1.教科書と出会い
青々と茂る木々に涼やかな風が吹いているこの小さな池のほとりは、いまだ春の香りを色濃く残している。
蝶々や小鳥らが野生の花と戯れている光景は、まるで風景画に入り込んだかのように幻想的な様相だ。
こんなに素敵な池ではあるのだが、不思議と周辺にはあまり人けがない。
その理由としては、ここがノキティア王国が管理するノリアノ魔法学校の敷地内であるからであろう。
自然を感じながらのんびりするにはちょうどいいが、いかんせん校舎と離れているせいでチャイムもうっすらとしか聞こえないのだ。
そのため、日々学業に勤しむここの学生はこの池になかなか寄り付くことはない。
そんな池のほとりに、珍しく一人の女学生が通りかかった。
彼女の名前はシェリル・アイビー。
先月ここの魔法学校に入学したピカピカの1年生だ。
なぜこんなところに彼女がいるのかというと、
「……ここ、…どこ?」
ただの迷子であった。
「猫を深追いしすぎちゃったな…」
そう。シェリルはただの方向音痴のポンコツだからここまで来たわけではない。
今日の授業が終わり、敷地内にある寮に戻ろうとする中で見慣れない猫を見かけ、そのまま気になって追いかけてしまったのだ。
衝動的なポンコツなのであった。
「結局猫は見失っちゃったし…」
池のほとりで立ち尽くすシェリルは、早速寮に戻ろうとポケットにしまっていた学校の地図を開く。
念のため今月まで地図を持ち歩くことを決めた自分を褒めたい気分だった。
しかしその地図を見ている視界の隅で、池の上に何かが浮かんでいるのを捉えた。
地図から顔を上げて池を見つめる。
「……本?………いや、教科書だ!」
どうやら何冊かの教科書が乱雑に池に捨てられているようだった。
しかも教科書の背表紙を見る限り、1年次のものである。
色も褪せていないことから、お下がりなどではなく、まだ新品同然であることも確認できた。
まだ1年次であるにもかかわらず、こんなところに教科書を捨てるなんて、よっぽど勉強が辛いのだろうと親切心で取ってしまったのが運の尽きだった。
「どれどれ。どこのクラスの何さんの教科書かな……」
杏色の目で名前を写した瞬間、息が止まった。
「シェリル・アイビー……」
滲みながらも、そうはっきりと書かれていた。
「……………え?………私、ノイローゼになって無意識にここに、捨てた?」
そう。池に浮かんでいた教科書はシェリル自身のものであった。
「……ククッ…。」
茫然と教科書を眺めていると、後ろの方から押し殺したような笑い声が聞こえた。
振り向くと、麦わら帽子をそのままかぶっているような明るい髪色の男子学生がお腹を抱えて震えていた。
「…誰、ですか?」
「…はー、笑った笑った。1学年Bクラスのカイ・オーブリーだ。それより君、まだ残ってる教科書たちが沈んでってるけど、大丈夫かい?」
カイ・オーブリーと名乗った男子学生は、新緑に溶け合いそうなほど鮮やかな緑の瞳に浮かぶ涙を拭いながら、池の方面を指さした。
「…え、やばい!」
シェリルは慌てて身を低くして精一杯手を伸ばすが、さわやかに吹く風が無情にも奥へ奥へと教科書を追い立てる。
「うっそ。これもう届かないじゃん…」
そう言うや否や、シェリルはすっくと立ちあがり、皺ひとつなく伸ばして履いていた黒い靴下を脱ぎ、制服のスカートをたくし上げて眩しいほどの白い足を晒しだした。
「っちょ、君、急にどうしたんだ!?」
シェリルの急な奇行にカイは目を瞬かせながらたじろいでいる。
しかし、目線はしっかりと彼女の足へと一直線である。
「どうしたもなにも、教科書を取らなきゃいけないんです!」
次の瞬間、シェリルは躊躇いなく右足を池へと差し出した。
「っへ、えぇ!?ちょ、ちょっと待って!!」
「きゃっ!」
カイが止めようとしたのもむなしく、差し出した足を急に戻すことはできずそのままシェリルは池に落ちていった。
「っぷは!っっ深い!!」
「ここ、水深最低でも5mはあるよ。知らなかったのかい?」
シェリルの行動に引いているのか、カイの左頬はヒクヒクと踊っている。
「知らなかった…。もう泳ぐしかないね」
