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「…………うん、兄さんに対して感動したあたしの気持ちを返して」
「気持ちなんてものは形に残らないから、儚いものなのさ!」
「義姉さんの兄さんへの愛も?」
ピシリ、と勝は固まった。
これも兄妹ゆえの遠慮の無さで。
言ってはいけない“禁句”を、平気で口にしてしまう。
体がぷるぷると震えながら、葵の方へゆっくりと振り向き。
勝は思いきり叫んだ。
「お前はなんて恐ろしいことを言う子になったんだっ!!菜緒の前でそのことは、絶っっ対に言うなよ?!万が一にも、俺が捨てられたら――――葵と再婚するしか道は残されていない……っ!!」
人前だというのに、地面に膝つき本気で泣いている。
恥ずかしいからやめてほしいのだが、この兄は聞く耳を持ちやしないだろう。
そんな勝を無視して、葵はトラックの荷台にカートを乗せ。
自分はさっさと助手席に乗り込んだ。
すると、勝がいきなり悪役のような笑い声を出すので。
葵は呆れながらも、声のする方を見た。
「ふふん!お前は免許を持ってないから、運転出来ないだろう!!この兄無くしては家に帰れんぞ!?」
「なら道の駅の店に来てる、農協の誰かに適当に送ってもらうから。それかタクシー使うし……」
「お前はお兄ちゃんの存在意義を奪う気か?!奪う気なのか!!?」
助手席の窓越しから、滝のように涙を流す勝に。
葵は腹の底から、果てしなく重いため息を吐き出した。
そして、こうも鬱陶しい状態の時は決まって『何か』あった証拠だ。
確信を得る為に、恐る恐るではあるが。
ハッキリと、勝に質問した。
「兄さん。…………本気でウザイんだけど、義姉さんと何かあった?」
空は快晴。
雲一つない爽やかな青空の下、賑やかな人々が行き交う駅の前。
その駅の前に止まっている、一台のトラックにすがりついている男に。
盛大に大きな雷が落ちた、……ように見えた。
「に、兄さん?」
「ふ、ふふ……ふふふふふ…………!!」
「やっぱり、なんかしたんだ?兄さんが」
「なんで俺だと決めつける!?」
決めつけていない、すでにわかっていることだからだ。
「毎回電話した時とか、正月の時に帰省した時とか。二人がケンカしたこと聞いたら、原因は兄さんばかりだったじゃない!今回はどうせ、その袴姿で行くって言ってケンカになったんでしょう?」
うっすらと、勝の頬に平手打ちの跡があった。
あと額に出来たばかりの引っ掻き傷だったり、青痣が見え隠れしている。
義姉は武術の心得はないのだが、いつも一方的に勝がやられっぱなしになっていた。
惚れた弱みとでも言うのだろうか。
そんなにやられっぱなしになっていても、勝が義姉に手を上げたことも無ければ、悪口を言ったこともない。
結局は、愛し合っている夫婦なのだと呆れてしまうしかなかった。
「大体、兄さんはくだらないことばかり言って、義姉さんを怒らせ過ぎなのよ」
朝ごはんの時には、味噌汁に豆腐が必ず入ってないと嫌だと駄々をこねる。
(ちなみに文句を言うのは勝だけ。両親は美味しいと言って、ちゃんと完食する)
お昼ごはんを畑で食べる時、お茶をポットに入れて持っていったら。
烏龍茶じゃなきゃ飲まないと駄々をこねる。
(他のみんなは麦茶を飲む。もちろん文句など一つも言わない)
他にもお風呂は一緒に入るとか、お揃いのパジャマで寝たいとか、ご飯を食べさしあいっこしようとか。
「この際だから、ハッキリ言わせてもらうけど。兄さん、ウザイ」
「っ!!?……いや、そんなことを言っていてもお前も菜緒も、結局は俺が大好きに決まっている!さぁ、言ってごらん?『お兄ちゃん大好き』と−−−−っっ!!」
「ウザイ」
「ウザイしか言わなくなった!?」
そろそろ人目を集めてきたので、さっさとこの場を去りたい葵の気持ちを知らない勝は、まだ泣きわめいている。
いい加減にしろと言いたかったが、半端に話は終われない。
仕方なしに、葵は話を続けた。
「どうせ、あたしを迎えに行くからには正装して行かないとダメだ!……とかなんとか。訳のわかんないこと言って、義姉さんを怒らせたんでしょう?」
図星のようで、勝は押し黙ってしまった。
やはりくだらない理由が正解だったか。
実の兄が情けなさすぎて、葵は目眩を起こしそうになる。
勝は馬鹿ではなく、むしろ賢い方に分類する男だ。
それがどうしたと言われそうだが。
……少なくとも、最愛の妻を怒らせない方法を勝は知っている。
理解している、なぜなら賢い上に。
自分の妻のことを心から愛し、また“よくわかっている”から。
妻の全てを知ろうと努力し、時を重ねて今に至るのだ。
……それなのに、勝は妻を怒らせる。
理由は知らない、葵には理解出来ないことだし。
なぜ怒らせないように出来ないのかと、聞いたことはないからだ。
だが葵から言わせてもらえれば、それは……ただの『阿呆』なのだということ。
そうではないことを、ただひたすらに祈るばかりである。
「……ほんと、義姉さんは仏様よね。こんなに男として以上に、人としてもダメダメな兄さんのお嫁さんになってくれたんだから。感謝すればこそ、ワガママ放題言ってたら、それこそバチが当たるってもんよ?」
「何を言う!俺がこんなワガママを言うのは菜緒だけだぞ?俺が愛してる女は菜緒だけで、愛してるからこそワガママを言う。道理に叶ってるだろう?」
勝は運転席に乗り込み、エンジンをかけながらそんなことを言う。
あっけらかんと、実に大したことがないように言うものだから。
葵は呆気に取られてしまった。
「……だから、なんだかんだ言っても義姉さんは兄さんと離婚しないんだろうなー……こんなにウザイのに。……いいなぁ」
また葵は毒づくが、心がこもっていないのがわかったので。
勝は乾いた笑い声を溢すだけで、今度は悲しみはしなかった。
「うらやましい」
兄夫婦が、本当に……心の底から愛し合っているという事実が。
自分もそうありたい、だけど分かち合う相手がいない。
勝を羨んでいると、特に救われない言葉を葵に言ってきた。
「ちなみに、葵も愛してるぞ?兄妹としてなら一番な!」
「……嫌じゃないけど、他に兄妹いないから順位は決めようがないじゃない」
「いやいや、俺は俺自身よりも葵のことを愛してる。菜緒も同じように愛してる。自分自身をないがしろにするわけじゃないし、それほどお前たちが大切だということだ。……だから、こうして無事に帰ってきてくれて、本当に嬉しい」
帰郷するたびに、“痩せ過ぎてる!たくさんご飯を食べて太れ!!”
