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国家の引越し - 1869年の「南山大脱出」と双頭の近代日本の形成  作者: しげぞう
第七章 鉄と血の戊辰戦争 - 近代兵器による遅滞戦闘と戦略的撤退
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第一節 泥沼の鳥羽伏見と大阪城脱出


第一節 泥沼の鳥羽伏見と大阪城脱出


最初の誤算:市街戦化した鳥羽・伏見と幕府軍の政治的敗北


 1868年(慶応4年)1月3日、京都南郊の鳥羽街道および伏見街道において発生した衝突は、後世の歴史家が好んで描くような、刀と槍がぶつかり合う牧歌的な合戦ではなかった。それは、最新鋭の殺戮機械と、中世的な情念が入り混じった、極めて醜悪で、かつ近代的な「市街戦(Urban Warfare)」の幕開けであった。


 本来戦争が始まったかどうかお互いにまだあやふやな段階での、最初のひと当て的な戦闘だった筈である。通常は数日で決着する局地戦でしかなかったであろう。しかし、それは実に1ヶ月以上にわたり、京都盆地の南端を焦土と化し、数万の兵士と市民を巻き込んだ泥沼の消耗戦となっていったのである。


 なぜ、これほどまでに拗れたのか。  その原因は、皮肉にも幕府軍が「優秀すぎた」ことにあった。


1. フランス仕込みの「防御円陣」と薩摩の「誘い受け」


 1868年(慶応4年)1月3日、鉛色の冬空が垂れ込める京都盆地の南端、伏見奉行所周辺の空気は、張り詰めた弦のように冷たく、そして火薬の匂いを孕んでいた。  この日、大阪から北上してきた幕府陸軍主力が展開した陣形は、それまでの日本の戦史には存在しなかった異質な幾何学模様を描いていた。


 それは、戦国以来の「魚鱗」や「鶴翼」といった情緒的な陣形ではない。ナポレオン三世から派遣されたフランス軍事顧問団、とりわけ砲兵大尉ジュール・ブリュネが、幕府陸軍の頭脳に強引にインストールした、近代欧州陸軍のドクトリンそのものであった。


 彼らは、伏見奉行所という既存の行政施設を、一夜にして「対歩兵用キルゾーン(殺害地帯)」の結節点へと改造していた。奉行所の白壁には一定間隔で銃眼が穿たれ、周囲の民家は射界を確保するために容赦なく破壊されるか、あるいは土嚢を積み上げて即席のトーチカ(特火点)へと転用された。その防御円陣の中核を成していたのは、前年に幕府の関口製造所および小石川工廠でライセンス生産が開始されたばかりの「幕府一八六七年式歩兵銃(国産シャスポー銃)」で武装した、伝習隊の精鋭歩兵大隊である。


 従来のゲベール銃やエンフィールド銃が、弾丸と火薬を別々に込める前装式であり、熟練兵でも1分間に2、3発の発射が限度であったのに対し、紙製薬莢を用いる後装式のシャスポー銃は、優にその3倍から4倍の発射速度を誇った。さらに、その有効射程は1,200メートルを超え、当時のあらゆる小銃をアウトレンジすることが可能であった。つまり、幕府軍の陣地は、接近する敵に対して「見えない距離」から一方的に鉛の雨を降らせ、さらに接近すれば「壁のような弾幕」で圧殺するという、物理法則に基づいた死の罠だったのである。


 加えて、街道の正面、最も視界が開けた場所には、米国から緊急輸入された6門の「ガトリング砲」が、その多銃身の冷ややかな銃口を南へ向けて鎮座していた。ハンドルを回すだけで連続的に弾丸を装填・発射・排莢するこの回転式機関銃は、人間を個別の「敵兵」としてではなく、処理すべき「有機質の塊」として粉砕するための工業機械である。


 幕府軍の指揮官たちの脳裏にあったシナリオは、あまりにも楽観的かつ残酷なものであった。「薩摩の田舎侍どもが、喚声を上げて密集突撃をかけてくるのを待てばいい。彼らが射程に入った瞬間、我々はただハンドルを回し、引き金を引く。あとは近代兵器が勝手に勝利を吐き出してくれる」それは戦争というよりは、高度にシステム化された屠殺の準備であった。


