第二節 持たざる者たちの革命論理
歴史という舞台において、勝者と敗者を分かつものは何か。それは往々にして「能力」の差ではなく、「配られた手札」の差である。19世紀中葉、徳川幕府と東国諸藩が、南山というロイヤル・ストレート・フラッシュを握りしめて悦に入っていたテーブルの対面で、西国雄藩 ― 薩摩、長州、土佐、肥前 ― の指導者たちは、自分たちの手元にある役の弱さに歯噛みしていた。彼らの手札は決してブタ(役なし)ではなかったが、東国の圧倒的な手役の前には、あまりにも無力であった。ここにおいて、彼らが抱いたのは「羨望」などという生易しい感情ではない。それは、ゲームのルールそのものを転覆させなければ、自分たちは永遠に搾取される側に回るという、実存的な「生存への恐怖」であった。
第二節 持たざる者たちの革命論理
1. 西国雄藩のジレンマ:産業化への渇望と「資源・フロンティア」の欠如
まず誤解を解いておかねばならないが、当時の西国諸藩は、決して前近代的な蒙昧主義に囚われていたわけではない。むしろ、技術への感度と学習意欲においては、東国のテクノクラートたちと何ら遜色はなかった、いや、危機感の分だけ彼らの方が鋭敏であったとさえ言える。その証左が、薩摩藩主・島津斉彬による「集成館事業」である。1850年代、鹿児島湾を臨む磯地区に出現した工場群は、当時のアジアにおいて最高水準の工業コンビナートであった。彼らはオランダの書物を翻訳し、見よう見まねで反射炉を築き、ガラスを焼き、そして蒸気機関さえも自作してみせた。長州藩においても、村田蔵六(後の大村益次郎)のような天才的技術者が、最新の洋式軍制と兵器製造技術を導入していた。彼らは優秀だった。あまりにも優秀すぎたため、自分たちが直面している構造的な欠陥に、誰よりも早く気づいてしまったのである。
彼らに致命的に欠けていたもの、それは「頭脳」ではなく「血液」と「骨格」であった。すなわち、産業革命を維持・拡大するために不可欠な、良質なエネルギー資源(石炭)と素材(鉄鉱石)である。
当時の日本列島の資源地図を広げてみよう。東国経済圏は、常磐炭田や釜石鉱山といった国内有数の資源地帯を擁し、さらに南山植民地(北嶺・ワイカト炭田や入安島)から、高カロリーで低硫黄の最高級瀝青炭や、無尽蔵の鉄鉱石、そしてゴムや希少金属を、幕府直轄のシーレーンを通じて独占的に輸入していた。彼らの高炉は常に満腹状態で、蒸気ハンマーは休むことなく鉄を鍛え上げていた。対する西国はどうか。筑豊や三池には確かに石炭があった。しかし、当時の採掘技術では良質な層への到達が難しく、産出されるのはカロリーが低く灰分の多い「粉炭」が主であった。これを蒸気船のボイラーにくべれば、出力は上がらず、煙突からは黒煙と共に未燃焼の煤が噴き出し、機関部を痛める。製鉄に使えば、硫黄分が鉄を脆くする。薩摩の技術者たちは、集成館の反射炉の前で、しばしば絶望的なため息をついていたという。「腕はある。図面もある。だが、燃やす石が悪い。溶かす石が足りない」
彼らがどれほど精巧な国産蒸気船を建造しようとしても、その心臓部となる高品質な鋼鉄や、それを動かすための「南山炭」は、結局のところ、東国(徳川)から言い値で買い叩かねばならなかったのである。これは、産業構造における「従属」を意味した。西国諸藩は、東国という「元請け」に部品や食料を供給するだけの、惨めな「下請け工場」へと転落しつつあったのだ。
2. 閉ざされたフロンティアと「アジアの泥沼」
さらに彼らを追い詰めたのが、市場の問題である。 東国経済圏は、南山を経由して、ゴールドラッシュに沸く米国西海岸や、オセアニア市場へと直結していた。そこは購買力のある「ドルとポンドの海」であった。一方、地理的に大陸に近い西国諸藩が頼みとしたのは、長崎や下関を通じた対清・対朝鮮貿易であった。しかし、1840年のアヘン戦争以降、清国市場は欧米列強に蹂躙され、さらに太平天国の乱(1851-1864)による内戦で、購買力は著しく低下していた。朝鮮もまた、鎖国政策と経済停滞の中にあった。
