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「……ちょっと、燕青おじさん。どこまで歩かせる気?
版木の削りカスと墨の匂いで頭がくらくらしてるんだから、早く座らせてちょうだい」
私は、腰に鉄筆をぶら下げたままの金小大さんと一緒に、おじさんの後を歩いていました。
連れてこられたのは、臨安の運河から一本裏に入った、知る人ぞ知る趣のある居酒屋。
軒先には「顧」の一文字が書かれた質素な暖簾。
そこから漂ってくるのは、食欲を暴力的に刺激する、香ばしくて甘い鶏の脂の匂いでした。
百年の秘伝、黄金の蒸し鶏
「いらっしゃい! ……おや、燕青の旦那。今日もお綺麗な連れを連れて」
威勢のいい声で迎えてくれたのは、がっしりとした体格の女将さんと、その隣で器用に包丁を振るうご主人。
かつて梁山泊で「母大虫」と恐れられた**顧大嫂**と、その夫・孫新。
二人が戦火を逃れ、密かに守り抜いた味を継ぐ、そのお孫さんたちの店でした。
「お嬢、小大。ここの『蒸し鶏』を食わなきゃ、臨安に住んでる甲斐がないぜ」
燕青おじさんがそう言って注文すると、程なくして運ばれてきたのは、琥珀色の皮が艶やかに光る一皿。
お嬢の独り言
「……何、これ。
お箸を当てただけで、肉がホロリとほどけていく。
口に入れれば、特製の葱生姜ダレと、地鶏の旨味が爆発するように広がって……。
『……美味しい。おじさん、これ、本当に美味しいわ』
さっきまで無愛想だった小大さんも、一口食べた瞬間に目を見開いて、無言で箸を動かしています。
代筆だの版木だの、頭を使いすぎて乾ききった身体に、この滋味深い脂が染み渡っていく。
『だろう? 顧のおばさんの秘伝さ。昔、梁山泊で俺たちが腹を空かせてた時に、よく作ってくれた味を再現してるんだとよ』
燕青おじさんは、紹興酒を煽りながら、懐かしそうに目を細めていました。
女将さんは、私の食べっぷりを見て満足げに腰を叩きます。
『お嬢ちゃん、気に入ったかい? 盧家の姫さんにそう言ってもらえるなら、じいさんたちも草葉の陰で喜ぶわ』
気がつけば、私はお代わりを頼んでいました。
代筆屋としての矜持も、お嬢様としての品位も、この蒸し鶏の前では二の次。
『おじさん。……明日からの仕事、代筆料の代わりにここで三食分、ツケを回しておいていいかしら?』
『ははは! 燕青の旦那、このお嬢さんは将来、俺たちより酒場の主導権を握りそうだねぇ!』
大笑いする店主の声と、立ち上る湯気。
36群星。私たちは夜の闇を駆ける者たちだけれど、こうして守り抜かれた「日常の味」があるからこそ、戦い続けられるのかもしれない。
私は最後の一片を口に運びながら、心の中で決めました。
明日から、この店は私の『特等席』。
仕事で行き詰まったら、ここに来て、この蒸し鶏の香りに包まれながら新しい計略を練ることにしましょう。
その後の店にて
「小大さん、そんなに急いで食べると喉に詰まらせるわよ」
「……お嬢こそ、さっきから骨までしゃぶってるじゃないか」
「……うるさいわね。これは鑑定の一部よ!」
そんな二人のやり取りを、燕青おじさんは目を細めて見守っています。
南宋の夜は更けていきますが、私たちの絆は、この美味しい蒸し鶏のタレのように、より深く、濃厚に絡み合っていくのでした。




