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「……陸游様の詩集?」
燕青おじさんが海へ向かって数日。店を守る私の元へ、馴染みの書店主が震える手で一通の企画書を持ち込んできました。
陸游様。今や南宋を代表する大詩人でありながら、その胸のうちは常に、失われた故郷・北宋への悲痛なまでの思慕と、奪還への情熱で燃え盛っている方。
「お嬢、今この都で陸游様の詩集を出すのは、火薬庫の上で宴会を開くようなものですぜ。朝廷の和睦派を刺激すれば、翊華印盤ごと消されかねない……。だが、民衆は飢えてるんだ。心の底で、あの誇り高き北の空を求めている」
書店主の言葉に、私は深く考え込んでしまいました。
私の文字、小大さんの版木、文さんの構成。私たちの技術を注げば、それは単なる詩集を超え、民の心を奮い立たせる「檄文」になってしまう。
放翁の嘆きと、入雲龍の助言
お嬢の独り言
「……北宋。
おじい様たちが駆け抜け、そして失われた、私たちの根源。
陸游様の『示児』を読めば、その無念が筆先から血を流すように伝わってくる。
けれど、今の私にその重みを背負う覚悟があるかしら。
私は気づけば、いつものように店の隅、薄暗い席を見つめていました。
そこには、陽炎のように揺らめきながら、松の杖を抱えた公孫勝おじ様が座っていました。
『……迷っていますね、盧家の星の子よ。文字は刃。研ぎ澄ませば人を救うが、振り回せば己を斬る』
『公孫勝おじ様……。陸游様の詩を、今の臨安に解き放つべきだと思いますか? 燕青おじさんがいない今、私が独断で決めていいことなの?』
公孫勝おじ様は、静かに羽扇を動かしました。
『燕青が行ったのは、海。それは“外”へと繋がる道。ならばお前が成すべきは、民の“内”にある魂を呼び覚ますこと。陸游の詩には、天の理さえも動かす一途な祈りが宿っている』
おじ様は、空中に指で一筋の光を描きました。
『……套印(多色刷り)を使いなさい。ただし、派手な彩りではない。雪の中に咲く一輪の梅、凍てつく大河の深い青。視覚からではなく、心の奥底に沈殿している“記憶の色”を再現するのです。それができれば、その詩集は朝廷への反逆ではなく、この国が持つべき“背骨”となるでしょう』
お嬢の独り言
『……記憶の色。
分かったわ。ただの美しい本にはしない。
読んだ者が、北の地を一度も見たことがなくても、その冷たい風を感じ、失ったものの大きさに涙するような……。
そんな、魂を震わせる一冊を仕上げてみせる』
私は、小大さんに梨の木の版木を最も硬い部分から切り出すよう命じ、文さんには陸游様の膨大な詩の中から、今の南宋に最も必要な『不屈の心』を説く五枚を選び抜かせました。
『文さん、文字の書体は、顔真卿の剛毅さを基調に、私の震えを少しだけ混ぜるわよ。小大さん、雪の白さは、紙の地色を活かして、周囲を深い藍で沈めなさい』
燕青おじさん。
あんたが海の向こうで新しい羅針盤を届けている間、私はこの臨安で、人々の心の羅針盤を北へと向けてみせるわ。
『公孫勝おじ様、見てて。……これが、代筆屋としての私の“戦”よ』」
陸游詩集『剣南詩稿』(選抜版)
表紙: 吹雪の中の寒梅(套印による五重摺り)
書体: 悲憤と誇りを込めた、太く力強い楷書
仕掛け: 特定のページに、北宋の古都・開封の地図を薄く背景として刷り込む。




