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「……ちょっと、小大さん、文さん! ぼんやりしてる暇はないわよ。『翊華印盤』の巨大な版木が月一度の邸報だけで眠ってるなんて、臨安の商人が放っておくはずないじゃない」
私は机に山積みになった書店の主人たちからの嘆願書を叩きました。
邸報の発行が終わった後の二週間、この大規模な印刷設備は宝の持ち腐れ。そこに目をつけた目ざとい書店たちが、「ぜひうちの製本を!」と、これまでにない大掛かりな企画を持ち込んできたのです。
その目玉は、宮廷画家たちが描くような、写実的で気品あふれる**「院体画」**の手本本。そして、なんとあの公孫勝おじ様の仲介で、今はまだその真価が世に広く知られていない画僧・**牧谿**のインタビュー記事まで載せた、前代未聞の美術本です。
水墨の深淵と、翊華印盤の飛躍
お嬢の独り言
「……牧谿様。
公孫勝おじ様が連れてきたその方は、まるで霧の中から現れたような、不思議な静けさを纏ったお坊様。
彼の描く水墨画は、これまでの煌びやかな院体画とは正反対。
湿った空気、猿の鳴き声、柿の一つ……。
ただの墨の濃淡の中に、宇宙の理がそのまま写し取られているみたい。
『蓮華、この方の“静寂”を、お前の文字で汚さずに伝えられるかな?』
公孫勝おじ様が、悪戯っぽく微笑みながら言いました。
『……やってみせるわよ。文字を書くのも、時には静寂の一部にならなきゃいけないってことくらい、代筆屋として知っているわ』
私は、牧谿様が語る『筆を置く瞬間の、無の境地』を、あえてかすれた細い書体で、行間を広く取って書き記しました。
読んだ人が、その余白から風の音を感じるような、そんなレイアウト。
『小大さん。この水墨の“ぼかし”を、版木で再現できる? 線を彫るんじゃなくて、点の密度で、墨の滲みを表現するのよ』
小大さんは、かつてない難題に顔をしかめましたが、鉄筆を握る手は震えていました。
『……やってやる。俺の親父が追い求めた“極限の細工”を、この梨の木に刻み込んでやるよ。お嬢、最高の紙を用意しておけ』
文さんは、院体画の模範的な技法を蕭譲譲りの几帳面さで解説し、その対比として牧谿様の革新的な芸術性を際立たせる構成を作り上げました。
数日後。
出来上がったのは、ただの手本本ではありません。
宮廷の格式(院体画)と、禅の深淵(牧谿)が、私とおじさんたちの手によって融合した、臨安初の『芸術大鑑』。
『おじさん! 書店の行列、前の邸報の時より凄いわよ! 貴族だけじゃなく、若い画学生たちが血眼になって買い求めてるわ』
燕青おじさんは、店の軒先でその本をめくりながら、満足そうに頷きました。
『お嬢、これだよ。邸報で“権力”を掴み、この本で“文化”を掴む。翊華印盤は、もはや単なる印刷所じゃねぇ。臨安の価値観そのものを創り出す場所になったな』
私たちは、顧の店から届いた差し入れの蒸し鶏を囲みながら、墨まみれの手で笑い合いました。
私の胸元の和田玉が、牧谿様が描いた水墨の龍のように、青白く静かな光を放っています。




