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「もうすぐ死ぬかも」
読みかけの本を閉じ、傍らに置いた携帯を覗き見る、画面には馴染みのチャット画面。
「将来にあまり望みなんて持ってないしさ、毎日こうやってネットでつるんでるだけだし、そろそろいいかなって」
このチャット画面にはいつも二人しかいない、4年間いつもそう。 聞き役の俺と、話し手の誰か。
住んでるところは聞いたことがある。 けど、何処の誰かも分からない。
「家族とももう暫く会ってないし? 今死んでも一緒だよ」
腐れ縁で、所詮ネットの知り合いってだけだ。 死ぬと言われた今だってあまり感情は沸かないんだけどな。
「オーケイ分かった。 確か隣りの県だったよな?」
一瞬チャットの更新が遅くなる。 僅か1秒ほどの遅延でも、長い。
「もしかして、オフ会でもするつもり?」
「走って行くわ」
電源を切る、ベンチから、立ち上がる。
読みかけの本? そのままでいい。
「Then I would never let another day go by」(絶対に一日を無駄にしない)
耳元から、軽快な歌声が聞こえる。
隣の人が急に立ち上がる。 屈伸三回、携帯を見てたみたい。
私は今日たまたまここに座っただけだけど、いつもここにいるのかな? ちょっと不思議な人。
「あの、本忘れてますよ」
体格のいい男の人、走り出そうとしたその人に私は慌てて声をかける。
軽快にステップを取りながら、肩越しに振り返って笑ったの。
「ちょっと隣の県までさ、人に会いに走っていくわ、交番にでも届けておいてよ、今度取りに来るからさ」
「本気で?」
「ああ、本気も本気、あんたも走ったら? 何でも良いけど、本気でさ」
失礼な物言いだけど、走り去っていくあの人は、きっと本気なんだろうな。
待ち合わせまでもう少しあるけど、たまには走っていこうかな。
「なぁなぁ、あそこの人、すごい勢いで走ってるぜ」
傍らの友達が、指を指して遠くを見る。
いい大人なのに、男の方は歩道すら通らずに、フェンスを手すりを、なんでも一息に越えて走り抜けていく。
「塾に遅れるよ、トオル」
私は友達にそう言うけれど、内心は、すごいなって思ったんだ、なんか一生懸命で。
「あれ、警察に捕まりそうだよな」
「塾に遅れるって」
友達は将来をよく悲観する癖に、塾を嫌う、まぁ私だって好きじゃないけれど、将来の為には必要だし。
「俺、あの人が何処まで行くかついて行ってみるわ」
また始まった、友達のいつも塾から逃げる癖。
「塾はどうするの?」
「別に、行ったって行かなくたって一緒だよ、自分で何するのか決めなきゃさ。 それより俺は、ああいう人が何すんのか見てみたい」
言葉と同時に、友達が自転車を翻す、きっとあの男の人を追う気なんだ。
「待ってよっ、トオル!」
慌てて私も自転車に乗る。 塾は、私だって行きたくない。
不思議な光景だった。
いつも仕事で通る道、建設現場からの帰り道。 いつもはこんなことはない。
町の若者みたいな服装のいかつい男が、2メートルありそうなコンクリート壁から飛び降りてくるなんて。
泥棒だと思っちまったが、なんだかそうでもなさそうだぞ?
