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国家の引越し - 1869年の「南山大脱出」と双頭の近代日本の形成  作者: しげぞう
第七章 鉄と血の戊辰戦争 - 近代兵器による遅滞戦闘と戦略的撤退
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第二節 榎本艦隊の完全勝利:遠州灘海戦が確保した脱出の回廊(1)


第二節 榎本艦隊の完全勝利:遠州灘海戦が確保した「脱出の回廊(シーレーン)


 陸上における鳥羽・伏見の敗北が、中世的な「権威(錦の御旗)」による心理的崩壊であったとするならば、そのわずか一月後に太平洋上で発生した海戦は、近代的な「物理法則(鉄と蒸気)」による冷徹な教育的指導であったと言えよう。


 1868年(慶応4年)2月中旬、遠州灘の荒波の上で繰り広げられた、後に「遠州灘海戦」と呼ばれるこの衝突は、日本海軍史におけるトラファルガー海戦であり、同時に南山共和国建国のためのへその緒、すなわち海上回廊シーレーンを物理的にこじ開けた決定的な瞬間であった。


1. 薩摩の驕りと「海上の白兵戦」という幻想


 鳥羽・伏見の戦いにおける「錦の御旗」による政治的逆転勝利は、西国連合軍(新政府軍)の指導者たちに、ある種の致死的な「全能感」を植え付けてしまった。  彼らは、近代戦における勝利の要因を、ガトリング砲やシャスポー銃といった物理的な火力の差ではなく、「天皇の威光」と「兵士の忠義」という精神的な要素にのみ帰結させてしまったのである。この誤った成功体験サクセス・ストーリーは、陸上戦においては辛うじて通用したかもしれないが、物理法則がより冷徹に支配する海の上では、致命的な破滅への招待状となった。


 1868年2月初旬、大坂城を接収した新政府軍首脳部は、即座に次なる作戦目標を定めた。  


「賊魁・慶喜は海路にて東へ逃げた。ならば我らも艦隊を仕立て、海から江戸の喉元・品川を焼き払い、徳川の息の根を止めるべし」勇ましい掛け声の下、兵庫や大阪の港には、薩摩、長州、土佐、肥前、そして芸州といった西国諸藩から、稼働可能な蒸気船や軍艦が手当たり次第にかき集められた。


 こうして急造された「東征艦隊」の陣容は、カタログスペック上では計12隻、総排水量約8,000トンという、それなりの威容を誇っていた。旗艦には薩摩藩の三檣スクーナー型蒸気船「春日カスガ」が据えられ、長州の「丁卯テイボウ」、芸州の「祥雲」などが脇を固める。しかし、その実態は「海軍」と呼ぶにはあまりにもお粗末な、武装商船の博覧会であった。構成艦の半数以上は、欧米の海運会社から払い下げられた中古の商船に、旧式の大砲を無理やり据え付けただけの代物である。装甲板など存在せず、機関部は剥き出しで、速力も旋回性能もバラバラ。艦隊運動フリート・マニューバなど望むべくもない烏合の衆であった。


 だが、彼らにとって最大の問題は、ハードウェアの劣悪さではなく、その運用思想ソフトウェアの絶望的な時代錯誤にあった。この作戦を立案した薩摩藩の海軍掛たちが作成した『海戦心得書』には、現代の軍事学徒が読めば卒倒するようなドクトリンが大真面目に記されていたのである。


「敵艦を発見せば、速やかにこれに肉薄し、接舷して斬り込み隊を移乗させ、白兵戦にてこれを拿捕すべし」


 彼らの脳内にある海戦のイメージは、16世紀の村上水軍や、あるいはトラファルガー海戦以前の帆船時代のそれに固定されていた。


「鉄の船だろうが蒸気の船だろうが、所詮は板子一枚下は地獄の船軍ふないくさよ。乗り込んでしまえば、薩摩示現流の敵ではない」


 彼らは、艦上の水兵たちに、装填に時間のかかる大砲の操作よりも、抜刀隊としての突撃訓練を優先させた。甲板には、敵艦に乗り移るための鉤縄かぎなわや梯子が山と積まれ、兵士たちは鉢巻を締めて刀を研いでいた。彼らは本気で信じていたのだ。蒸気機関のピストン運動や、ライフル砲の弾道計算といった「西洋の小細工」も、大和魂と日本刀の前では無力化されると。