「西の海(東シナ海)は、もはや黄金の海ではない。泥の海だ」
長州の桂小五郎(後の木戸孝允)が、下関の港でつぶやいたとされるこの言葉は、当時の西国商人の絶望を端的に表している。
本来であれば、彼らもまた南山へ進出すればよかったはずだ。しかし、ここでも徳川のシステムが立ちはだかった。幕府は「南山開発は国家事業(=幕府独占事業)である」として、外様大名、特に薩長による南山への直接投資や移民送り出しを厳しく制限していた。表向きは「過当競争の防止」であったが、実態は西国勢力に力をつけさせないための封じ込め政策に他ならない。
西国の若者たちは、江戸や横浜の新聞で「南山での成功物語」を読むたびに、憧れと共に強烈な疎外感を抱いた。「なぜ俺たちは行けないのか。なぜ俺たちは、この狭い土地で、痩せた畑を耕し続けなければならないのか」
1860年代半ば、西国社会に充満していたのは、単なる貧困への不満ではない。「このままでは、我々は東国の繁栄を指をくわえて眺めるだけの、三流の田舎者に成り下がる」という、誇り高き武士階級としての自尊心を傷つけられた屈辱感と、未来への閉塞感であった。
西郷隆盛が、奄美大島への流刑中に現地の砂糖プランテーションの過酷な搾取を目撃し、それを「未来の日本の姿(東国に搾取される西国)」と重ね合わせたという逸話は、この文脈において極めて示唆的である。
東国の慶喜たちが描いた「連邦制」という合理的解決策は、この西国の絶望的なリアリティの前には、あまりにも空虚で、そして残酷な響きを持っていた。「パンをよこせだと? 違う、俺たちが欲しいのはパン焼き釜と、小麦畑だ。それを独占しておきながら、パンの耳だけ恵んで『仲良くしよう』だと? ふざけるな」この情念のマグマが、やがて「倒幕」という一点に収束していくのは、歴史の必然であったと言えよう。彼らにとって、革命とはイデオロギーの遊戯ではなく、窒息寸前の部屋から脱出するために窓ガラスを叩き割るような、物理的な生存闘争だったのである。
3. ルソーと国学の悪魔合体:中央集権国家への渇望
人間が他人から物を奪うとき、単に「欲しいからよこせ」と言って襲いかかるのは野盗のすることである。国家や政治勢力がそれを行う場合、そこには必ず、その行為を正当化するための高尚な「論理」が必要となる。1860年代、追い詰められた西国諸藩の知識層が直面していた課題は、まさにここにあった。彼らは、徳川幕府と東国諸藩が独占する莫大な富と、南山というフロンティアを喉から手が出るほど欲していた。しかし、当時の国際法(万国公法)や国内の法慣習に照らせば、幕府の南山経営は正当な権利に基づくものであり、それを武力で奪うことは単なる叛逆である。そこで彼らは、思想の錬金術を行った。欧州から輸入された最も危険な劇薬と、日本古来の神秘主義的な権威を混ぜ合わせ、爆発的な革命理論を生成したのである。それが、「ルソー」と「国学」の悪魔合体であった。
◆思想の輸入経路:長崎という「裏口」
東国が、オランダやイギリスから「蒸気機関」や「複式簿記」、そしてジョン・ロックやモンテスキューの「権力分立論」といった、理性的で実用的な文物を輸入していたのに対し、西国の窓口であった長崎には、少しばかり毛色の異なる書物が流入していた。
フランス革命の理論的支柱となったジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論(Du contrat social)』である。1862年、長州藩の若き理論家・久坂玄瑞や、土佐の中岡慎太郎らは、長崎の中国人通詞やオランダ商人を通じて、この書物の漢訳版(『民約論』の写本)を手に入れたとされる。彼らは、この書の中に記された「一般意志(Volonté générale)」という概念に、雷に打たれたような衝撃を受けた。ルソーは説く。「国家の主権は、特定の王や貴族にあるのではなく、人民全体の意志(一般意志)にある」と。そして、「個人の私利私欲は、この一般意志の下に統合されねばならない」と。
