37
大切にしたかったものは、たった一つだ。
それさえあれば、他には何もいらなかった。
自分の全てと引き換えにしたってよかったのだ、この恋が叶うなら。
愛が成就するならば。
……それほどまでに、愛していた。
この憎らしい男が。
『愛して、いたのにっ……』
苦しげに涙を流すマーレに、こんな状況とはいえ国王は胸が締めつけられた。
思わず手を伸ばしかける。
だが、その間にここぞとばかりに乱入した人物がいた。
「はい、そこまで」
『っつ!!?』
「そなたは……」
「……愛と憎しみは紙一重とは、上手く言ったものよねぇ?そう思わない?」
どこから取り出したのか、真珠を飾り玉に使った扇をマーレと国王の間に放ち、意識を逸らさせる。
そしてツカツカと歩み寄ると、ニーッコリと眩しいばかりの笑顔を見せた。
『ディーヴァ!?なぜお前がここに……っ』
「階段から地道に上ってきたに決まってるでしょう。窓はあんたのせいで塞がってるし?他に出入口はないしね」
今度はちゃんと階段を探しあて、段差を抜かしながら急いで駆け上ってきたのだ。
急いで来た割には少しも息切れしていないので、いまいち慌てている感が伝わってこないが……緊迫感が室内の中をぴりぴりと漂っている。
ディーヴァの後ろにいたカダルも、無表情で影の奥から室内の様子を窺っていた。
……時間が、止まっているように感じた。
「こーんなに頭が痛くなったのも疲れたのも…………辛い思いを味わっているのも、久しぶりなのよ?わかる?マーレ」
それは、慈愛に満ちた微笑みだ。
何も恐れず、何も憎まず、全てを包み込む者が浮かべる笑みだった。
もっと、怒りなどの感情が表れた顔を見ることになるのだとマーレは覚悟していたのだが。
ディーヴァの言葉の端々に、マーレへの想いが込められていることが感じ取れた。
そのことに、若干怯んでしまう。
しかし、ここまで来て後には引けない。
マーレは強気に押し進めた。
『何をしに来た、そなたには関わりないだろう!さっさと去ね!』
「つれない仕打ちねぇ、関わりないはないんじゃなーい?」
『事実であろう。これは妾とこの男の問題じゃ、これ以上の介入は許さぬ!!』
「……二人だけの問題なら、二人だけで解決するべきじゃない?男と女のいざこざに、一番巻き込んじゃいけない子を巻き込んだのはいただけないわ〜……そう思わない?」
呪いは解けたものの、体力が著しく低下した為、未だ眠り続けるアルベルティーナ。
呪いの影響を受けて、まだ体が回復しておらず苦しそうにしているアレス。
この二人を、こんなどうしようもないことに巻き込んだ。
そのことが、ディーヴァは許せなかった。
「こんなネチネチと回りくどいことをして、……マルガレーテが聞いたら嘆くわよ」
『母のことは言うな!!』
「言わないでおけないっての、あたしも嘆いているんだから。魔女っていう存在は、性格が悪いのが相場と決まっているけれど……ほとんどの魔女の生い立ちが生い立ちだけに、あたしは嫌いになれない。だけど、自らの才能を誉れとし、誇り高く生きている魔女がいるのも知っている」
マルガレーテがいい例だった。
フィトラッカに定住出来るまでは、母娘で迫害を受け続け……それでも、世を恨むことも人々を憎むこともしなかった。
常に燐としていて、日の光の下を背筋を伸ばして堂々と歩み続ける。
そんな女だった。
「だからこそ、マルガレーテの娘であるマーレが、こうなってしまったことがとても悲しい」
『黙れ……っ!もう、何も言うな……!!』
「あんた一人の暴走した思いのせいで、全ての魔女……引いては、マルガレーテの誇りが汚されることは、絶対に許せないわ。手を引きなさい」
『断る!!!』
マーレの心を縛りつけているモノ。
国王への叶わなかった恋と、それから生まれた怨み。
その怨念は、マーレの体一つに留めておける代物ではなかった。
怨みがとぐろを巻き、マーレの体に巻きつく様が見えるようだ。
完全に闇に埋もれてしまい、最早言葉など通じない。
マーレに残されたものは、行き場のないこの思いを国王にぶつけ、引いては関係する全ての事柄にぶつけることのみだった。
『殺す』
ギリギリ人の姿を保っていたのが、おどろおどろしい顔へと変わり、滑らかな肌をしていた上半身が鱗に覆われ、目も蛇の目に変わり殺気を放って再び国王に襲いかかりそうだった。
『殺してやるっ……!!』
口はさらに大きく裂け、人の頭など丸呑み出来るほどだ。
ゆっくりと床を這いながら、国王に怨み言を呟きながら向かっていく。
『ようも……ようも、妾を裏切ってあのような女と……っ!許せぬ……許せぬーーーっ!!!』
今にも国王の頭を食いちぎり、室内を鮮血に染め上げるところで。
ディーヴァが行動を開始した。
「カダル」
「はい」
「放て」
「かしこまりました」
魔法で弓を作り出し、それがこの狭い室内の中で数十本の矢に増え、マーレに向かい放たれた。
