51〜レネット
少し重い扉を開けて外に出れば、涼しい風が熱くなった頭と火照る体を冷やしてくれる。
ヒールの高い音を聞きながら、ディーヴァの柔らかい体にしがみつき、揺られながら変わる景色を眺めていた。
エミリエンヌは、ディーヴァに抱えられたまま、適当な道を進んで行くのをただ黙って受け入れている。
あまりにも大人しいので、静かで良いと思うよりも逆に心配になってしまった。
名前を呼んでも、何の反応も見せない。
顔を覗きこもうとしたら、さらに胸に顔を埋もらせた。
「…………」
「疲れたの?」
「別に」
まさしくムスッとした声で、不機嫌そのもののエミリエンヌの様子にディーヴァは思わず苦笑する。
黙ってこの状況を受け入れているところも、素直でないところも可愛らしいと思った。
子供らしくて、…………これが萌えというものなのか。
笑いをこらえながら空を見上げれば――――すでに陽は、傾きかけていた。
この国は夜になる時間が早い。
そろそろエミリエンヌも家に帰らないといけないだろうと、ディーヴァはうつ向く彼女に声をかける。
「なんなら、このまま送ってあげましょうか?もうすぐ暗くなるし……」
「やめてよ!お父様にはバレたくないって、さっき言ったばかりじゃない!!もう忘れてしまったというの!?」
ディーヴァの言葉に過剰に反応し、まるで金魚のように口をパクパクさせ、興奮するものだから……つい、その様子を見て声を出して笑ってしまった。
笑ったと言っても、あくまで上品にだ。
こんな往来で大声で笑うなど、淑女の格好をした今の姿で似合わぬ真似はしない。
クスクス笑っていれば、それに気づいたエミリエンヌは、恥ずかしそうにうつ向いてしまう。
そんなところがまた可愛いと、思わず頬擦りしたくなった。
だがそれは、彼女のプライドを著しく傷つけてしまいそうなので、なんとか自重した。
嫌われたいと望んだのはディーヴァだが、必要以上に嫌われたい訳ではない。
やはりディーヴァは、どこまで行っても結構なワガママな性格の持ち主だった。
「忘れていないわ、まだそこまでボケていない」
歳は取っているが。
「でも、あなたはまだ子供で……遅くなると危ないでしょう?家族が心配するわ」
「私を心配する家族なんていないわ!!」
見た目に相応しからぬ大声を突然出して、ディーヴァを驚かせる。
まじまじとエミリエンヌを見れば……唇を、噛みしめて。
震える体を、必死に隠そうとして。
泣きそうになっている自分を、誤魔化して。
何かを必死に耐えている子供の姿が、そこにはあった。
エミリエンヌはより一層、ディーヴァにしがみつく。
「家族なんていない」
エミリエンヌはポツリと、そんな言葉を呟いた。
「でも、あなたはドロエ家の三女だって……」
「……長女のジュリエンヌお姉様は、養女。次女のリリアンヌお姉様は、お父様が愛人に産ませた子。……そしてそのお父様は――――ドロエ家の、一人娘だったお母様の、婿養子なの。だから、ドロエ家の血を引くのは私しかいない」
なかなか子供が出来なかった二人に養女を迎え、それだけではまだ不足だと余所の女に子を産ませ。
そしてようやく、エミリエンヌが産まれたと思えば母親は亡くなった。
「そうだったの」
よくある話ではあった。
婿養子の逆もしかり、養子もしかり。
貴族の世界では、跡継ぎがいなければ死活問題で、そこにつけこまれれば乗っ取られることも珍しくはない。
ドロエの家も、そうなってしまったのだろう。
唯一の血筋であるエミリエンヌがいたとて、まだ幼い子供。
事実上の当主に収まっている父親がいる以上、家での立場も発言力も無いに等しい。
それに加え、義理の姉と異母姉の存在。
孤立してしまうのも、必然的なものと言えた。
「……物心ついた頃から、お父様やお姉様たちと、話したことなんてないの」
「一度も?」
「全部、使用人を通して、指示があるだけ。このパーティーは、全員で出席しなければならないから用意しておくように、とか。今日は大切なお客様がいらっしゃるから、部屋から出るなとか……全部、使用人から伝えられるだけ……」
姿すら見ない日が、何日も続く時すらあるのだという。
誰も話せる人はおらず、家族はいないも同じ。
……たった一人で過ごしてきて、出会ったのだ。
「アルヒ。……私に、手を差し伸べてくれた……初めての男の子よ」
アルヒとは家が隣同士で、崩れて出来た壁穴からアルヒがドロエ家の敷地に入ってきて、泣いていたエミリエンヌを見つけ仲良くなったそうだ。
初めてよく話して、楽しい時間を過ごして……とても嬉しかったと、彼女は言った。
「一緒にお菓子を食べたり、お互いのことを話したりして過ごしたわ。どんなことでも、アルヒは嫌な顔一つ見せないで聞いてくれて……ずっと一緒にいてくれた、私の一番仲良しの友達でいてくれた!――――それなのに、」
また、唇を噛みしめる。
何をそんなに我慢しているのか、泣きそうになっているのか。
ディーヴァは根気強く、エミリエンヌが話すのを待つ。
「お父様のせいで……っ!アルヒの家は、没落してしまった!!」
歯を食いしばり過ぎて、エミリエンヌの口の端から血が流れた。
慌ててハンカチをあてがうが、後から流れる涙が血と交わり、淡くなる。