それでもシェリルは気落ちすることなく、澄んだ池に溶け込むような藍色の髪を水面に綺麗になびかせながら、教科書の方向へ犬かきで進み始めた。
少女の可愛らしさと奇行のギャップの連続に、カイはもう笑うしかない。
「ほんっと面白すぎるだろ…」
そう言うと、カイはお腹を抱えて笑いながら腰元から杖を取り出し、それをくるっと宙で回した。
「へ?っおわ!」
するとシェリルの体が風で巻き上がり、芝生の上へと投げ出された。
「君、多分平民育ちなんだろうけど、さすがにお転婆が過ぎるよ」
まだお腹ひきつってるよ、とお腹を左手で押さえながらカイはシェリルに近づく。
「あの、教科書を取りたいんですけど」
「あぁ、教科書ね」
カイが再び杖を振るうと、今度は沈みかけていた教科書たちが池から舞い上がり、シェリルの目の前へとバサバサ落ちてきた。
「おわっ。…ありがとうございます………クシュンッ」
「…そういえばまだ濡れたままだったね」
そう言ってまたカイは杖を上から下へと振り落とした。
すると、ボフンッという音と共にシェリルと教科書が一瞬で乾いた。
「おぉー。凄い。本当にありがとうございます」
「いや、それより君、基礎魔法は使えないのかい?」
「ええと、オーブリー、様?のおっしゃる通り、私は平民育ちでして…基礎魔法自体を知ったのも入学後で…」
「なるほど訓練不足か」
「そうです…。というか、すみません。こんな見ず知らずの平民を助けていただいて。なんとお礼をすれば…」
少し冷静になったのか、シェリルは慌てて立ち上がり、貴族であるカイに対して軽く頭を下げる。
「いや、いい。面白いものが見れたからね」
「面白いもの?」
訳がわからないという風にシェリルは首を傾げている。
「君は分からなくていい」
「はぁ」
「ところで君、クラスと名前は?」
「1学年Aクラスのシェリル・アイビーと申します」
「…あぁ、君が噂のシェリルか」
いきなり名前呼び。チャラそうなお貴族様だ。
それよりも
「噂って何でしょうか?」
「今年入学してくるアイビーという平民出身の女子生徒は、攻撃型魔法使いの麒麟児だ!って一部の魔法使いから持て囃されてるらしいという噂、かな」
「…何それ」
「聞いたことなかった?」
「聞いたことないし、実際嘘を言いふらされていますよね?現に私は今まで魔法なんて使ったことないんですが」
「……いや、あながち嘘ではないと思うけどな」
「どうしてですか?」
「君、12歳頃に受けた魔力検査の数値は思えているかい?」
「えっと、…確か7000だったと思います…」
「ほら、事実じゃないか」
「え?みんなそれくらいの数値じゃないんですか?」
「今まで検知された最高数値は5000だった。そして平均は1000。君の数値は明らかに上回っているだろう?」
「オーブリー様は?」
「俺は1500」
「…でも、特別魔力数値が高いっていう実感がないです」
「そりゃ、今まで魔法を使ってこなかったからだろうね。これからある実技で実感すると思うよ」
「そう、ですかね…」
自信なさげにシェリルは俯く。
「…ま、めげないことだね。君のその数値に適うやつなんていないんだから気にせず堂々としていればいい」
「そうしたらいじめはなくなりますかね?」
「……まぁ、ひどくなる可能性が高いんじゃないかな?」
「えぇ!なんで!?」
「君が優秀であればあるほど、やっかみは大きくなるだろうからね」
「そんなぁ…」
「大丈夫。俺が守ってあげよう」
そう言って笑うカイの笑顔は、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように無垢だ。
「…へ!?い、いや。恐れ多すぎますって!」
「大丈夫。ちゃんと見返りは求めるから」
「逆に怖いんですけど…」
「大丈夫。金銭的なことは要求しないよ」
「…では、何を?」
シェリルは恐る恐るカイに尋ねる。
「君、壁城の砦はわかるかい?」
「はい。もちろん」
「君はこの学校を卒業後、その壁城の砦に魔法使いとして働くことを約束してほしい」
「………へ?」
「ということで、よろしくね」
一方的にそう言うと、カイはご機嫌な鼻歌を歌いながら去って行った。




