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国家の引越し - 1869年の「南山大脱出」と双頭の近代日本の形成  作者: しげぞう
第七章 鉄と血の戊辰戦争 - 近代兵器による遅滞戦闘と戦略的撤退
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第七章への序説

第七章への序説


 歴史を後世の安全地帯から眺める者は、往々にして戦争を「勝敗」という二元論で語りたがる。勝った側には大義があり、負けた側には凋落の必然があった、と。  だが、1868年1月3日に勃発し、翌年春まで日本列島を焦がした「戊辰戦争」という事象を、単なる「徳川幕府の敗北」と「明治新政府の勝利」という図式で理解しようとすることは、複雑骨折した患者に絆創膏を貼るような愚行である。


 この戦争の本質は、政権奪取をかけた内戦ではない。


 それは、既存の国土(日本列島)に見切りをつけ、国家機能の主要部分を南半球へ移転しようとする巨大な「引越しプロジェクト」と、それを阻止し、資産を接収しようとする「強制執行吏」との間で繰り広げられた、物理的かつ兵站学的な衝突であった。


 本章で私が論じたいのは、英雄たちの武勇伝でも、錦の御旗の権威でもない。いかにして東国(徳川)軍が、圧倒的な火力と技術力を持ちながらも「勝利」を放棄し、代わりに「時間」という最も高価な資源を獲得したか。そして、その時間を稼ぐために、どのようにして戦場を肉挽きミート・グラインダーへと変貌させ、西国軍の足を血の泥沼に釘付けにしたか、という冷徹な戦術ドクトリンの検証である。


1. 幻想の中の「武士」と、現実の「鉛」


 1868年の正月、京都南郊の鳥羽・伏見において両軍が対峙したとき、そこにいたのは髷を結って刀を振り回す古色蒼然としたサムライたちではなかった。少なくとも、幕府軍の主力部隊に関しては、ナポレオン三世から派遣されたフランス軍事顧問団、ジュール・ブリュネ大尉らの指導により、当時の欧州陸軍と遜色ない装備を持つ近代軍隊であった。彼らが手にしていたのは、火縄銃ではない。フランス製の最新鋭ライフル「シャスポー銃」や、幕府工廠でライセンス生産された「一八六七年式歩兵銃」である。これらの後装式ライフルは、従来のゲベール銃やミニエー銃に対し、発射速度と有効射程において圧倒的な優位性を持っていた。さらに、彼らの陣地には、回転式の多銃身機銃「ガトリング砲」が据え付けられ、接近する歩兵を物理的に粉砕する準備を整えていた。


 対する西国連合軍(新政府軍)もまた、アームストロング砲やミニエー銃で武装していたが、そのドクトリンは依然として「精神的優位」に依存する部分が大きかった。「死を恐れぬ突撃」は勇ましいが、物理法則の前には無力である。毎分数百発の鉛弾を吐き出すガトリング砲の前では、大和魂も薩摩示現流も、等しく「穴だらけの肉塊」に還元されるしかない。


 しかし、戦争の帰趨を決めるのは兵器のスペック表だけではない。政治的意志ポリティカル・ウィルの所在こそが、引き金の重さを決定する。西国軍には、「勝って官軍となり、東国の富を奪う」という明確かつ貪欲なモチベーションがあった。


 対して幕府軍の兵士たちは、開戦当初、自分たちが何のために戦っているのかを正確に理解していなかった。将軍様のためという忠誠心はあれど、まさか自分たちの最高司令官が、この戦争を「勝利」ではなく「店じまい」のために利用しようとしているとは、夢にも思わなかっただろう。


2. 慶喜の冷徹な計算:「勝利」はコストに合わない


 大阪城の将軍・徳川慶喜が下した決断は、軍事的には不可解極まりないものであったが、経営的にはあまりにも合理的であった。彼は、鳥羽・伏見での緒戦において、幕府軍が火力で優位に立ちながらも、政治的な形勢(錦の御旗の出現や、諸藩の日和見)が不利に傾いた瞬間、即座に損切り(ロスカット)を決断したのである。