姿が変わったばかりで動きが鈍くなっていたので、矢は全てマーレの体に刺さりそのまま窓から外へ押し出される。
マーレの上半身が宙を舞い、勢いよく地面に叩きつけられたのを見届けると、ディーヴァも窓から飛び降りた。
『おのれ……っ!ディーヴァ!!!』
「あんたの好きにはさせてやらない」
今度はディーヴァに襲いかかる。
獰猛な牙を剥き出しにし、ディーヴァの体に食らいつこうとした。
しかしディーヴァは、瞬時に手から刀を出現させ、構えをとる。
それに怯んだマーレは杖を持ち、油断ならない相手を前に動かない。
そして距離を取って攻撃魔法を発動させる。
しかし、魔法を発動させている間の隙をつき、ディーヴァが地を蹴りまっすぐマーレに向かう。
魔法を繰り出されるよりも、ディーヴァが刀を降り降ろす方が速い。
マーレの肩から胸を横断し、綺麗に斜めに切ってしまった。
信じられない、といった表情を浮かべたマーレに対しディーヴァは、なんとも言えない顔を見せ……か細くマーレの名を呼ぶ。
ヒクリ、と声にならない悲鳴を上げ、伸ばした腕は空を切り、空虚な目でディーヴァを見ながら……静かに地面に倒れた。
そして少しずつ鱗が剥がれ落ち、元のマーレの姿へと戻っていく。
「……お、の……れ…」
「まったく、あたしにあんたを切らせるなんて。なんてことしてくれたの」
「なら、ば、放……って、おけば……よかったでは、ない…か……っ」
「そうはいかない。あんたはあたしの、数少ない友人の娘なんだから。このまま放っておけば、マルガレーテだけじゃなくマーレ、あんたの誇りまで汚してしまう。それだけは、させない。――――させたくなかった……」
昔からマルガレーテに、娘の話をよく聞いていた。
マーレを身籠るまでが、とても大変だったことをよく話して聞かせてしまったこと。
ゆえに、次代の魔女を授かる為に必死になっているだろうことを。
勝ち気で頑固、だけど一途で情熱的で……きっと男に惚れたなら、己の身も焦がすことも厭わず……相手を想い続けるだろう、と。
「……ただ、子供が欲しかったっ……」
国王と、子供を作りたかった。
国王との間に、子供を授かりたかった。
そして出来るなら……魔女でも幸せになれると、証明して見せたかった。
「……母が、懸命に、魔女として……の、生、を……生きている、と、知ってた、から……っ!妾が……妾、が……幸せに、なれ…ば……この先、生まれて……くる…魔女が、不幸に、なる……と、決まっていない証に、なるのでは…ないかと……」
ゴポリと、嫌な音がした。
大量の血を吐き、傷口から命が抜け出ていくのが見える。
傷が治らないよう、そうなるように切ったのだから当然ではあるのだが。
……あまり見るべきではない光景だと、皮肉そうにディーヴァは笑う。
膝をつき、マーレの頬に温かい手を添え顔をギリギリまで近づける。
星が瞬き始める藍色の空の下、甘い花の香りが漂う中でその顔が……その姿が、ボンヤリと淡く光り浮かび上がって見えた。
「あぁ……母様」
「『マーレ……馬鹿なことをしたね。――――本当に、馬鹿な子だ』」
血まみれになることも厭わず、マーレの冷たい体を抱きしめる。
マルガレーテの優しさが、染み入るように感じてくる。
マーレは涙が奥から溢れでてきた。
「しょせん……魔女が、幸せに……なれるはずがなかった……ただ、ただ母様のように、誇り高く、生きたかった……っ!そして、母様が生きた、という……証を、子を……作りたかった、生みたかった!ただ、それだけ……だった、のに」
「『……重荷だったね、すまなかった。マーレ……悪かったねぇ』」
謝らなけれならないのは、自分の方だとマーレは心の中で己自身を責めた。
子を残さねば、次代に繋げていかなければ……なんの為に、母が自分を産んで育ててくれたのかわからない。
母の思いに応えたい、今まで育ててくれたことに報いたい。
……たったそれだけのことが、出来なかったことが悔やまれてならない。
「『もう、いいんだよ。マーレ、マーレ……ゆっくりおやすみ』」
「側に、いてくれる?」
「『いるよ』」
「ずっと?」
「『あぁ、…………ずっとだよ』」
今まで見たことがない、それは綺麗な笑顔を見せて――――――マーレは逝った。
残ったものは、灰になった体と貝殻の首飾りだけ。
夜の帳が降りた世界の中で、哀れな女が一人、消えた。
「『すまなかったね、ディーヴァ。体を借りただけでなく、あんたにまで嫌な思いをさせてしまって』」
「(それは別に、いいんだけどね〜。……それにしても、本当に良かったの?あのまま死なせて)」
「『生きていても、思考が正常に戻っていただろうから、良心の呵責と罪の意識に苛まれて……どのみち耐えきれなかっただろうよ。このまま逝かせてやった方が、よっぽどあの子の為だよ』」
「(……最愛の娘を先に逝かせちゃって、良かったのかって聞いているのよ)」
「『あの子には、いずれまた会える。あの世で待っていてくれるさ、親思いの優しい子だからね……』」