 しかし、対峙する西国連合軍、特にその主力を担う薩摩藩兵の指揮官たち―大山巌や西郷隆盛の薫陶を受けた野戦指揮官たち―は、幕府軍が想定するような「蒙昧な蛮族」ではなかった。彼らは、自分たちの装備するスナイドル銃や旧式エンフィールド銃が、スペック上で幕府軍に劣ることを痛いほど理解していた。真正面から撃ち合えば、射程の差で一方的に殺される。密集して突撃すれば、ガトリング砲の餌食になる。ゆえに、彼らが選択した戦術は、幕府軍の「待ち」の姿勢を逆手に取った、老獪極まる「誘い受け(Lure and Ambush)」であった。


 薩摩軍は、街道上には少数の囮部隊を展開させ、挑発的な旗指物を掲げて幕府軍の注意を引きつけた。その一方で、主力部隊は伏見の町特有の、複雑に入り組んだ路地、酒蔵の立ち並ぶ倉庫街、そして民家の裏庭へと、水が染み込むように浸透していったのである。


 彼らは近代的な「戦列歩兵」としての規律を捨て、個々の判断で動く「散兵(Skirmisher)」、あるいは市街戦に特化したゲリラ部隊へと変貌した。壁に穴を開けて隣家へ移動し、屋根瓦を外して狙撃ポイントを作り床下から忍び寄る。 彼らの狙いは、幕府軍が誇る「長射程」と「火力」が無力化される距離―すなわち、互いの息遣いが聞こえ、剣閃が届くか届かないかという至近距離(Zero Distance)にまで、戦場を強引に引きずり込むことにあった。


 1月3日夕刻、鳥羽街道の小枝橋付近で、薩摩側からの発砲とも、幕府側の強行突破ともつかぬ小競り合いが、巨大な内戦の引き金を引いた。開戦の合図とともに、幕府軍の砲列が火を噴き、ガトリング砲が不気味な回転音を上げて咆哮した。


 想定通り、街道上にいた薩摩軍の先鋒部隊は、一瞬にして挽き肉と化し、血飛沫が冬の枯草を赤く染めた。物理的な火力において、幕府軍は圧倒的な支配者であった。だが、その轟音が響き渡る中、幕府軍の指揮官たちは奇妙な違和感を覚え始めていた。「敵が見えない。いや、どこにでもいる」


 正面の敵を粉砕したはずなのに、左右の民家から、頭上の屋根から、そして背後の路地から、絶え間なく銃弾が飛んでくる。フランス仕込みの「防御円陣」は、敵が「前方」から来ることを前提としたシステムである。しかし、薩摩軍は戦場という空間を立体的に利用し、360度あらゆる方向から、幕府軍の整然とした陣形を食い破りにかかったのである。


 「卑怯な! 正々堂々と出てこい!」


 幕府軍将校の悲痛な叫びに対し、路地の影から返ってきたのは、薩摩兵の短く鋭い嘲笑と、正確な狙撃だけであった。近代兵器の優位性を信じて疑わなかったテクノクラートたちは、ここで初めて、戦争とはスペックの比較ではなく、泥と血にまみれた殺し合いであるという現実に、顔面を殴りつけられることになったのである。


2. ガトリング砲の咆哮とCQB(近接戦闘)の地獄


 近代戦争において、「新兵器」が戦場に登場する瞬間ほど、残酷かつ滑稽なものはない。その兵器の性能を理解している側(使用する側)にとっては、それは単なる事務処理であるが、理解していない側(標的となる側)にとっては、神の怒りか悪魔の魔法にしか見えないからだ。  


 1868年1月、伏見の街道筋において、西国連合軍の先鋒を務めた薩摩藩兵の一部が体験したのは、まさにその「理解不能な死」であった。


 幕府軍が米国から緊急調達し、鳥羽・伏見の最前線に6門配備していたのは、リチャード・ジョーダン・ガトリング博士が発明した「1865年式ガトリング砲(58口径)」である。6本の銃身を束ね、手回しハンドルで回転させることで、装填・発射・排莢のサイクルを連続的に行うこの装置は、理論上の発射速度で毎分200発、熟練した射手が操作すれば実用速度でも毎分150発以上の弾丸を投射することができた。

