第三話「賄いとしての初日」
「掃除だけして、余計なことはするな」
魔王城での初日の朝は、最恐の魔王様の、そんな突き放すような言葉で幕を開けた。
けれど、私にとってそれは——救いだった。
誰かに「いてもいい」と言われた。
たとえ条件付きであっても、それは神殿の十年間で一度も得られなかった言葉だ。
私はさっそく手渡された合鍵を握りしめ、東棟の長い廊下へと向かった。
「まずは、ここからですね」
バケツに水を汲み、使い古された雑巾を浸す。
ギュッと絞る指先に、気づけば自然と力が入っていた。
神殿での十年間、私は常に「申し訳なく存在している」人間だった。
奇跡を起こす聖女でもなく、誰かを癒す巫女でもなく。
ただひたすらに、朝から晩まで廊下を磨き続けた。
でも——私は、掃除が好きだった。
磨くたびに、くもっていた石が輝きを取り戻す。
誰も見ていなくても、誰にも褒められなくても。
その変化は、確かに「在る」のだ。
「えいっ」
私は床に膝をつき、力いっぱい雑巾を走らせた。
キュッ、キュッ、キュッ。
埃に覆われた黒大理石が、磨かれるたびに月光のような輝きを帯びてくる。
やがて廊下全体が、まるで鏡のように周囲の炎を映し始めた。
不意に、視界の端に淡い光がゆらめいた。
【 浄化スキルが発動しました 】
【 東棟廊下の瘴気:除去率 100% 】
「……?」
また、あの不思議な文字。
溜息一つついて首を振り、次の箇所に視線を移す。
梯子を持ち出して、燭台の彫刻の隙間、窓枠の縁、シャンデリアの飾り。
夢中になって磨いていると、廊下の奥から、ガシャンと大きな音がした。
「……何だ、この空気は」
振り返ると、巨大な槍を床に落とし、壁に手をついて硬直している人物がいた。
昨夜、私を捕らえたゾルク様だ。
鋼の鎧をまとったその巨体が、小刻みに震えている。
「ゾルク様? どうかされましたか?」
「お前……一体……何をした……」
低い声が、わずかに上ずっている。
「お掃除を。あまりに埃が積もっていたので、つい夢中になってしまいました。ご迷惑でしたか?」
「……瘴気が、消えている」
彼はぽつりと言った。
魔界を満たす瘴気 —— 人間には毒にも等しいそれが、この廊下だけぽっかりと、消えていた。
「私はただ磨いただけなんですが……もしかして、強く擦りすぎてしまいましたか?」
「……いや。そういう話ではない」
ゾルク様はゆっくりと膝をつき、そのまま両手を床につけた。
大の男が、ゆっくりと額を床に近づけていく。
「ゾルク様!? 大丈夫ですか!?」
「……数百年ぶりに……深い呼吸ができた……」
彼の声には、かすかな震えが混じっていた。
伏せた顔の前に、ぽたりと丸い染みが落ちる。
泣いている。
不死の魔族の大将が、磨かれた廊下の前で声を殺して泣いている。
私は何も言えなかった。
ただ、バケツを持ちなおして、次の区画へと静かに向き直した。
泣きたい時は、好きなだけ泣けばいい。
ここを、もう少しだけ。綺麗にしておいてあげよう。
私は次の汚れに雑巾を当てながら、心の中でひとつ、決めた。
この城を——もっと、居心地のいい場所にしよう。
第三話 完
お読みいただき、ありがとうございます!
ゾルク様の涙のシーン、いかがでしたでしょうか。
武骨な魔族の大将が声を殺して泣く姿を書きながら、作者自身もちょっとグッときてしまいました……。
ルナは気づいていないのですが、彼女の「掃除」はただの掃除ではないのです。
次回はいよいよ、厨房へと進出するルナが登場します!
良ければブックマーク・評価をよろしくお願いします✨




