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第一話

学食に満ちたざわめきが、耳の奥に細く刺さる。

穂乃果は、窓際に向かう。端の席、鞄を置いた。

目の前には、景色だけ。


鞄から、萎れた表紙の本を取り出す。

カウンターの隅に立てかけて、席を離れた。

トレイを手に取り、列へ向かう。

戻ってきた穂乃果の視界に、窓際の席へ腰を下ろそうとする背中。


艶のある黒髪は、首筋をかすめて、揺れる。

光を返すピアスが、耳にひとつ。


椅子に手がかかる――穂乃果は、声を上げた。

「あ、あの……すみませんっ」

彼女の手が止まる。立てかけられた本と、穂乃果の顔を交互に見た。

彼女の視線が、一瞬だけ本の表紙に落ちて、剥がれる。

「あ、ごめん。空いてるかと……」

柔らかい音が耳に触れた。

「い、いえ……こちらこそ、すみません」

どちらからともなく、視線が途切れる。

彼女は軽く会釈をしてその場を後にする。

穂乃果は、『はじめてのせいざ』と書かれた本を抱え、小さくなっていく背中を目で追っていた。


数日が過ぎた。

講義の合間、静寂を求めて、穂乃果は再びあの端席へと足を向ける。けれど、今度は先客がいた。


飲み口にストローの刺さった、オレンジジュースの紙パック。容器の足元には、結露した雫。

木目が露を吸い込んでいた。それを見ていると、背後から小気味よい足音が近づく。

トレイに総菜パンを載せた、あの時の黒髪。

目が合った。彼女の睫毛が一瞬、止まる。

「……あ」

どちらが先だったか、分からない。

視線がテーブルの上のパックへ落ちて、穂乃果へ戻る。

「――使います?」と彼女は、責めるでも笑うでもなく呟く。

沈黙が、一拍。そして、再び視線が途切れた。

穂乃果は、会釈ともつかない曖昧な動きで首を下げ、二つ隣の空席へと歩を進めた。

背後で、紙パックの底を啜る、小さくて乾いた音が一度だけ響いた。


雨が降り出したのは、午後の講義が終わった頃。

予報にはなかった。

雨はアスファルトを、慈悲もなく叩いていた。


講義棟の軒下――自販機が主張する唸り。

そして、激しくなる雨音だけ。

穂乃果は、胸元に抱えた本を、一段と深く腕を回した。

軒の端から、雨粒が糸を引くように落ちていく。


小さく息を吐くと、背後から、より深いため息。

「……はあ、バイクで来ちゃったじゃん」

先客がいた――聞いた事のある、柔らかい声。


穂乃果は、視線を足元から徐々に上げていく。

黒いスキニー。脚の線が、すっと伸びる。

そして、黒髪の影。


彼女は、雨が跳ねる白い飛沫の向こうを眺めている。

その傍らには、停められた大きな二輪車。


「あっ」

「……あ」


――三度目の、沈黙。

彼女の顔が、二輪車に向いた。

風が吹き込み、白い飛沫は、穂乃果の靴の先をじわりと濡らす。


「その本」

不意に、湿った声が降ってきた。

視線だけを向け、穂乃果の腕の中を示した。

「……好きなんだ」


「え……あ、うん。そう」と、ぽつりと音が落ちる。

本を少しだけ胸に引き寄せた。

「あ、ええと。動けなくなっちゃいましたね、雨」

穂乃果は、小さな苦笑いを浮かべた。


彼女は振り向くと、穂乃果の足元を見た。

「濡れるよ? そこ」

と小さく微笑んで、より雨の届かない自販機横のスペースを、小さく手招きした。

「わわっ」と慌てて彼女のすぐ隣へと滑り込む。

肩が触れそうな距離。彼女はクスクスと笑いながら、穂乃果の腕の中にある本を、静かに視界に留めていた。


しとしとと降り続く雨の音。

彼女の漏れた息の様な笑い声が、コンクリートの軒下に反響する。


柔らかい沈黙の中で、彼女が言った。

 「――美桜、あたしの名前」


穂乃果は少し遅れて、「あ」と小さく音を吐く。

続けて何かを言おうとした時。

「その本、何書いてるの?」と気負わない問いが浮かんだ。

穂乃果は一瞬、本を強く抱いてから、表紙を美桜へ向けた。

大学生が読むにはあまりに幼い、ひらがなのタイトル。

色褪せた表紙には、丸っこい星のイラスト。

「……はじめてのせいざ、っていうんです」

美桜は、何も言わずにその表紙をじっと見つめると。

少し身を乗り出した。


「これ、私が幼稚園のときに買ってもらったもので……」

穂乃果は、夢中で頁を開いた。

何度も開かれた頁。背表紙の糊が割れ、自然に指が止まる場所。

夏の夜空。

中心を分かつように描かれた、虹の天の川。その両岸に、『銀色のおりひめぼし』と、『白いひこぼし』が笑っている。

美桜は、頁の中の『あまのがわ』の五文字を視線が追う。


「……分かるー。見てみたいよね。あたし、本物は見たことないわ。そういえば」


穂乃果の喉の奥に、ふわりと何かが浮く。

美桜の視線は、雨に煙る灰色の空へ向かっていた。


「わ、私も――」

「ん。見れるといいね」

美桜が、視線だけを向ける。


穂乃果の指先が一瞬固く握られる。

「あ、あの。穂乃果……です」

と消え入るような、震えた声が出た。


一拍置いて、美桜が笑い、「ん、よろしく」とだけ答えた。

その笑顔に、穂乃果の胸の奥で、何かが小さく弾けた。


ふたりの声を遮っていたアスファルトの音が、止む。

軒の端から落ちていた水の糸が、細くなり、途切れた。

湿った空気だけを、まだそこに残して。


「あ、止んだ」

美桜が空を一瞥して鞄を持ち直した。


「……じゃあ、あたし行くわ。あの子、拭かなきゃだし」

美桜は軽く片手を挙げると、濡れたアスファルトの上を、躊躇いのない足取りで歩き出した。


穂乃果は、開かれた頁を見ていた。


「じゃあね」と遠くで美桜の声。

ヘルメットを手に取って、跨って、エンジンをかける。

ト……トクッ、と脈打つ様な低い音が、濡れた空気を揺らした。


穂乃果は、何かを言おうとして飲み込んだ。

雨粒を湛えた軒下から、走り去る背中を、ただ眺めていた。二輪車が、角を曲がって見えなくなるまで。


ふと、穂乃果が空を見上げると、少し明るくなっていた。


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