と、目尻に涙を浮かべながら言われ続けたことを思い出す。
……心配をかけ通しだったのに、こんな風に優しい言葉をかけてくれる。
そんな勝の言葉が嬉しくて、泣きそうになってしまったことは……内緒だ。
絶対に、教えてなどやらないと心の中で舌を出す。
葵はなかなか、いやかなり性格が悪かった。
「兄さんがマトモなことを言うなんて、雨でも降るのかしらね?」
「ひどい!葵が元気無さそうだったから……茶化しちゃマズイと思ってさー」
「その格好がすでに茶化してるじゃない」
「俺なりに、ちゃんと葵を出迎えようとした結果なんだがな〜」
「どこがよ」
葵が勤めていた会社は、全国的にも広く名が知られているほど有名な企業だ。
そんなところに勤め始めてから、見るからに体調が悪くなっていったのを、家族は知っている。
そんな状態で、会社を辞めて実家に帰る……なんて、何かあったと考えるのが普通だろう。
急に実家に帰ると連絡したから、驚くよりも先にすごく心配してくれた。
電話をかけた時に出たのは母だったが、体調は平気なのかとか迎えに行こうかとか……。
聞いてくれただけで、すごく嬉しかった。
同時に、泣きそうになるのを必死にこらえた。
これ以上、心配はかけられない。
泣くほど辛いことがあったのだと、知られたくない。
家族はみんな優しい。
優しいゆえに、自分の為に怒ってくれる。
身に染みて嬉しい、有難い。
だけど、もう終わったのだ。
後腐れなく終われたのだ。
ならばこれ以上、何もする必要はない。
そのことも含め、帰ったら家族に報告しなければならないかと思うと。
葵は気が重かった。
母から父に、葵が帰るという話は伝わっている。
葵は、父親のことは尊敬していたが……同時に恐怖の対象でもあったので。
今回の顛末を話すことが、とても恐いのだ。
「……父さん、怒ってる?あたしが理由も言わずに、いきなり帰ってきて」
「自分で確かめろ、俺から話を聞いたって信じられないだろ?」
「うん」
「あれ?妹からの信用皆無!?」
また目尻に涙を浮かべる勝に、葵は笑いをこぼす。
こんなにおちゃらけていて、ワガママでシスコンで嫁に頭が上がらない。
そんな兄に、葵は救われる。
泣いてなんかいられない、笑ってしまうのだ。
「お父さんに勘当されても、兄さんはあたしの味方でいてね」
「当たり前だ!……それに、勘当なんてさせるもんか」
「ありがとう」
整備なんかされていない道の上をガタガタと走らせながら、二人は家路を辿るのだった。
――――――葵の実家は、築百年以上は経っている古民家だ。
さすがに水回りは、綺麗にリフォームしているが。
その他は、造られた当初から変わらない内装のままである。
庭には鶏を放し飼いにし、昔は馬も飼っていたらしい。
葵の母の趣味である、庭いじりのおかげで。
家の周りは、ちょっとした花園になっている。
ご近所からは綺麗でよく手入れされていると、評判の庭だった。
「……なんか、家の周りの花がまた増えてない?」
車から降りて放った第一声は、それだった。
まさに売るほど花が咲き誇っている。
色とりどりの花が、葵の帰りを待っていてくれているようだった。
「母さんだけじゃなくて、菜緒も好きな花植えてるからな〜。しかもどんどん増殖してってるから、道の駅に出荷もしてるんだ」
「んー……なんか、足の踏み場も無くなりつつあるわね」
さすがに人が歩く道は確保されていたが、茎が伸びていて葵が歩くたびに、花が足に当たる。
花を散らしてしまうのは可哀想なので、気を使って歩くのも一苦労だった。
「あっ、勿忘草!」
本来なら、春から夏にかけて咲くはずの勿忘草。
青や紫の小さな花を咲かせる、可愛い花だ。
葵が産まれた日に、この花が咲いたと教えてくれたのは母だった。
折に触れその話をするので、葵はすっかり好きな花が勿忘草になったのだ。
花言葉は、『私を忘れないで』。
だろうだろうか。
葵が帰省する度に、季節を問わず必ず勿忘草が咲いていた。
冬は寒くて世話が大変だろうに、少しでも葵に元気になってほしいが為に。
綺麗に花を咲かせ続けた。