 もし、慶喜が徹底抗戦を選んでいればどうなったか。幕府海軍の艦隊が大阪湾を封鎖し、陸軍が京都市街を無差別に砲撃すれば、新政府軍を壊滅させることは物理的に可能であった。しかし、それは「焦土作戦」を意味する。京都が焼け、大阪が灰になれば、東国経済圏の重要な市場と物流拠点が消滅する。さらに、泥沼の内戦が長引けば、英国やフランス、あるいは南下を狙うロシアの軍事介入を招き、日本列島そのものが植民地化されるリスクがあった。  


「勝っても、手元に残るのは焼け野原と借金だけだ」


 慶喜と、そのブレインである小栗忠順が出した答えはシンプルだった。


「ならば、この国(土地)はくれてやる。我々は『中身(資本・技術・人材)』だけを持っていく」


 この瞬間、戊辰戦争の目的は政権維持から遅滞戦闘(Delaying Action)へと書き換えられた。遅滞戦闘とは、敵の進撃を遅らせ、本隊が撤退するための時間を稼ぐ戦術である。そのためには、敵に出血を強いつつ、自軍も徐々に後退しなければならない。勝つ必要はないが、負け方が早すぎてもいけない。これは、軍事的には最も難易度が高く、そして前線の兵士にとっては最も残酷な任務である。彼らは「守るべき故郷」のためではなく、「故郷を捨てる準備」のために命を使い潰されることになるからだ。


3. 「動く歩道」としての東海道、そしてキルゾーン


 1868年の春から、東海道は奇妙な二重構造のベルトコンベアとなった。西へ向かうのは、最新鋭の装備を持ちながらも、決して決戦を挑もうとはしない幕府軍の殿しんがり部隊。東へ向かうのは、巨大な木箱を積んだ荷車の列と、家財道具を背負った避難民の群れである。そして、その背後から、勝利に酔いしれた新政府軍が追撃してくる。


 東国軍の指揮官たち―近藤勇、土方歳三、そして旧幕府陸軍の将校たち―に課せられたミッションは、極めてシビアなものであった。「敵を箱根の手前で食い止めろ。ただし、全滅はするな。可能な限り敵に出血を強い、一日でも長く足止めしろ。その一日が、横浜港から出航する移民船十隻分の命になる」


 彼らは、甲州街道や東海道の要衝に、巧妙なキルゾーン(殺害地帯)を構築した。フランス軍事顧問団の教えを忠実に守り、地形を利用した十字砲火、塹壕線、そして遅延信管を用いた地雷原。これらは、イデオロギー(尊皇思想)で頭に血が上った西国兵士たちを、物理的に冷却(殺害)するための冷徹な装置であった。特に後に詳述する甲府盆地や長岡周辺での戦闘は、戦争というよりは「工業的な処理プロセス」に近い様相を呈した。そこでは、武士の名乗りや一騎打ちは姿を消し、弾道計算と装填速度だけが支配する、無機質な殺戮空間が現出したのである。


 本章では、これまで敗走の記録として語られてきた戊辰戦争の諸戦闘を、国家移転のための戦略的遅滞作戦という視座から再構築する。なぜ、近藤勇は甲府であれほど頑強に抵抗したのか?なぜ、榎本武揚は圧倒的な海軍力を持ちながら、敵の補給路を完全に断たなかったのか? それらの謎は「80万人の大脱出」という最終目的を理解したとき、初めて氷解する。そこにあるのは、涙も枯れ果てるような、鉄と血と、そして算盤ソロバンによる戦争の真実である。




最後までお付き合いいただき感謝します。

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*本編未読の方も、この『架空歴史講義』だけでお楽しみいただけますが、下記の講義録の第一弾をお読みいただくと、より講義の解像度が高まるかと存じます。

_______________


講義録「徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析」

https://ncode.syosetu.com/n5547lt/


本編「南山共和国建国史」

https://ncode.syosetu.com/s0124k/

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