第三節 甲府盆地の「肉挽き機」 - 東海道戦線の崩壊と手仕舞いの始まり(1)
東海道戦線の崩壊と「手仕舞い」の始まり
1868年2月下旬、遠州灘における榎本艦隊の完勝によって「海の回廊」が確保されたことは、徳川家という巨大なコングロマリットが、その事業の本拠地を日本列島から南山へと移転するための物流ルート、すなわち「退路」が確立されたことを意味していた。
しかし、退路があることと、実際に逃げられることとは同義ではない。横浜港と横須賀港では、小栗忠順の指揮下で、国の全財産とも言うべき工作機械、金塊、そして人材を船に詰め込む作業が24時間体制で進められていたが、その作業完了までには、どんなに楽観的に見積もってもあと3ヶ月、現実的には半年という時間が必要であった。
この「時間」という最も高価な資源を捻出するために、幕府陸軍首脳部は、東海道および中山道における防衛戦略を、従来の「領域防衛」から、冷徹な「戦略的遅滞(Strategic Delay)」へと大転換させた。
商売の世界に「手仕舞い(Tejimai)」という言葉がある。不採算部門を閉鎖し、資産を売却し、債権者に頭を下げて(あるいは居留守を使って)撤退戦を行う、あのほろ苦いプロセスだ。1868年の春、関東平野の西端で繰り広げられたのは、まさに日本史上最大規模の、そして最も血なまぐさい「手仕舞い」の儀式であった。
第三節 甲府盆地の「肉挽き機」
1. 箱根の放棄と「誘導」された進撃路
古来、関東平野を守る軍事ドクトリンにおいて、「箱根の嶮」は絶対不可侵の聖域とされてきた。豊臣秀吉の小田原攻め以来、東海道の要衝であるこのカルデラ地形を制する者が、関東の喉元を握ると信じられてきたからだ。 しかし、1868年(慶応4年)2月下旬、迫りくる西国連合軍(東征軍)の主力部隊に対し、徳川殿軍司令松平容保と、フランス軍事顧問団長シャノワーヌ少佐が下した決断は、当時の常識を嘲笑うかのようなパラダイムシフトであった。彼らは、この天然の要塞に立て籠もることを拒否し、あえてその門戸を全開にしたのである。
「箱根で止めるな。通せ。小田原城も、必要とあらば明け渡せ」この命令が江戸城から早馬(あるいは敷設されたばかりの軍用電信)でもたらされた時、現地の小田原藩主・大久保忠礼や、箱根関所を守備していた幕府歩兵隊の指揮官たちが、耳を疑い、あるいは憤死せんばかりに激昂したことは想像に難くない。 彼らにとって、領土とは命そのものであり、敵に背を向けることは武士の恥辱であった。だが、勝海舟の脳内にある戦略地図において、「領土」という変数の係数は、限りなくゼロに近づいていた。彼が守るべき変数はただ一つ、「時間」のみであった。
なぜ、天下の険を放棄したのか。その理由は、流体力学における整流の原理に似ている。もし、幕府軍が箱根の山中で全力を挙げて徹底抗戦を行い、東征軍の進撃を完全に阻止してしまったらどうなるか。 行き場を失った西国の奔流は、滞留し、やがて溢れ出し、予測不能なルート -例えば、より北方の碓氷峠や、あるいは伊豆半島の海岸線など -へ分散して浸透を始めるだろう。
敵が分散すれば、守る側も戦力を分散させねばならない。それは、横浜港での移送作業に集中すべき人的リソースを浪費する愚策である。勝の狙いは、敵を止めることではない。敵の進路を限定し、その進撃速度をコントロールすることにあった。 「敵に『勝てる』と思わせろ。勝利という甘い蜜を東海道という一本のチューブに垂らし、彼らをそこへ殺到させろ」つまり、箱根の放棄は、敗走の結果ではなく、東征軍という巨大な奔流を、幕府軍が用意した特定の「処理施設」へと誘導するための、高度な「交通整理(Traffic Control)」だったのである。
2月25日、東征軍の先鋒部隊は、ほとんど無抵抗の箱根峠を越え、眼下に広がる相模灘と小田原の城下町を見て歓声を上げた。「見ろ、東夷どもは恐れをなして逃げ散ったぞ!」彼らは勝利に酔いしれた。難所を無傷で越えられたという事実は、彼らに「徳川はすでに崩壊している」という致命的な誤認を植え付けた。だが、彼らが意気揚々と小田原へ入城した時、そこで目にしたのは奇妙な光景であった。城は空っぽだった。兵糧はおろか、畳一枚、障子一枚に至るまで綺麗に持ち去られ、井戸には砂が詰められ、橋という橋は、彼らが到着する数時間前に工兵隊によって爆破されていた。そこにあったのは「パニックによる敗走の跡」ではなく、事務的かつ徹底的に行われた「清掃活動(Cleansing)」の跡であった。
