18〜アレス
恐る恐る後ろを振り向くと、――――これでもかと大層着飾ったカダルが凄んだ顔つきで静かに立っていた。
「あら?カダル!……デートはどうしたのぉ?」
「先方の事情で、取り止めになりました。王宮に連れていかれるところを、丁重にお断りしディーヴァを探していたんです!……それで、何をなさっておられるのですか?!」
「んふふ」
カダルの変わり果てた…………もとい。
きらびやかに着飾った姿を、目の当たりにし。
ディーヴァはあからさまに、ニヤニヤと笑う。
髪にはたくさんの花を挿し、宝石の付いた金の首飾りに耳環……。
着ているものまで、豪勢な刺繍入りの衣服に着替えて。
見た目では、完全に背の高い女性にしか見えない。
この短時間で、フォルスに相当貢がせたようだ。
……いや、フォルスの方が貢いだという方が正しいのかもしれない。
そして当の貢がれた本人はといえば、酷く機嫌が悪そうだ。
鬱憤を腹の底から吐き出し、この場にくずおれたい気持ちを必至で抑える。
何よりも先に優先させ、問いただしたいことがあったからだ。
今しがた、ディーヴァが行ったことに対し質問を投げかける。
そんなカダルの心情を、少なからずともわかってあげなくもないとほんの少し、塵や砂の一粒程度ぐらいには考えているディーヴァは答えてあげた。
「いえ、ね。この男から、懐かしい匂いがしたなーって思って近づいてみたら、途端に嫌ーな臭いがしたものだから。それの正体を、確かめてみようと思って」
「……昔のお知り合いの方の匂いですか?」
「懐かしい匂いの方は、遠い昔の知り合いだった者の匂いよ。……長く生きていれば、こういうこともあるから嬉しいわよね」
「ディーヴァ……」
眠っている青年の頬に、キスを落とす。
身動ぎはしたが、全く起きない。
そんな青年に、ディーヴァは優しく頭を撫でた。
「あたしの知り合いは、ロクデナシばかりだったけれど。あの子たちは、珍しく良い子たちだったわね。……清々しくて、見ていて気持ちが良かった」
「随分と、気に入っておられたんですね」
「だって、とても珍しかったのだもの。あたしのことを特別扱いすることも、色めいた目で見ることも無かった。……本当に、嬉しかったのよ」
「特別な方だったのですね」
「そうね、ある意味とても特別だった」
過去に思いを馳せる。
全く何も無い土地で、朝から晩まで働いて……人間らしく生きていた彼ら。
そこでディーヴァも手伝って、特別力を使ったことはなかったが。
……それでも、あるがままを受け入れてくれた貴重な人々。
……本当に嬉しそうに微笑むディーヴァを見て、どれだけ大切な思い出なのか、カダルは思い知らされた気分だった。
話を聞いても、その人たちのことをカダルは知らない。
知りようがない。
だからこそ、妙な焦燥感が募る。
自分が知らないディーヴァを知る過去の人々を、妬ましく思ってしまうのだ。
「だけど、そんな懐かしい彼らの匂いにまとわりつくように臭うものの正体は、知り合いの職業と同じ匂いがするのよ。薬臭くて、陰気臭い。……それに、そこそこ達が悪い奴の臭いね」
自らの交遊関係の、悪辣さを主張しながら。
放っておいては、良くない結果を招く臭いの元を調べるべく。
ディーヴァは力を使う。
相手は相当な力を持つようだと、臭いの切れ端で感じ取ったので。
念のために、与えられた力の方を使うことにした。
男を仰向けに寝かせ、男の額と自分の額をくっつける。
そして新たな文字に血を付けて、詠唱を始めた。
「中に入った後、あたしの体をよろしくね」
「心得ております」
何度もあったことなので慣れたもの、ディーヴァに関わる対処に関して、カダルの右に並ぶ者はいなかった。
「『ニイド』。欲求は、心を締めつけるもの。だが心して見るとき、人の子らを助け、救うものなり」
――――――眩い光が辺りに溢れ、周りが一瞬で包まれる。
周りが、何も見えなくなったことがわかると。
ディーヴァは目を閉じた。
瞬きしたほどの時間、たった一瞬のこと。
目を開けた瞬間、海の底。
色とりどりの魚が自由に泳ぎ、海の生き物が息づく世界で。
ディーヴァと青年の二人だけが、海の中で浮いていた。
だが、海の冷たさや海水を触っている感覚はあるのに。
息が出来ることに、青年は驚きを隠せないようだ。
言葉も話せたので、少し離れた場所に浮いていたディーヴァを見つけ、泳いで近づきいつの間にこんなところまで来たのか、ここはどこなのか訳を問いただした。
「なんなんだ、ここは……っ!」
「……ここは、あなたの深層心理の世界。意識の一番深いところで、あなたが憧れている世界。――――綺麗なところね、ここはフィトラッカ国の海の中?」
「……本物は、もっと綺麗だ。俺が思い描いている貧相な世界より、もっと……ずっと、綺麗だ」
青い、どこまでも蒼い世界が広がる無限の海。
たくさんの生き物が優雅に泳ぎ、群を成し、自生する。
そんな生き物たちが息づく中で、自由に泳ぎまるで人魚のように優雅に泳いでみせるディーヴァの姿は、周りの魚たちをも魅了した。
楽しそうに一緒に泳ぐ。
時には愛を込めて魚にキスをしたり。
……それを見て、これが夢なのか現実なのか判断がつかない青年は、眩しそうにこの光景を眺めながら再度ディーヴァに尋ねた。
「お前は、誰なんだ?」
