆっくり歩いて行くんだよ?」
「矛盾してない?」
「早く出かけて、ゆっくり歩いて向かいなさいって言ってることの、どこが矛盾してるってのよ。はい、いってらっしゃい」
「行ってきます」
「いってきまーす!!」
優と散歩がてら行けばいいだろうと。
陽がてっぺんに昇りきらないうちに、葵と優は手を繋いで。
祖母の家への、短い旅に出たのであった。
――――――祖母の家を取り囲む、山や雑木林から、まだ蝉の声が聞こえてくる。
最近は温暖化と騒がれてはいるが。
それでもこの暑さを乗りきれば秋が来て、冬になる。
日本という国は、不思議な国だ。
……それでも今は、異常気象のせいで夏並みの気温と、蒸し暑さだった。
体がすっかり、エアコン慣れしてしまっていたので。
まだ午前中だというのに、少し歩いただけで汗をかいてしまう。
優は暑さをものともせず元気なもので、ご機嫌な様子で歌まで歌っている。
「あおいちゃん!ひいばあちゃんちが見えたよー!!」
「暑い……」
汗っかきなのは自覚していたが。
ここまで暑さに、耐性を無くしているとは思わず。
「歳は取りたくないわー」
などと口にしてしまった。
思いきり、重いため息と共にそのセリフを吐き出すと。
いつの間に立っていたのか、祖母が葵の前にいた。
「げっ!」
「なんて口の聞き方だい!年頃の娘が、汚い言葉使いをするんじゃないよ!!それにまだ26の小娘が、何を年寄りぶってんだい!年齢のことを口にするならねぇ、あたしぐらいまで生きてから言うこった!!」
パシーンと、いい音させて葵の頭を叩くものだから。
優が『ダメー!!』と言って、祖母の前に立ちはだかる。
「ひいばあちゃん!あおいちゃんたたいちゃダメ!」
「愛あるゆえにしたこった、憎くて叩いたわけじゃないよ」
祖母の言葉は、まだ四歳の優には難しく。
わかるはずもないのに、祖母は祖母の言葉をそのまま伝える。
「?わかんないよー」
「優がもう少し大きくなった時に、菜緒さんに聞いてみるんだね」
「ママに?」
「勝にマトモなことが言えるとは思えないからね。菜緒さんなら、道理にかなうことをちゃんと優に教えられるだろう」
「兄さんの信用皆無だね」
「絶対、適当なことを言うだけ言って、後で菜緒さんに叱られるに決まってんだから。最初からこう言っといた方がいいだろう?」
家族中から信用されていない勝に、少なからず同情する。
「……我が家は代々、しっかり者の家系だったはずなんだけどねぇ。あたしの孫に限って、なんでこうなったんだか……」
「悪うございましたね」
「悪いと思うなら改めな、心配かけて……」
「……ごめんなさい」
口が良い方とは言えない祖母だが、それでも心を砕いて心配してくれていた。
仕送りを送ってきた際には、必ず祖母の漬け物が入っていたほど。
いつも作るのが追いつかないと溢していたのに、必ず送ってくれていた。
その優しさが……本当に嬉しくて。
情けないやら、悔しいやら。
色々な感情が入り交じって、たくさんたくさん泣いたのだ。
「漬け物、しょっぱかった」
「でも、美味かったろう?」
「うん。だからもう無いから、取りにきた」
「……余裕を持って渡したはずだけどねぇ?なんですぐに無くなるんだい!」
「主に父さんと兄さんが、とにかく理由をつけてバクバク食べるからじゃない?」
『あのバカ共が……!』などと、男連中に軽く殺意を芽生えさせていると。
今度は祖母が、深いため息を洩らした。
滅多なことではため息など洩らさない祖母なので、何があったのかと心配する。
……すると、今朝方のことだったという。
祖母愛用の漬け物石が、突然割れてしまったというのだ。
むろん、滅多なことでは割れない漬け物石が割れるなど、尋常なことではない。
だが、今はそんな細かいことに構っている暇はないのだという。
「あんたたちのところに回してあげたいのは山々なんだけどねぇ、今出来てる漬け物はご近所に配る分しかないんだよ。先約だったからね。……かといって、新しく作ろうにも石が割れちまったからねぇ……」
「適当な石はないの?」
「適当な石で、美味い漬け物が作れるはずがないだろう?!あんたは漬け物作りを嘗めてんのかい!?」
「いや、別に嘗めてるわけじゃ……」
やぶ蛇だったようだ。
大人しく口を閉じると、今度は優が『漬け物ないのー?』と口を挟んできた。
「石がないんだって」
「優の為にも、作ってやりたいんだけどねぇ〜。…………そうだ葵、あんた山から取ってきな!」
「はぁっ?!」
唐突に、祖母はこの炎天下の中を歩いて山に登り、漬け物石を取ってこいと指令を下してきた。
犬じゃないんだから、喜んで行くわけがない。
……そんな心情が顔に出ていたのか、祖母が葵に追撃の言葉を放つ。