通常であれば、この民主主義的な思想は、封建的な武士階級とは相容れないはずである。しかし、彼らはこの西洋の毒を、水戸学由来の「尊皇思想(国学)」という解毒剤―あるいは増幅剤―を通して摂取することで、世界史的にも類を見ない独自の解釈へと到達した。
◆「一君万民」という名のジャコビニズム
彼らの論理変換は、実に強引かつ天才的であった。まず、ルソーの言う「人民」を、日本における「臣民(天皇の赤子)」と読み替える。次に、「一般意志」の体現者を、抽象的な人民の総意ではなく、現人神である「天皇」その人であると定義する。すると、どうなるか。「天皇の意志こそが国家の意志であり、人民の意志である。天皇と人民の間には、いかなる中間搾取者も存在してはならない」ここにおいて、将軍や大名といった「封建的な中間権力」は、天皇(=国家=人民)の権利を不当に阻害する「私利私欲の徒」として断罪されることになる。
これが、西国派が掲げた「一君万民(One Monarch, Ten Thousand People)」思想の正体である。東国の慶喜たちが、権力を分散させ、チェック・アンド・バランスを図る「連邦制」を志向したのに対し、西国の志士たちが求めたのは、天皇という一点に全ての権限と資源を集中させる、極めてラディカルな「中央集権国家」であった。これは、フランス革命におけるジャコバン派の独裁論理と瓜二つである。彼らは「自由」を求めたのではない。「強力な統合」を求めたのだ。なぜなら、強力な統合権力がなければ、強大すぎる徳川の経済力を強制的に解体し、再分配することなど不可能だからである。
◆「私有財産」から「国富」への書き換え
このイデオロギーがいかに強力な武器となったか、具体的な事例で見てみよう。最大の争点は、南山(豪州北部・入安島)の帰属である。幕府側の論理では、南山は「徳川家が私費を投じて開拓した天領(私的財産)」であり、その利益をどう使おうが徳川家の勝手である。これは近代的な所有権の概念に基づいている。しかし、西国側の「一君万民」論理では、こうなる。「日の本(およびその延長である南山)の全ての土地と民は、本来天皇陛下のものである(王土王民)。徳川はそれを一時的に預かっているに過ぎない。しかるに、徳川は南山の富を独占し、私腹を肥やしている。これは『国富の窃盗』であり、天皇に対する反逆である」
なんという論理の飛躍、なんという厚顔無恥なすり替えであろうか。だが、この論理武装によって彼らの欲望は「正義」へと昇華された。彼らが徳川を倒すのは、権力闘争のためではない。「盗まれた国家資産」を、正当な持ち主(天皇、ひいては自分たち新政府)の元へ取り戻すための、聖なる「資産回収業務」となったのである。1866年、薩摩の西郷隆盛が、長州の木戸孝允に送った書簡の中に、次のような一節がある。「南山の羊も、入安の砂糖も、すべては帝の物なり。賊(幕府)がこれを私するを許さば、皇国の威光は地に落ちん。我らが剣は、強盗を討つための剣なり」 彼らは本気でそう信じ込み、あるいは信じ込むことで、自らを奮い立たせていた。
◆国民国家への渇望
さらに、彼らがこの中央集権モデルに固執した背景には、欧米列強への対抗心があった。彼らは、アヘン戦争で清国が敗れた原因を、「国がバラバラで、総力を結集できなかったからだ」と分析していた。そして、目の前にある徳川の「連邦制」案は、日本を清国と同じ弱体化した分権国家にするものだと危惧したのである。「西欧の真似事のような議会を作って、だらだらと話し合っている暇はない。強力な政府が、ヒト・モノ・カネを一元管理し、富国強兵に邁進しなければ、日本は植民地になる」この危機感は本物であった。そして皮肉なことに、この「総力戦体制への志向」こそが、後の日本(大阪政府)を、南山とは異なるタイプの軍事強国へと成長させる原動力となる。