「おっちゃん、こっからどう行けば――県の駅までいけるか分かります?」
息を整えながら、話しかけてくる。 まったく、近頃の若いもんってのは。
「そこまで行くのは電車じゃねーと無理だぞ。 何で行く気だよ」
「走りで」
冗談にしか聞こえない。 言う方も、言われる方も。
「この先を行った大通りをまっすぐ行け。 そしたら、県内には入れるはずだ」
「おっちゃん、ありがとよ」
走り去る男を見ながら、笑ってしまう。
それでもあいつはきっと本気でやろうとしてる。 だから、すぐに走り出したんだ。
一秒も、ここで無駄にしない為に。
「まったく、近頃の若いもんは」
言いつつ笑う俺がいる。
体が風を切る。 俺は今まだ、走れてる。
俺はなんで走っているんだっけか。
理由なんて、そうする必要性なんて置いてきた。 いや、そもそも最初から必要性なんて必要としていなかった。
耳から入る音楽が、心が、生き方が、叫んでる
―――もう、動かないでいることにはウンザリだって―――
そう、俺は、それを伝えたくて走ってる。
汗が滴る、肺は今にも飛び出しそうだし、脚だって痛い。
日も暮れたし、水もだいぶ前に少し飲んだきりだ。
それでも、それでも俺は、県境を越えた。
最初に見たときは、何の感慨も沸かなかった。
港の綺麗な夜景が見える橋まで彼女と一緒に行った帰り、なんか走っている奴がいるって思っただけなんだ。
信号で止まる毎に、サイドミラーに姿が見えて、次第に気になった。
「ねぇねぇ、あの人なんでずっと走ってるのかな?」
助手席の彼女も気になっていたらしい。 夜景の綺麗さを語り合いたくても、あの汗だくで走っている男の存在がちらつく。
「さぁな。 こんな真夜中にあんなに汗だくになって何がしたいのか...きもちわりぃ...」
「でもずっと走ってるってなんか、すごいよね」
確かに本気かもしれない、だけど、そこまですることなのか? そこまで自分を犠牲にしてまでやることなのか?
あいつには、そうすることで報われるだけの報償があるというのか。
「馬鹿なだけだよ」
「うふふ、そうかもね。 でも私はそういう人好きだけど」
馬鹿正直にみっともなく、惨めに走っているだけなのに、なんで初めて見ただけのあいつの評価がそこまで高いんだ。
「じゃあ、俺と比べたら、どう?」
「それは、ヨシ君だよ? でも本気で、自分だけの目的に向かって前進してる人ってかっこいいじゃん、そういうの、尊敬って言えばいいのかな? 似てるけど、違う意味の好きってことかな」
俺だって、本気でお前を愛してるよ、だから、橋で指輪を渡そうとしたんだけどな。 まだ俺には本気が足りないのか?
青信号、ゆっくり、ゆっくりアクセルを踏み込んでゆく。 汗だくのあいつが、ゆっくりと、遠ざかっていく。
いいよ、なんだって投げ打つ覚悟で前へ進んでやる。 あいつにできることが、俺にできないわけがねぇ。
メールが来た。
金持ちのエリートとデートに行ってるらしい姉貴から。
一言の本文と、一枚の画像。
『ずーっと走ってる、陸上部だったら水でも持っていってあげなさい!』
その下に、結構ガタイのいい男の写真だ。 後ろから撮ったのか顔は見えない。
ジーンズにジャケットで長距離を走るなんてまともじゃない。
そして、俺がこいつを助ける理由が見当たらない。
「いるよな、たまにこういう奴」
ベッドに横になって天井を見上げる。 ふと頭にちらつく、昔の影、昔の自分が、写真の男に重なっていく。
一昨年の駅伝、苦杯を舐めたあの時、あの時負けた俺は、一人で戦っていた。
「ああもう、くそ」
携帯を手に取ったまま、ベッドから飛び起きた。
足が、動かない。
ひたすら走って走って、ここまで、後8キロまで来た。
足を引き摺るようにして、走る。 その歩みは歩くよりも遅い。
だが、どんなに遅くとも、走り続けるのをやめたら、もう1ミリ足りとも前へ進めない。
だから、俺は、限界を一歩一歩超えて走ってるってことなんだ。
「ほら、頑張れよ、おにーさんよ」
急に、頭から水をかけられた。
朝日が昇る。 そして、時間が立てばまたすぐにお日様が沈んで、一日が終わる。
毎日毎日同じことの繰り返し。
「仕事、行かなきゃ」
振り返る、いつ見ても質素な部屋。
テーブルに置かれたノートパソコンには、雑多に表示されたインターネットブラウザ。
そして、今は一人きりのチャットルーム。
「話ばっか聞いてもらっちゃってたし、嫌われちゃったかな」
彼は走って会いに来る、なんて言ってたけどできるわけがない。
赤の他人なのに、そんなことをするわけがないんだ。
パソコンを閉じる前に、もう一度だけ画面を覗いてみる。
『tak223...?』
見知らぬ人が、入っていた。
2行だけ、矢継ぎ早に文字が流れる。
『今、――駅に彼がいます』
『今度は、貴方が走る番でしょう?』
ため息、ため息しか出ない。 私は...。