幕府軍は逃げたのではない。彼らは、フランス仕込みの教範通り、整然と「後退行動」を行っていたのである。 殿を務める伝習隊の一部は、早川の対岸や酒匂川の堤防に伏せ、追撃してくる東征軍に対して、有効射程ギリギリからの正確な斉射を浴びせた。
彼らは敵を全滅させるような深入りはせず、敵が展開して反撃の態勢を整えると、煙幕を張って素早く後退する。そして数キロ先で再び待ち構え、また一撃を加える。
この執拗なヒット・アンド・アウェイは、東征軍の兵士たちに物理的な損害以上に、深刻な精神的疲労を強いた。
「敵はどこにいるのだ? 逃げているのか、待ち伏せているのか?」勝利の行進だと思っていた東海道の旅は、いつしか見えない敵に神経を削られる、陰鬱な行軍へと変貌していった。
さらに、この「誘導」には、もう一つの、より悪意に満ちた目的があった。 東征軍主力の目を、派手な撤退劇が行われている東海道へ釘付けにすることで、彼らの別動隊である板垣退助率いる東山道軍を、手薄になった(と見せかけた)甲州街道へと誘い込むことである。「江戸へ入るには、箱根を抜けるより、甲州から八王子へ抜ける方が早いぞ」幕府軍が流した偽情報、あるいは意図的な戦力の空白は、功名心に逸る板垣の部隊を、磁石のように吸い寄せた。彼らは知らなかった。その「近道」の先にある甲府盆地こそが、幕府軍が全精力を傾けて構築した、出口のない「屠殺場」であることを。
横浜の英国公使館付き武官は、この時期の戦況図を見て、本国への報告書にこう記している。
「徳川の軍隊は、まるで牧羊犬のように振る舞っている。彼らは吠え、噛みつき、羊(新政府軍)を特定の柵の中へと追い込んでいる。羊たちは、自分たちが主導権を握っていると信じているが、実際に彼らが歩かされているのは、屠殺場のベルトコンベアの上である」箱根の放棄は、敗北の始まりではない。それは、日本列島という巨大な劇場で上演される、壮大な「時間稼ぎ」という演目の、計算され尽くした第一幕の幕開けに過ぎなかったのである。
2. 甲府盆地の地政学的価値と「栓」としての新選組
軍事地理学の観点から関東平野を俯瞰したとき、甲府盆地という地形が持つ意味は、単なる「ブドウの産地」や「武田信玄の故地」という牧歌的なものでは済まされない。 南側に聳える箱根・足柄の山塊が、東海道という「表玄関」を守る堅固な城壁であるとするならば、甲州街道を通じて武蔵国・八王子へと直結する甲府盆地は、防御側の脇腹に突き立てられた鋭利なナイフ、あるいは首都圏の心臓部へと通じる勝手口の鍵穴に他ならない。
1868年(慶応4年)3月、新政府軍の別動隊である東山道軍(指揮官:板垣退助)が、中山道から分岐して甲州へ向かったという情報は、江戸城の作戦司令室に激震を走らせた。 もし、彼らが甲府盆地を無傷で通過し、小仏峠を越えて関東平野へ雪崩れ込んだらどうなるか。彼らは八王子を蹂躙し、そこから南東へ進路を取れば、わずか数日の行軍で、現在「国家大脱出」の心臓部として24時間フル稼働している横浜港および横須賀港の背後を突くことが可能となる。
港が艦砲射撃の射程に入れば、あるいは鉄道(この世界線では敷設工事中あるいは仮設軌道)や輸送路が遮断されれば、小栗忠順が心血を注いでいる移送計画は即座に頓挫する。旋盤も、金塊も、そして何より数十万の移民たちも、逃げ場を失って袋の鼠となるだろう。つまり、甲府盆地という局地的な空間の支配権は、南山共和国という未だ見ぬ国家が「難産で死ぬか、五体満足で生まれるか」を決定づける、戦略上の「頸動脈」だったのである。
この致命的なバイタル・エリアを守るために、勝海舟とフランス軍事顧問団が選んだ戦術は、積極的な迎撃でもなければ、強固な要塞戦でもなかった。彼らが求めたのは、敵の進軍という物理的なベクトルを、狭隘な地形を利用して強制的に停止させ、そのエネルギーを熱量(出血)として空費させるための、人間を用いた「生きた栓」であった。