 さらに、彼らの驕りを助長させたのは、幕府海軍は戦わずして降伏するだろうという甘い観測であった。


「鳥羽・伏見を見よ。錦の御旗が翻れば、徳川の兵は恐れおののき、銃を捨てたではないか。海の上でも同じことだ。我らが正義の旗を掲げて進めば、榎本とてひれ伏すに違いない」


 彼らは知らなかった。あるいは、知ろうとしなかった。海の上には、遮蔽物となる民家もなければ、逃げ込む路地裏もないことを。


 そして、相手の指揮官である榎本武揚という男が、精神論や権威といったあやふやな概念ではなく、国際法と数学、そして火薬学という「万国共通の言語」のみを信奉する、冷徹なテクノクラートであることを。


 かくして、1868年2月13日。東征艦隊の12隻は、意気揚々と大阪湾を出撃した。先頭を行く旗艦「春日」のマストには、真っ赤な錦の御旗が高々と掲げられていた。彼らは、それが敵を平伏させる魔法の杖だと信じていたが、遠州灘で待ち構える幕府艦隊の測距儀レンジファインダーにとっては、単なる「照準を合わせるための絶好の的」でしかなかったのである。それは、ドン・キホーテが風車に突撃するよりも遥かに無謀で、そして悲劇的な航海の始まりであった。



2. 榎本武揚の「数学的」な迎撃


 西国連合軍が「精神力」と「錦の御旗」という形而上の兵器に陶酔していた頃、彼らを迎え撃つべく遠州灘に展開していた幕府海軍の指揮官は、それらとは対極に位置する概念、すなわち物理と数学のみを信仰する男であった。


 幕府海軍副総裁・榎本武揚。オランダ・ヘーグに留学し、国際法と船舶運用術、そして最新の砲術を叩き込まれた彼は、当時の日本列島において、最も「サムライ」から遠く、最も技術官僚テクノクラートに近い存在であったと言える。彼にとって海戦とは名乗りを上げて敵将の首を取る儀式ではなく、質量と速度、そして弾道計算によって導き出される変数を制御し、所定の解(敵艦の無力化)を得るための方程式に過ぎなかった。


 榎本が率いる幕府艦隊主力の威容は、寄せ集めの東征艦隊とは比較にならぬほど近代的かつ均質的であった。 その中核を成すのは、ドルトレヒトの造船所で建造され、前年に就役したばかりの旗艦「開陽(Kaiyo)」である。排水量2,590トン、400馬力の補助蒸気機関を備えたこの木造スクリュー・フリゲートは、当時のアジア水域において、間違いなく最強の戦闘艦キャピタル・シップの一つであった。


 特筆すべきは、その備砲である。新政府軍の艦艇が搭載していたのが、せいぜい旧式のアームストロング砲か、射程の短い前装式滑腔砲スムーズボアであったのに対し、「開陽」はプロイセンのクルップ社製・15センチ(40ポンド)後装式施条砲(ライフル砲)を18門、さらに米国製のダールグレン砲など計26門を搭載していた。これに外輪式コルベット「回天」、スクーナー「蟠竜」、そして輸送任務から一時的に艦列に加わった「翔鶴」など計8隻が従う。これらはすべて、共通の信号旗システムと、近代的な艦隊運動フリート・マニューバの訓練を受けた、一つの「有機的なシステム」として機能していた。


 榎本がこの海戦のために用意した戦術プランは、極めてシンプルだが、当時の技術格差を冷徹に突き詰めたものであった。彼は海図の上にコンパスで二つの円を描いたと伝えられる。一つは敵艦隊の主力砲が届く限界距離、半径1,000メートル(約9町)の円。もう一つは自軍のクルップ砲が有効弾を送り込める距離、半径2,500メートル(約23町)の円である。この二つの円の間に広がる、幅1,500メートルのドーナツ状の空間。これこそが、榎本が設定した絶対殺害圏(Absolute Kill Zone)であった。


