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「……そうね、燕青おじさんに『帰ってきたら店がなくなってました』なんて報告、絶対にできないわ」
私は刷り上がったばかりの陸游様の校正紙をじっと見つめ、深く息を吐きました。
いくら公孫勝おじ様にお墨付きをもらったとはいえ、今の「翊華印盤」は政府御用達の看板を背負ったばかり。表立って反戦や北土奪還の詩集を出せば、趙高官のような連中に足元を掬われるのは目に見えています。
私は小大さんと文さんを呼び寄せ、声を潜めて告げました。
墨に潜む影、隠密出版の掟
「いい? 今日からこの仕事は『隠密行動』よ。印房の名は一切出さない。奥付には書店の屋号だけを載せること。資材の仕入れもすべて書店経由。私たちの痕跡は、この墨の香りの奥に隠し通すわよ」
小大さんは、いつも以上に鋭く研ぎ澄まされた彫刻刀を動かしながら、低く応えました。
「……承知した。版木の木っ端一枚、外には出さねぇ。彫り終わった版木も、刷る時以外は床下に隠しておく」
文さんも、蕭譲譲りの慎重さで頷きます。
「師匠、念には念を入れましょう。書体も私の癖を混ぜ、特定の筆跡から辿られないよう『合成体』にします。万が一調べが入っても、どこの馬の骨が書いたか分からぬように」
お嬢の独り言
「……苦肉の策。
けれど、これこそが梁山泊から受け継がれた『闇の流儀』かもしれない。
表では皇帝陛下の御前代筆人として、雅な書をしたためる。
けれど裏では、民の魂を揺さぶる言葉を、名もなき版木に刻みつける。
おじさん、見てて。
あんたがいない間、私はこの店を、ただの印刷所から『不落の城』に変えてみせるわ。
『小大さん、刷り師には燕青おじさんの弟子の、口の堅い連中だけを使いなさい。文さん、書店主には、この本が“禁書”扱いされる前の、ほんの数日のうちに売り切るよう伝えて』
作業は深夜、街が寝静まった頃に行われました。
窓を厚い布で覆い、灯火を最小限に絞った工房で、陸游様の詩が次々と紙に写し取られていく。
套印(多色刷り)で表現した『北の雪』は、あまりに冷たく、あまりに美しい。
『……できたわ。これが、私たちの静かなる宣戦布告よ』
出来上がった数百冊の詩集は、夜明け前に書店主の荷車に積まれ、闇に紛れて運ばれていきました。
その行先は、臨安の知識人や、かつての故郷を夢見る老人たちの手元。
私の胸元の和田玉が、暗闇の中で一瞬、鋭い光を放ちました。
姿は見せなくとも、この文字が誰かの心に火を灯せば、それは私たちの勝利。
『さあ、文さん。証拠の墨を綺麗に拭いて。明日からはまた、何食わぬ顔で貴族たちのインタビュー記事を書くわよ』」




