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金国の工作員らしき男は、お嬢の鋭い指摘にぴくりと肩を揺らしましたが、燕青がその肩を軽く叩いて制しました。
「よせよ、お嬢を怖がらせるな。……いや、怖がってるのは俺の方か」
苦笑いしながら燕青おじさんが差し出したのは、しわくちゃになった一通の書状。
そこには金国の公用文字ではなく、いびつで震えるような漢字がいくつか並んでいました。
鉄の男が流す、墨の涙
「……これ、何?」
お嬢は眉をひそめ、竹べらでその紙を広げました。
工作員と呼ばれた男は、屈強な体躯を小さく丸め、消え入りそうな声で言いました。
「……娘への、……嫁入り祝いの言葉だ」
お嬢の手が、ぴたりと止まります。
「は?」
「この男、名は兀突。金国の密偵として十年以上この臨安に潜伏していたんだが、故郷に残してきた娘が来月結婚するらしい。だが、今の立場じゃ手紙一つ送れない。それに、見ての通りこいつは剣の振り方は知っていても、筆の持ち方はさっぱりでね」
燕青おじさんは、いつになく真面目な顔で続けました。
「金国の暗号文を偽装しつつ、その裏に『父親としての祝辞』を忍ばせてほしい。……そんな芸当、この臨安でできるのは、盧家の血を引く天才代筆屋しかいない」
お嬢の独り言
「……呆れた、国家反逆の手助けをしろって言うのかと思えば、今度は敵国のスパイの親馬鹿に付き合えだなんて。
燕青おじさん。あんた、自分が家に居つかなかった罪滅ぼしを、こんなところで他人の親父を使ってしてるんじゃないでしょうね。」
『……お嬢、頼む。こいつの娘は、父親が死んだと思ってる。せめて、遠くの地で幸せを願っている誰かがいることだけでも、伝えてやりたいんだ』
おじさんの目が、ほんの一瞬、私を真っ直ぐに射抜きました。
ずるい人。
そんな目をされたら、代筆料を吊り上げることも、追い返すこともできなくなるじゃない。
お嬢は、深くため息をつき、一番質の良い宣紙を取り出しました。
『いいわ。ただし、燕青おじさん。あんたのツケに上乗せしとくから。……兀突さん、と言ったかしら。娘さんの名前と、一番伝えたかった思い出を話しなさい。私が世界で一番幸せな嘘を書いてあげる』
墨の香りが、部屋に満ちる。
金国と南宋。敵と味方。
そんな境界線が、私の筆先で溶けていく。
おじさんは、満足そうに窓の外を眺めている。
その背中が、今日だけはほんの少し、父親らしく見えたのが――何より癪に障るんです」
この手紙を書き終えたお嬢は、兀突に一言。
「一日でも早く顔を見せてあげなさい、それが、一番の贈り物よ。」
兀突は、銀・銅銭の混じった袋を置いて素早く出ていった。
燕青は、笑顔で見送る。