「敵は必ず、最短距離で突っ込んでくる。彼らの教範には『接舷斬り込み』しか書いていないからだ」


 榎本は、艦橋でパイプをくゆらせながら、数学教師が愚鈍な生徒の答案を添削するような口調で幕僚たちに語ったという。


「我々は、彼らがその『斬り込み』の間合いに入る遥か手前、彼らの大砲の弾すら届かない安全圏から、一方的に鉄の雨を降らせればよい。これは決闘ではない。ただの解体作業だ」


 彼の作戦は、当時の海戦ドクトリンの最先端を行く「単縦陣(Line of Battle)」による迎撃であった。敵艦隊の進路を横切るように艦列を展開し、全艦の片舷砲門を一斉に敵に向ける。これにより、自軍は最大の火力を投射できる一方で、縦列で突っ込んでくる敵艦隊は、先頭艦の艦首砲(せいぜい1〜2門)しか使えない。いわゆる「T字戦法」の原型であるが、榎本の場合、これに「アウトレンジ(射程外攻撃)」という要素が加わることで、その残虐性は飛躍的に高まっていた。



 1868年2月14日未明、遠州灘の波は高く、視界は良好であった。水平線の彼方から、黒煙を上げて無秩序に接近してくる東征艦隊のマストが見えたとき、榎本は愛用の双眼鏡を下ろし、静かに命令を下した。


「全艦、単縦陣を形成。針路、南南西。敵との距離を3,000メートルに保て。それ以上近づけるな」


それは、武士の情けや騎士道精神など微塵もない、あまりにも一方的で、あまりにも「理系」的な処刑の開始合図であった。新政府軍の艦長たちが、マストに翻る錦の御旗を見上げ、熱っぽい声で


「全速前進! 敵艦に乗り移れ!」


と叫んでいたその時、彼らはまだ気づいていなかった。自分たちがすでに、榎本武揚という冷徹な数学者が支配する「死の方程式」の変数として、破滅への解を導き出しつつあることに。


3. 鉄の暴風と「春日」の悲劇


 1868年2月14日、午前8時12分。遠州灘の冷たい海面上で、物理学が精神論に対して最終的な審判を下した瞬間、それは静寂ではなく、空気を引き裂くような轟音と共に訪れた。


 榎本武揚率いる幕府艦隊旗艦「開陽」は、全速力で突進してくる東征艦隊に対し、距離2,800メートルという当時の海戦常識では考えられない遠距離で、その巨大な船体を優雅に回頭させた。右舷に向けられた13門のクルップ製15センチ施条砲と、米国製ダールグレン滑腔砲が、指揮官の合図と共に一斉に火を噴く。


 それは、海戦というよりは、工業的な「破砕作業」の開始であった。


 円錐形のライフル弾は、ライフリングによって与えられた高速回転により、ジャイロ効果で姿勢を安定させながら、放物線を描いて東征艦隊の頭上へと吸い込まれていった。


 対する西国側の艦長たちは、水平線の彼方で「開陽」の側面が白煙に包まれたのを見ても、まだ事態の深刻さを理解していなかった。「あんな遠くから当たるはずがない」「威嚇射撃だろう」と高を括り、むしろ「敵は恐怖で無駄弾を撃っている」とさえ解釈したのである。だが、その楽観は、わずか十数秒後に飛来した第一撃によって、物理的に粉砕された。


 最初の犠牲者となったのは、艦列の右翼を進んでいた薩摩藩の徴用船「翔鳳(Shoho)」であった。本来は貨物船であったこの船の船倉には、接舷戦闘用の火薬や焙烙玉が無造作に積み上げられていた。そこに「開陽」から放たれた40ポンド榴弾(炸裂弾)が、まるで測ったかのように甲板を突き破って飛び込んだのである。


 着弾の瞬間、船体中央部で閃光が走り、続いて轟音と共に巨大な火柱が海面から噴き上がった。それは「撃沈」という生易しいものではなかった。内部からの誘爆によって船体は竜骨ごとへし折れ、船首と船尾がV字型に持ち上がり、わずか数分のうちに大量の海水と蒸気の中に消滅したのである。乗員80名は、何が起きたのかを理解する間もなく、彼らが信じた「錦の御旗」と共に深海へと引きずり込まれた。