◆東国の「自由主義的な連邦主義」と、西国の「ナショナリスティックな集権主義」
前者が「経済のパイを大きくすること」を優先したのに対し、後者は「パイの切り分け方を暴力的に変更すること」を優先した。思想的にも、経済的利害においても、両者の間の溝はもはや埋めようがなかった。慶喜が二条城で地球儀を回していた頃、西国の地下では、すでに妥協の余地なきマグマが、噴火の時を待っていたのである。彼らが求めたのは、対話のテーブルではない。古い建物を基礎ごと爆破し、更地の上に「天皇」という名の巨大な塔を建てるための、ダイナマイトであった。
4. クーデターの必然性:「議会政治」という名の緩やかな死への拒絶
政治学の初歩的な講義において、我々は「議会制民主主義」こそが、対立を平和的に解決する最も洗練された装置であると教わる。血を流す代わりに言論を戦わせ、銃弾の代わりに投票用紙を用いる。実に文明的で、美しいシステムだ。しかし、それはあくまで「勝てる見込み」がある者、あるいは「負けても再起が可能」な者にとっての真理に過ぎない。もし、そのゲームに参加した時点で「永遠の敗北」が数学的に確定しており、さらにその敗北が自らの共同体の「安楽死」を意味するとしたらどうだろうか?
1867年の冬、京都の冷たい風の中で、西国雄藩(薩摩・長州・土佐・肥前)の指導者たちが直面していたのは、まさにそのような絶望的なゲーム・ボードであった。彼らにとって、徳川慶喜が提示した「大日本南山連邦」構想―特にその中核をなす公議政体(議会政治)は、平和の象徴などではなく、綺麗にラッピングされた死刑執行令状に他ならなかったのである。
◆「数の暴力」のシミュレーション
当時の政治算術を再現してみよう。もし、第一節に論述した慶喜のプラン通りに事が運び、1868年に第一回連邦議会選挙が行われていたら、どのような結果になったか。
慶喜案における下院(衆議院)の選挙権は、当時の英国法を参考にした「直接国税50両以上を納める成人男子」に限定される予定であった。当時の納税記録と人口動態から推計すると、有権者総数は約35万人。その地理的分布は残酷なほどに偏っている。
嘉永産業革命の恩恵を受け、重工業と南山貿易で潤う「東国・南山ブロック(関東・東北・南山植民地)」には、約24万人の有権者が集中している。対して、農業と衰退した対清貿易に依存する「西国ブロック(近畿・中国・四国・九州)」の有権者は、わずか11万人にも満たない。
結果は火を見るよりも明らかだ。議席の7割近くを、徳川家を支持する産業資本家の代表(リベラル派)が占め、西国の代表(保守・農本派)は永遠に「3割の野党」として固定化される。議会が開かれるたびに、多数決の論理で「東国と南山に有利な法案」が次々と可決されていく。関税撤廃、南山への投資優遇、重工業重点化予算…。西国の議員たちは、議事堂の片隅で、反対票という名の紙くずを投じることしかできない。「話し合いで決めよう」という言葉は、強者が弱者に対して使うとき、最も残酷な響きを持つ。西国の指導者である大久保利通や木戸孝允は、この「民主的な絶望」を正確に予見していた。「公議など待てぬ。話し合いで決まるのは、金持ちの論理だけだ」
◆構造的な「安楽死(Euthanasia)」の恐怖
では、その「金持ちの論理」が支配する連邦国家において、西国にはどのような未来が用意されていたのか。東国のテクノクラートたちが描いた産業地図において、西国に割り振られた役割は明確だった。それは「食料・労働力の供給基地(Agricultural Backyard)」である。
東国と南山が、製鉄、造船、金融、化学といった高付加価値産業を独占する一方で、西国は温暖な気候を利用して米や野菜を作り、東国の工場労働者の胃袋を満たす。そして、西国の次男・三男は、安価な労働力として東国の工場や南山のプランテーションへ送り出される。これは、19世紀のアイルランドがイギリスに対して置かれた立場、あるいはアメリカ南部が北部に対して抱いた恐怖と酷似している。