自分が家族の縁に恵まれていない事実より、大切な人が貶められたことが許せないと静かに涙を流したエミリエンヌ。
静かに……静かに、声を出した。
「許せない……っ!!赤の他人なら、こんなに憤ることはなかったわ!肉親だから、父親だから!!許せない!!!」
大切な人を、自分から引き離した極悪人が父親という現実に、エミリエンヌはしばらく食事も喉を通らなかったそうだ。
自分の父親が、アルヒの家を貶めたとあっては、仲良しのお友達の関係が続けられるはずもなく……。
アルヒが屋敷を出ていかなければならなくなった日から、一度も会えていない。
というより、どんな顔をして会えばよかったのか。
何を言えばいいのか、話せばいいのか。
わからなかったのだ。
「屋敷を追い出される前に、お金に換えられる物は全部換えたって、人づてに聞いたの。それでも、今までとは比べものにならない生活を送ることになるだろうから……せめて、まとまったお金を渡したいと思ったの。でも、私からは……受け取ってもらえなかった」
「あなた、ひいては父親からのお金、と見られてもおかしくなかったでしょうね」
「……そのお金は、純粋に私が稼いだお金だったのよ」
「あなたが?」
こんな子供がまとまったお金を用意するなど、無理に決まっている。
大抵は親の金、もしくは遺産。
でなければ、十歳の少女が大金を現金で渡せるはずがない。
稼ぐなど論外である。
「私、お店を経営しているの」
エミリエンヌを抱いたままだった腕の力が、するりと抜けた。
いきなり組まれていた腕が外れ、石畳の道の上に落ち慌てて体勢を整え着地する。
十歳の子供が、お店経営。
時代は変わったと、驚いた顔のままエミリエンヌを見た。
「いきなり何よ!」
「……父親には、バレていないの?」
「表向きは、他の人に店長になってもらっているから。資金は、お母様がお父様に内緒で密かに隠していた遺産があったから……それを使って」
「どんなお店?」
「貧困層に暮らしている人たちを雇って、私がアイディアを考えたスイーツを作ってもらっているわ。その色々なスイーツを包装する箱や、包装紙なんかを新進気鋭の芸術家たちにデザインを頼んでる形態なの。この美食と芸術の国に相応しいスイーツを売り出している『レネット』(小さな王女)が、私のお店よ!」
なるほど、確かに斬新な方法を用いた店のようだ。
貧困層の者を雇い入れるのは、仕事にありつけないまたは働きたくとも働けない者たちにとって、涙するほどありがたいことだっただろう。
新進気鋭の芸術家たちにとってもそうだ。
芸術家というものは、売れ出すまでが途方もない時間を要する。
最初からコネや金があったり、圧倒的な才能があれば話は別だが。
それら全てを兼ね備えている者など、数える程もいないのが相場だ。
そういった者たちに焦点を合わせ、光を当てる。
お金も貰えて作品も生み出せる。
芸術家の卵たちにとって、まさに天職と言えた。
「最近では、王族御用達の話も持ち上がっているの!この国の特性を生かした、お店の功績が認められたんだろうって噂になってる。……あまり、噂になるのは避けるべきだと、わかってはいるんだけれど。嬉しくて――――……」
「それは、当然の感情でしょう?自分がやってきたことが、実を結んで大きな成果を生んだ。……嬉しくないはずがない」
「でも、もし……私がレネットの経営者だとお父様にバレたら、どんな手を使っても乗っ取りにかかるに決まってる!!」
「なぜ?こう言ってはなんだけれど、わざわざ乗っ取りを行わなくてもあなたが経営者な以上、色々と融通は利くと思うんじゃない?あなたは娘で、しかも今までの人生の中で逆らったことがないあなたですもの」
「無理よ、そんなことで満足するお父様じゃないわ!気に入ったもの、欲しいと思ったものは自分のものにしないと気が済まない……!!たとえ相手が娘でも、所有権を奪い取るに決まってる!そういう人なのよ、あの人は!!……アルヒの時も、そうだったもの……っ」
さんざん泣いて、すがって……生まれて初めて、父親に願い事を言った。
アルヒの家から、手を引いてほしいと。
初めての友達で大切な人だから、お願いだからアルヒから、全てを奪うのは止めてほしいと……そう、言ったのに。
「娘の涙も、一回のワガママもたった一つの願いも……お父様にとって、叶えるに値しない下らないことでしかなかった!私のことなんて……ドロエ家を継ぐ為に、とりあえず必要だっただけの傀儡でしかない。ここまで好き勝手に出来るようになれば、もはやいてもいなくても同じ。どうでもいい存在なのよ!!」
エミリエンヌは、当の昔にその事実に気づいていた。
いてもいなくても、同じ存在。
家族の誰からも愛されず、また必要とされず。
ようやく自分のことを見てくれて、話してくれて……友達になってくれた希少な人を、その『家族』に奪われた。
受け入れがたい現実を、言葉にすることでより一層辛さが増す、悲しみが募る。
苦しい、心が痛い。
「どうして……どうして、私だけが、こんな目に合うのっ……?」
「エミー……」
「涙なんて、たくさん流して……声だって枯れ果てるほど大声で泣いたわ!だけど、現実は変わらない」