魚に伸びていた細い手を取り、自らの方へと引き寄せる。
何の抵抗もせず、ディーヴァは青年に近づいた。
顔には笑みを浮かべたままだ。
「あたしはディーヴァ。ただの観光客よ、あなたは?」
「アレスだ。……ただの観光客が、こんなこと出来るのかよ?」
「出来るんだから仕方ないじゃない?……名称がなんであれ、あたしは観光客だけどこんなことが出来てしまう……それだけのことよ」
側に寄ってくる魚たちと、戯れながら。
目を細め、アレスの方を見た。
戸惑いを隠せず、どうしたらいいのかわからないようだ。
無理もない。
仕事中に、いきなり訳のわからない状態になってしまったのだから。
ディーヴァからも、何の説明もない。
これでは余計に混乱するばかりだ。
状況を整理しようにも、判断材料が少なすぎる為にそれも出来ない。
しまいには、うんうん唸っていると。
ようやく、ディーヴァの方から話を切り出した。
「あなた、何か悩みがあるでしょう?人につけこまれそうな悩み。他人にとってはどうでもいいことかもしれないけれど、自分にとってはすごく重要な、悩み。抱えているでしょう?」
「悩み?……特にないが」
「生活の事とかお金の事とか、恋人の事とかじゃないわね。もっと根が深い……最悪、自分自身を否定してしまうような悩みよ。――――本当に、わからない?」
妖しく光る金の瞳に見つめられ、体が硬直し動けなくなってしまう。
……ディーヴァは特別、何かをしたつもりはない。
ただ、ディーヴァの凄みを感じ取り過ぎて。
体が固まってしまったのだ。
アレスの頬に、細い指が触れる。
上から下へ、下から上へとやんわりと撫でられ。
ゾクゾクとした何かが、背筋を這い上がった。
「なかったら、困るわ」
「な、ぜだ……?」
「誰かはまだ、見当をつけていないのだけれど。それでも、あなたにつけこめたその理由がわからなければ……対処のしようがないでしょう?」
大切だったと、胸を張って言える人々の末。
それが、こんな形で厄介事に巻き込まれてしまっている事実に。
頭痛がしそうやら、腹痛が起きそうやらな心境だ。
実際に、体調が崩れることにはならないだろうが。
心配している相手の方に、身の危険が迫っている。
放っておけない、放っておかれない。
そんな性分のディーヴァは、損をしているとよく言われる。
だが本人は、逆に得をしていると言い返す。
大切な者がまた増えるのだから、損なはずがないと笑ってみせるのだ。
その笑顔で、また人々を魅了する。
ディーヴァという女は、罪作りにも程があった。
「……っ………!!」
ディーヴァに何度も悩みがあるだろうと告げられ、アレスは考え込んだ。
他人は気にしない、だが自身は気になって仕方がない。
そんな悩みがあるのかどうか。
すると、何かに気づいたように俯いていた顔を上げ、ディーヴァを見る。
そして見た直後、……悲しげに再び顔を伏せ、俯いてしまう。
透明感のある海の中で、アレスの背後から突如黒い墨のようなものが勢いよく噴き出してきた。
タコなどが、噴き出しているのではなく。
それは、アレス自身から噴き出ているもの。
悩みに気づき、知らず知らずに噴き出てしまっている想いの塊。
少しずつ、それが周りに浸透し……。
逃げる魚たちをも覆い尽くして、やがて辺りは闇に覆われた。
「……相当、深い悩みのようね。すぐには思い出さなかったようだけど、改善された訳ではないんでしょう?」
「…………」
「図星のようね。忠告しておいてあげるけれど、あなたから嫌〜な臭いがするの。人を貶め、どん底に突き落とし……今ある幸せを全て叩き壊す。『魔女』が側にいるんじゃない?あなたの、すぐ側に」
この世界での魔女の定義とは、あまり良い扱いを受けていないのが現実だ。
普通の人よりも、寿命が長いだけではなく。
性格が捻くれ曲がっていたり、根性がひん曲っていたりする。
そうではない魔女もいるが、極々小数しかいない。
現に、ディーヴァの知り合いの魔女のほとんとが。
全てにおいて、曲がりまくった精神の持ち主ばかりなのだ。
何度でも言おう。
全ての魔女が、最低最悪の存在という訳ではないが。
ほとんとが、あまりろくでもない存在だという事実を否定出来ない。
良い魔女を捜す方が至難の技だ。
その結果、今回アレスに関わっているであろうその『魔女』も。
ろくでもない人物の可能性が高い。
嫌な予感というものは、常々当たるものと心得ていたディーヴァは。
諦めたように、ため息を吐いた。
「すぐ側にいるかどうかは、はっきりとはわからない。だけど、近くにいることは間違いないわ。こんなに、臭いがこびりついているんだもの。遠く離れているはずがない」
「誰なんだ?その魔女というのは」
「はっきりとはわからないと言ったばかりでしょう?……でもそうね、本来の姿を変えてあなたに会っているのかもしれないわ。もしくは、あなたの身近な人……とかね。あくまで可能性だけれど」
臭いはまとわりつくもの。
消そうとしても、嫌な臭いはなかなか消えない。
それが、ずっと側にいてつかず離れずいるのなら。
『何か』をしでかす前触れということだ。
経験上、ディーヴァにはわかっていた。
魔女という存在に拘らず、誰かが何かをする時は密かな痕跡を残す。
それに気づくか気づけないかは、経験と能力次第だ。
青年に尚も諭すように、話を続けて口にした。