 当時、西国兵が装備していたエンフィールド銃(前装式)の発射速度が、熟練兵でもせいぜい毎分2〜3発であることを考えれば、ガトリング砲1門は歩兵50人から100人分の火力に相当する。それが6門、十字砲火を組んで待ち構えているのである。これはもはや「戦闘」の範疇を超え、「工業的な処理プロセス」と呼ぶべきものであった。



 開戦の混乱の中、功名心に逸った薩摩の一隊―おそらくは、銃器の性能差を「気合」で埋められると信じていた古いタイプの武士たち―が、密集隊形で街道へ躍り出た瞬間、ガトリング砲特有の、布を引き裂くような乾燥した破裂音が響き渡った。


 数秒後、そこに立っていたはずの数十名の兵士たちは、原形を留めない肉塊と化して冬の舗装路に撒き散らされた。悲鳴を上げる暇もなかっただろう。58口径(約14.7ミリ)の鉛弾は、人間の四肢を容易に切断し、胴体を貫通すれば背後の人間をも殺傷する運動エネルギーを持っている。先頭の兵士が頭部を吹き飛ばされて倒れ、それに続く兵士が腹部に穴を開けて崩れ落ちる。その光景は、戦場の勇壮さとは無縁の、屠殺場のベルトコンベア作業に似ていた。


「雷神だ! 徳川は雷神を飼っている!」


 前線の兵士たちはパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように路地裏へ逃げ込んだ。この時点で、幕府軍が想定していた「火力による制圧」というシナリオは、完璧に達成されたかに見えた。


 しかし、ガトリング砲には致命的な欠点があった。それは「見えている敵」しか殺せないということだ。そして、一度その破壊力を目撃した西国兵たちは、二度と射線上に姿を現さなくなった。戦場は、開けた街道から、伏見という歴史ある宿場町の「内部」へと急速に移行していった。ここから始まったのが、日本戦史上初となる本格的な「市街地近接戦闘(CQB: Close Quarters Battle)」の地獄である。


 薩摩・長州の兵士たちは、通りを歩くことをやめた。代わりに、彼らは民家の壁を斧や鳶口で破壊し、隣家から隣家へと、まるで壁の中を食い進むシロアリのように移動し始めたのである。伏見は酒造りの町であり、堅牢な土蔵や入り組んだ長屋が密集している。この複雑怪奇な迷路は、長射程を誇る幕府軍のシャスポー銃や、重厚なガトリング砲にとっては悪夢以外の何物でもなかった。


 フランス式ドクトリンで訓練された幕府歩兵(伝習隊)は、「整列して一斉射撃」することには長けていたが、薄暗い室内で、箪笥の陰や天井裏から襲い掛かってくる敵に対処する術を知らなかった。


 長い銃身を持つシャスポー銃は、狭い屋内では取り回しが悪く、ただの重い棒切れと化した。対する西国兵は、銃剣を煌めかせ、あるいは太刀を抜いて、距離ゼロメートルの白兵戦を挑んできた。


 壁一枚隔てた隣の部屋で、友軍の悲鳴と肉が斬り裂かれる音がする。どこから敵が来るかわからない恐怖。酒蔵の貯蔵桶が銃撃で破裂し、漏れ出した酒と兵士の血が混じり合って床を浸す。その甘く生臭い異臭が充満する閉鎖空間で、近代的な「戦争」は、原始的な「殺し合い」へと退行していった。



 この絶望的な状況下で、幕府軍の中で唯一、水を得た魚のように機能した部隊が存在した。土方歳三率いる「新選組」である。彼らは本来、京都市中の警備と暗殺を主任務とする非正規部隊であり、ブリュネ大尉からは「規律に欠ける前近代的な剣客集団」として軽視されていた。しかし、この混沌とした市街戦において、彼らのスキルセット―個人の剣技、路地の把握能力、そして躊躇なき殺害本能―は、皮肉にも最適解ベスト・プラクティスであった。