そして、その残酷極まりない任務、すなわち「全員死んでも構わないから、時計の針を止めろ」というブラック企業も裸足で逃げ出すような命令を受諾したのが、近藤勇率いる「甲陽鎮撫隊(旧新選組)」である。
歴史の教科書には、彼らが「武士の意地を見せるために甲州へ向かった」と美談調で記されることが多い。しかし、当時の彼らの装備と編成を見れば、それが単なる情緒的な死出の旅ではなかったことは明白である。鳥羽・伏見の市街戦で近代兵器による殺戮の文法を、骨の髄まで叩き込まれた彼らは、もはや京の町を闊歩していた頃の「剣客集団」ではなかった。
浅葱色のダンダラ羽織は脱ぎ捨てられ、代わりにフランス軍払い下げの黒いフロックコートや、機能的な洋装の軍服が採用されていた。腰には大小の刀を帯びてはいたが、その主兵装は、最新鋭の七連発スペンサー銃や、あるいは鹵獲したスナイドル銃、そしてS&Wのリボルバーであった。 彼らは、騎士道精神よりも殺傷効率を、一騎打ちよりも十字砲火を優先する、徳川幕府が生み出した最初の、そして最後の「特殊戦闘工兵隊(Combat Engineers)」へと変貌を遂げていたのである。
なぜ、精鋭である伝習隊(正規歩兵)ではなく、彼らだったのか。ここには、勝海舟特有の、冷徹な人事計算が働いていたと推測される。これから建設される「南山共和国」は、民主的な合議制と法治主義を重んじる近代国家である。そこには、旧来の封建的な忠義に凝り固まり、あるいは暗殺や粛清といった「汚れ仕事」に手を染めすぎた新選組という組織の居場所は、残念ながら用意されていなかった(あるいは、非常に限定的であった)。
彼らは、あまりにも「徳川」すぎたのだ。
「彼らは優秀な兵士だが、平和な新天地には劇薬すぎる。ならば、その劇薬としての効能を、この旧世界(日本列島)で最大限に発揮してもらい、華々しく散ってもらうのが、双方にとっての幸福ではないか」
勝がそう口に出した記録はない。しかし、近藤勇という男は、その無言のメッセージを正確に受信していた節がある。
出陣に際し、近藤は土方歳三に対し、こう語ったという。
「トシ、俺たちは屋台骨だ。南山という新しい御殿が建つまでの間、泥の中で腐りながら柱を支える、見えない礎だ。悪くない役回りだろう?」
彼が甲府へ向かう馬上で手にしていたのは、愛刀「虎徹」ではなく、フランス製の高倍率双眼鏡と、等高線が描かれた作戦地図であった。彼らの任務は、甲州勝沼という漏斗の底に陣取り、そこに殺到する東山道軍3,000名の圧力を、自らの肉体と火力を以て受け止めること。
それは、勝利を目指す「会戦」ではない。横浜港のクレーンが最後の一箱を積み終えるその瞬間まで、敵の足を血の泥沼に釘付けにするための、計算され尽くした「遅滞戦闘(Delaying Action)」の幕開けであった。甲府盆地は、これからブドウの果汁ではなく、兵士たちの鮮血によって満たされることになる。そのための「栓」として、新選組という最強のカードが、惜しげもなくテーブルに叩きつけられたのである。
3. フランス工兵の魔術:勝沼の要塞化
1868年(慶応4年)3月2日、甲府盆地の東端、葡萄の古木が連なる勝沼の丘陵地帯に、奇妙な集団が到着した。彼らは、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊の本隊ではない。その数日前に先行して現地入りしていた、ジュール・ブリュネ大尉を長とするフランス軍事顧問団の工兵チームと、彼らに率いられた新選組の「工兵小隊」であった。彼らが携えていたのは、刀でも槍でもなく、測量儀、シャベル、ツルハシ、そして大量の火薬と鉄線であった。
この日、勝沼の農民たちは、自分たちの先祖伝来の美しい葡萄畑が、わずか数日のうちに、殺意と数学によって構成された無機質な「処刑場」へと作り変えられていく様を、戦慄と共に見守ることになった。
ブリュネ大尉にとって、甲府盆地という地形は、詩的な感傷の対象ではなかった。彼がその青い瞳を通して見ていたのは、等高線と射界、そして弾道計算の方程式だけであった。
「素晴らしい。ここは天然の漏斗だ」彼は、笹子峠から勝沼宿へと下る急峻な坂道と、柏尾橋付近で急激に狭まる地形を指して、通訳の田島応親にそう告げた。「敵は、物理的にここを通るしかない。ならば、我々はここで彼らを歓迎する準備を整えよう。地獄への片道切符を添えてな」