 「何が起きた!?」


 東征艦隊旗艦「春日(Kasuga)」の艦橋で、薩摩藩の指揮官・赤塚源六は絶句した。隣を走っていた友軍艦が一瞬で消滅した事実は、彼らの脳内にある「いくさ」の概念を根底から揺さぶった。だが、恐怖する暇さえ与えられなかった。次の標的は、先頭を行く彼ら自身だったからだ。


 「春日」の甲板上は、まさに地獄絵図の前夜であった。そこには、抜刀隊として選抜された数百名の精鋭たちが、鉢巻を締め、白刃を抜き放ち、今か今かと敵艦への突入を待ち構えていた。彼らの士気は最高潮に達しており、中には興奮のあまり船縁を叩いて叫び声を上げる者もいたという。そこへ、第2射、第3射の鉄の雨が降り注いだ。幕府艦隊の砲手たちは、オランダ教官から徹底的に叩き込まれた弾道計算に基づき、正確に「春日」の未来位置を偏差射撃していた。


 一発の炸裂弾が、「春日」の左舷外輪パドル・ホイールのカバーを直撃した。鋳鉄製のカバーは粉々に砕け散り、鋭利な破片シュラプネルとなって、甲板上に密集していた抜刀隊の群れに襲いかかった。人体は高速で飛来する鉄片の前にはあまりにも脆い。


 一瞬にして数十名の兵士が薙ぎ倒され、甲板は鮮血と肉片の海と化した。自慢の名刀も、鍛え抜かれた肉体も、爆風と鉄の暴風の前では何の意味もなさなかった。さらに悪いことに、破壊された外輪のシャフトが暴れ回り、機関室の蒸気パイプを切断したことで、高圧の高温蒸気が艦内に噴出した。


「釜が割れた! 退避! 退避!」


 機関兵たちの断末魔の叫びと、甲板上の負傷者の呻き声、そして蒸気の噴出音が混じり合い、「春日」は制御不能となって海上を迷走し始めた。


 最も皮肉であったのは、マスト高く掲げられていた「錦の御旗」の運命である。幕府軍の狙撃兵(あるいは偶然の砲弾破片)によってマストがへし折られ、神聖なる御旗は、血と油と泥にまみれた甲板へと落下し、パニックに陥って逃げ惑う兵士たちの軍靴に踏みにじられたのである。それは、西国軍が頼みとしていた「精神的支柱」が、近代技術という「物理的現実」によって無惨に踏み潰された象徴的な光景であった。


「敵艦まで、まだ2,000メートルもあります! 届きません! こちらの大砲は届かないんです!」


 砲術長の悲痛な報告に、赤塚は唇を噛み締め、血が滲むほど拳を握りしめた。彼らは敵の顔を見ることさえできない。敵艦に一太刀浴びせることどころか、一発の砲弾を当てることすら叶わないまま、一方的に解体されていく。


 これが近代戦なのか。これが、東国の連中が積み上げてきた「技術」というものの正体なのか。圧倒的な絶望感が、「春日」だけでなく、後続の「丁卯」や「祥雲」の艦長たちの心をも折った。


「回頭! 逃げろ! このままでは全滅だ!」


 陣形は崩壊した。


 東征艦隊の各艦は、我先にと面舵を切り、敗走を開始した。しかし、一度乱れた羊の群れを狩るのは、狼にとっては容易い作業である。榎本は冷静に追撃信号を掲げ、優速の「開陽」と「回天」を差し向けた。逃げる敵艦の船尾(最も装甲が薄い部分)に対し、彼らは容赦なく砲弾を送り込み続けた。


 遠州灘の波間には、撃沈された艦の残骸と、西国の夢の残滓が漂っていた。


 この日、薩摩藩が誇った海の武士道は、クルップ砲の弾道の下で完全に死滅した。そして、この一方的な殺戮劇の結果、太平洋の制海権は完全に徳川の手に落ち、南山へと続く「大脱出の回廊」は、鉄の扉で閉ざされた聖域として確立されたのである。



(2)に続く

 


最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。


*本編未読の方も、この『架空歴史講義』だけでお楽しみいただけますが、下記の講義録の第一弾をお読みいただくと、より講義の解像度が高まるかと存じます。

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本編「南山共和国建国史」

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