第三話
週末の昼、正門前のアスファルトは春の陽光に溶けて白く霞む。
カメラバッグを両手で抱え、コンクリートの隙間に咲く、名も知らぬ花を見ていた。
遠くから、胸を打つような低音の咆哮と共に、黒い車体が滑り込み、寄せられる。
熱を帯びた金属の匂い。
甘いガソリンの香りが、穂乃果の鼻腔を掠める。
美桜が、ヘルメットのシールドを跳ね上げる。
ヘルメットの隙間から覗く、彼女の目が細くなる。
美桜は、顎でタンデムシートを示す。
「……乗れる?」
穂乃果は頷くと、少しだけ距離を測った。
シートの高さ、足を掛ける位置を一つ一つ指でなぞる。
「んっ……しょ」
シートに手をかける――思ったより高い。
カメラバッグを前に抱え直して、どうにか跨った。
はいどうぞ、と差し出されたベージュのヘルメット。
傷もなく艶がある。ベルトはまだ硬い。
視界が狭まり、自分の呼気だけが内側に籠った。
「私の腰、しがみついてて」
言われた通りに、手を伸ばす。
触れる前、わずかに躊躇う。指先が浮いて落ちた。
どこを持てばいいか、わからないまま、腰に回す。
美桜の背中が、揺れる。
レザージャケットの冷たい感触。その奥にある、体温。
美桜は前を向いて、セルボタンを押す。
ギュルギュルと音を立て、エンジンが始動する。
胸を脈打つような唸り声を上げた。
前で指が組まれるのを視線の端で捉え、スロットルをゆっくりと回す。
足元で地面が遠のいた。
重さが――前へ滑る。
風が、正面から押し寄せた。
景色が剥がれ落ちるように、伸びていく。
信号も、街路樹も、すれ違う人も――。
肺の奥まで、風が流れ入る。
目を開けているだけで、視界が滲む。
レザーの香りを遮るように、排気ガスが混じり合う。
その臭気さえ不思議と、心地が良かった。
黒鉄の駿馬を操る彼女の背に、身を預けていた。
最初の信号で、機体が静かに沈み込む。
唸りを上げるアイドリングの音。
穂乃果は、ヘルメット越しに前の背中に顔を寄せた。
「……あの、美桜さんっ」
精一杯の声を絞り出す。
けれど、言葉は唇を離れた瞬間に、通り過ぎるトラックの風圧と、エンジンの振動に掻き消されて消えた。
美桜は、ただ真っ直ぐに、信号の先を見つめていた。
再び、世界が引き伸ばされる。
届かなかった言葉が、喉の奥にぬるい塊として残った。
目的地近くの路地裏のコインパーキング。
エンジンが吐息のような音を立てて止まった。
穂乃果は、地面に足を下ろす。
しばらく、足元だけが現実から遅れている感じがした。
ヘルメットを脱ぐと、春の湿った空気が一気に頬を撫でる。
「――涼しいっ」
美桜はスタンドを立て、乱れた髪を手櫛で整えながら振り返った。
「なんか言ってたけど、聞き取れなくてごめんね」
穂乃果は、まだ微かに痺れている指先を見つめた。
「……ううん。バイクって、気持ちいいんだね」
「そっか」
美桜は、ポケットにキーを押し込んだ。
「さ、行こっか」「……うんっ」
美桜は、歩を進める。
穂乃果は、まだ熱を纏ったシートを一瞥し、その後を追った。
背後で、黒鉄の駿馬が鼻を鳴らす音が聞こえた気がした――