ここから始まったのは、近代戦史における「野戦築城(Field Fortification)」の、日本における最初の、そしてあまりにも完成された実演であった。
彼らはまず、柏尾川の断崖と街道に挟まれた狭い平地に、ジグザグ状の塹壕を掘削した。これは、敵の砲撃による被害を局限し、かつ側面からの縦射を防ぐための、第一次世界大戦の西部戦線を半世紀先取りした設計であった。
葡萄棚の支柱や古木は、そのまま銃眼付きの防壁として利用された。一見するとただの農地に見えるが、その陰には、ライフルを持った兵士が身を隠せるよう、巧妙に計算された射撃位置が確保されていたのである。
さらに、彼らが持ち込んだ最も凶悪な「魔術」は、当時の日本ではまだその概念すら知られていなかった「障害物」の設置であった。彼らは、近隣の農家から徴発した鉄柵や、工廠から運んできた鉄線を、杭に巻きつけ、街道の要所に張り巡らせた。いわゆる「有刺鉄線(Barbed Wire)」の原型である。
その配置は、道を完全に塞ぐものではない。むしろ、敵を特定の場所 -すなわち、隠蔽された火砲の照準が一点に集中する場所 -へと誘導するように、悪魔的な配置がなされていた。
「敵は、障害物を避けて通りやすい場所を選んで進んでくる。そこが、彼らの墓場になる」
ブリュネの指導の下、新選組の隊士たちは、泥にまみれて穴を掘り、杭を打った。かつて「誠」の旗の下で剣を振るった彼らが、今やつるはしを振るい、近代的な陣地構築に従事している姿は、時代の激変を象徴する光景であった。
そして、この要塞の「牙」となる火力の配置こそが、芸術的とも言える完成度を誇っていた。
彼らは、柏尾橋を見下ろす大善寺裏手の高台と、街道を挟んだ反対側の稜線に、分解して運搬してきた4ポンド山砲4門を設置した。これは、街道上の敵に対して、頭上から榴散弾を浴びせるための配置である。さらに、その下段、敵の歩兵が殺到するであろう橋の正面には、虎の子の兵器、2門の「ガトリング砲」が配置された。 ブリュネはそれらを土嚢の上に堂々と据えるような愚は犯さなかった。彼は、ガトリング砲を葡萄畑の作業小屋の中に隠し、壁の一部を切り抜いて、外からは見えない「隠顕銃座」としたのである。さらに、小屋の周囲には枯れ草や蔓を偽装し、発砲炎が見えにくい工夫まで施されていた。
「敵が橋を渡りきり、勝利を確信して歓声を上げた瞬間まで撃つな。距離150メートル。それが、肉と骨が最も効率よく砕ける距離だ」
3月5日、板垣退助率いる東山道軍が足を踏み入れようとしていたのは、もはや日本の牧歌的な街道ではなかった。そこは、フランス工兵の冷徹な知性によって設計された、巨大で、精巧で、そして慈悲のかけらもない「自動人間粉砕機」の投入口であった。
東山道軍の先鋒が、柏尾橋のたもとに翻る「誠」の旗(囮として一本だけ立てられていた)を目にして、「時代遅れの浪士どもめ!」と嘲笑ったその瞬間、彼らの運命は、ブリュネの方程式によって「解なし(死亡)」と定義されていたのである。
葡萄の木々は、まもなく自分たちの根が吸い上げることになる大量の窒素分(血液)を予感して、春の風にざわめいていた。舞台は整った。あとは、役者が揃い、指揮棒が振り下ろされるのを待つだけであった。
(2)に続く
最後までお付き合いいただき感謝します。
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*本編未読の方も、この『架空歴史講義』だけでお楽しみいただけますが、下記の講義録の第一弾をお読みいただくと、より講義の解像度が高まるかと存じます。
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講義録「徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析」
https://ncode.syosetu.com/n5547lt/
本編「南山共和国建国史」
https://ncode.syosetu.com/s0124k/