 土方は、部下たちに長い小銃を捨てさせ、代わりにS&Wなどの回転式拳銃リボルバーと、短い打刀を持たせた。彼らは3人一組の小隊セルを組み、民家の屋根を伝って敵の背後に回り込み、窓から手榴弾(焙烙玉の改良型)を投げ込み、混乱した敵中に飛び込んで拳銃を乱射した。


「撃てなければ斬れ。斬れなければ殴り殺せ」


 土方の冷徹な指揮の下、新選組は伏見の路地裏を制圧し、一時は薩摩軍の前進を完全に食い止めた。特に、一番隊組長・斎藤一が率いる分隊が、敵が拠点としていた料亭「魚三楼」に突入し、長州の奇兵隊分隊を全滅させた戦闘は、後の南山警察における対テロ強襲戦術の原型になったとも言われている。


 だが、個々の局地戦での奮闘も、大局的な劣勢を覆すには至らなかった。薩摩軍は、新選組が確保したエリアを迂回し、あるいは遠距離からアームストロング砲で区画ごと焼き払うという「力技」に出たからだ。


 燃え上がる伏見の町。黒煙が空を覆い、ガトリング砲の銃身は過熱して焼き付き、シャスポー銃の弾薬は底をつき始めていた。物理的な火力で圧倒していたはずの幕府軍は、いつの間にか「見えない敵」に取り囲まれ、じわじわと出血を強いられていた。それは、近代兵器のスペックだけでは測れない、市街戦という怪物の胃袋の中で消化されていくような感覚であった。そして、この泥沼の消耗戦が限界に達しようとしていた時、戦場の空気を一変させる「あの一手」が、西国軍の本陣で準備されていたのである。


3. 「錦の御旗」という名の戦略兵器


 1868年1月も半ばを過ぎ、伏見の市街戦は、泥沼の消耗戦の様相を呈していた。幕府軍は、ガトリング砲とシャスポー銃による圧倒的な火力を背景に、伏見奉行所を中心とする防御円陣を死守していた。一方、西国連合軍(新政府軍)は、市街地に浸透し、ゲリラ戦術で出血を強い続けていたものの、決定的な突破口を見出せずにいた。物理的な破壊力ハードウェアの優位は、依然として幕府側にあった。しかし、戦争という営為が、最終的には人間の意志によって遂行されるものである以上、勝敗を決するのはハードウェアのスペックだけではない。兵士の脳髄を支配するソフトウェア、すなわち「大義名分」こそが、引き金の重さを決定する。


 この膠着を打破すべく、西国側の参謀本部―岩倉具視と大久保利通らが支配する暗い部屋―で画策されたのは、ガトリング砲をも凌駕する、史上最強にして最悪の対日本人限定の「戦略兵器」の投入であった。それは、火薬も鉛も使用しない。ただの金襴緞子の布切れである。


 1月15日、東寺の塔頭から、あるいは御香宮神社の高台から、冬の寒風に翻った錦の御旗(The Imperial Standard)、金の日輪と銀の月を配し、深紅の地が血のように鮮やかなその旗は、当時の日本人、とりわけ武士階級の精神構造に深く刻み込まれた「尊皇」という絶対命令コードをハッキングし、強制的にシステムダウン、あるいは再起動させるための、極めて悪質なコンピュータ・ウイルスとして機能した。


 その効果は、物理法則を無視して、瞬時に戦場全体へと波及した。「あれに弓引けば、朝敵(逆賊)となる」この一言が、前線の幕府軍将兵の耳に届いた瞬間、彼らの脳内で「敵味方識別装置(IFF)」の深刻なエラーが発生したのである。


 つい数分前まで、目の前の薩摩兵は「徳川の秩序を乱す反乱分子」であった。しかし、錦の御旗という「認証キー」が提示された瞬間、薩摩兵は「官軍(正義の執行者)」へと昇格し、逆に自分たちが「賊軍(排除されるべきバグ)」へと転落してしまったのだ。


 これは、近代的な訓練を受けた兵士であればあるほど、深刻なジレンマを引き起こした。なぜなら、彼らが奉じる武士道や忠義というOSの根本には、公儀への忠誠よりも上位の概念として、天皇への尊崇がハードコードされていたからである。

「撃て! 撃ち続けろ! あれはただの布だ! 薩摩の偽造品だ!」


 幕府陸軍奉行並・竹中重固や、現場指揮官の滝川具挙らは、必死に檄を飛ばした。彼らは、岩倉らが密造したその旗が、法的な手続きを経た正規のものではないことを知っていたかもしれない。しかし、戦場において真実は重要ではない。「兵士たちが何を信じるか」が全てだ。


 多くの兵士の手が震え、引き金から指が離れた。「帝に銃を向けることはできない」この心理的麻痺は、ガトリング砲の回転を止め、シャスポー銃の銃列を沈黙させた。最新鋭の殺戮機械も、それを操作する人間が戦意を喪失すれば、ただの鉄屑に過ぎない。




 さらに恐るべき連鎖反応が、戦場の側面で発生した。それまで日和見を決め込み、あるいは幕府軍の背後を守っていた譜代・親藩以外の諸藩の動向である。


 淀藩、そして津藩。彼らは、錦の御旗を確認した瞬間、生き残るための「合理的判断」を下した。


「徳川は終わった。勝ち馬に乗らねば、我々も朝敵として処分される」


 1月16日、淀城の門は堅く閉ざされ、敗走する幕府軍の受け入れを拒絶した。続く1月17日、津藩の砲兵隊は、昨日までの友軍である幕府軍の側面に向けて、アームストロング砲の筒先を旋回させ、躊躇なく発砲を開始した。


 この裏切りの砲声こそが、鳥羽・伏見の戦いの、ひいては旧体制の「死亡宣告」であった。  伏見奉行所の堅固な防御円陣は、正面からの攻撃には無敵を誇ったが、内部からの士気崩壊と、側面からの裏切りに対しては無防備であった。  物理的な防壁は健在であったが、兵士たちの心理的な防壁は、錦の御旗という「権威の魔法」によって粉々に粉砕されていたのである。  フランス軍事顧問団のブリュネ大尉は、この不可解な崩壊劇を目の当たりにし、日記にこう記したという。  「日本の戦争は、物理学ではなく、神学によって決定されるらしい。我々の科学(軍事ドクトリン)は、彼らの神話の前では無力だ」


 こうして、戦術的には優位に立っていたはずの幕府軍は、政治的・心理的な敗北によって総崩れとなった。だが、この敗北こそが、逆説的に慶喜に「決断」を促すことになる。


「この国(日本列島)は、もはや我々のアプリケーション(近代資本主義)とは互換性がない」彼は、この絶望的な互換性エラーを解消するために、パッチを当てる(戦争を続ける)のではなく、ハードウェアそのものを交換する(南山へ移転する)という、究極のシステム移行を決意するのである。


4. 慶喜の決断:「政治的敗北」の受容と撤退


 1868年1月下旬、硝煙と黒煙が京都南郊の空を覆う中、大坂城の奥深くで、第15代将軍・徳川慶喜は、彼の一生において、いや日本史上において最も冷徹で、かつ最も誤解されることになる決断を下そうとしていた。  戦況図を前にした彼の脳内で回転していたのは、兵法書にある戦術論ではなく、近代的な企業経営者が行う「費用対効果コスト・ベネフィット分析」と「損切り(ロスカット)」の計算式であった。


 軍事的な観点のみに限定すれば、この時点での幕府軍の敗北は決定的なものではない。確かに伏見の市街戦では不覚を取り、錦の御旗という心理兵器によって前線部隊は動揺していた。しかし、戦略的予備兵力として大坂城には数万の兵が無傷で温存されており、何より大阪湾には榎本武揚率いる幕府海軍の主力艦隊が健在であった。


 もし慶喜が、感情に任せて「徹底抗戦」を叫び、艦隊に命じて京都盆地への艦砲射撃を行い、陸軍主力を投入して焦土戦を展開すれば、物理的に新政府軍を粉砕し、京都市街を灰燼に帰すことは十分に可能であっただろう。だが、慶喜という男の特異性は、その勝利の先に待っている「貸借対照表バランスシート」を、瞬時に予測できてしまった点にある。


「勝ったとして、何が残る?」 京都と大坂が焼け野原になれば、東国経済圏の物流ハブと金融機能は壊滅する。西国の恨みは骨髄に達し、ゲリラ戦は数十年続くだろう。疲弊した日本列島には、英国やロシアといったハゲタカたちが、「債権回収」と称して軍事介入してくるに違いない。


 つまり、この戦争に勝つことは、幕府という組織にとって「採算割れ(Red Ink)」を意味していたのである。


「もはや、この国(日本列島という土地)は、維持コストに見合うだけの利益を生まない不良資産となった」


 慶喜と、その傍らで冷ややかな視線を共有していた勘定奉行・小栗忠順が出した結論は、驚くべきパラダイムシフトであった。   

  

「ならば、土地ハードウェアはくれてやろう。

 我々は中身コンテンツだけを持っていく」


 彼らが選択したのは、「政権の奪還」ではない。「国家機能の移転」である。すでに南洋には、幕府が長年かけて投資してきた「南山」という広大なバックアップ・サイトが存在する。そこには資源があり、未開の土地があり、そして何より、西国の不平士族や朝廷の旧弊な権威が存在しない、真っ白なキャンバスがある。


 この泥沼の内戦でリソース(兵士、弾薬、資金)を浪費するよりは、それら全てを梱包して南へ運び、新しい国を建設する方が、長期的には遥かに「安上がり」で「高収益」である。この瞬間、戊辰戦争の目的定義は、「敵の殲滅」から「引っ越しのための時間稼ぎ」へと書き換えられた。


 2月6日夜、慶喜は自軍の兵士たちにも告げず、側近数名だけを連れて大坂城を脱出し、天保山沖に停泊していた幕府軍艦「開陽」へと移乗した。


 世に言う「敵前逃亡」である。


 当時の幕臣たち、そして後世の講談師たちは、これを「臆病風に吹かれた暗愚な君主の末路」として嘲笑った。だが、これは高度に計算された「演出」であったと見るべきである。  もし慶喜が大坂城に留まり、全軍に「撤退」を命じればどうなるか? 血気盛んな会津藩兵や新選組、そしてプライドの高い幕府陸軍の将校たちは、命令を拒絶し、玉砕覚悟の決戦を挑んだであろう。そうなれば、貴重な人的資源と兵器は大阪平野で無為に消耗され、「南山への移転計画」は水泡に帰す。慶喜は、自らが「卑怯者」の汚名を被り、指揮系統を意図的に放棄することで、大坂城の抗戦能力を強制的に無力化し、軍全体のドラスティックな「東帰(江戸への撤退)」を不可避なものとしたのである。

「城(不動産)に執着するな。艦(可動産)を守れ」


 江戸へ向かう洋上で、慶喜は榎本武揚に対し、今後の基本方針を伝えたとされる。これより先の戦いは、勝利のためではない。横浜、横須賀、新潟といった主要港から、重要文化財、工作機械、そして80万人の技術者と市民を南山へ送り出すための、壮大な遅滞戦闘(Delaying Action)となる。東海道は、敵を迎え撃つ防衛ラインではなく、国家の中身を輸送するためのベルトコンベアとなる。そして、その時間を稼ぐために、近藤勇や土方歳三といった「死に場所を求める戦士たち」が、甲府や北越の山野で、自らの命をチップとして、一日、また一日と、新政府軍の足を止め続けることになるのである。


 鳥羽・伏見での「政治的敗北」を受け入れた瞬間、徳川の国家経営は、「日本列島の統治」という古い事業から、「南山共和国の建国」という新規事業スタートアップへと、劇的な業態転換を果たした。  後に残されたのは、勝利に酔いしれる新政府軍と、空っぽになった大坂城。そして、主を失い、それでも機械的に回転を続ける歴史の歯車だけであった。



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