経済的には統合されるかもしれない。しかし、それは「対等な合併」ではなく、「内なる植民地化」である。西国は、独自の文化や誇りを保った武士の国から、巨大な東国資本に奉仕するだけの、顔のない農業地帯へと変質させられてしまうだろう。
「我々は、ただ貧しくなるのではない。我々は『不要』になるのだ」西郷隆盛が抱いた危機感は、まさにこの一点にあった。彼は直感的に悟っていた。近代資本主義という怪物は、効率の悪い古い共同体を、暴力的にではなく、経済的な必然性をもって静かに解体し、飲み込んでいくことを。それは銃弾による即死ではなく、真綿で首を絞められるような、緩やかな、しかし確実な死であった。
◆ルビコン川を渡る決断:盤面をひっくり返す(Flip the Table)
この「構造的な詰み」を回避する手段は、論理的に一つしか残されていなかった。
それは、ゲームのルール(議会制)に従ってプレイすることではない。ゲーム盤そのものをひっくり返し、ルールブックを燃やし、暴力によって「初期設定」を書き換えることである。すなわち、クーデターだ。
1867年12月、岩倉具視ら倒幕派公家と結託した薩長の指導者たちが画策したのは、慶喜に対する徹底的な挑発であった。彼らは知っていた。慶喜が合理的な政治家であればあるほど、理不尽な暴力や無法な要求に対しては、警察的な対応(武力鎮圧)を選ばざるを得ないことを。そして、一度戦端が開かれれば、もはや「議席数」や「資産額」は関係なくなる。モノを言うのは、兵士の士気と、殺意の純度だけだ。
「辞官納地(官位と領地の返上)」という、徳川家にとって絶対に受け入れ不可能な要求。それは交渉のボールではなく、開戦の合図となる焼夷弾であった。彼らの狙いは、徳川という巨大な資本複合体を「朝敵」という名の犯罪者に仕立て上げ、その莫大な資産と南山利権を接収(国有化)することにあった。これは、高貴な革命などではない。近代化のバスに乗り遅れた者たちが、先行するバスを力ずくで停車させ、運転手を引きずり下ろし、ハンドルを奪い取るための、なりふり構わぬハイジャックだったのである。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉があるが、この時の西国衆にとって、それは単なるスローガンではなかった。「勝たねば、我々は歴史から消滅する」この悲壮な覚悟、あるいは窮鼠の狂気こそが、圧倒的な物量と火力を誇る幕府軍に対し、彼らが唯一持ち得た、そして最終的には戦局を左右することになる「非対称な武器」だったのである。
かくして、理性と近代化の粋を集めた「大政奉還」という平和的な解決策は、皮肉にも、最も血なまぐさい内戦の引き金を引くこととなった。それは、近代的な連邦の夢と、前近代的な情念(と見せかけた生存本能)との、不可避の衝突であった。硝子は砕かれ、破片は全国土にばら撒かれた。もはや、誰も後戻りはできなかった。
<コラム:象牙の塔における「領土問題」と、非対称戦の流儀>
編集者のK君が、またしても私の研究室に現れた。今度は手土産に、大学前のカフェで買ったという、やたらと名前の長いクリームまみれの飲み物を持って。
「先生、前回のコラム、読者アンケートで大好評でしたよ! 特に『車を自慢して自爆する先生』の人間味が最高だと。今回は、大学内での先生の『闘争』について書いてみませんか?」
君は私をピエロか何かと勘違いしていないか? 私は高潔な歴史学者であり、闘争などという野蛮な行為とは無縁だ。だが、この甘ったるい液体が、執筆で疲れた脳髄に染み渡るのも事実だ。
仕方あるまい。今回は、私が所属する南山文理大学における、血で血を洗う(比喩だよ)学部間戦争について記すことにしよう。
*
本節で述べたように、19世紀の西国諸藩は、東国の圧倒的な経済力と正論の前に窒息しかけていた。彼らは、正面からの議論(議会)では絶対に勝てないことを悟り、盤面をひっくり返す「革命」を選んだ。 実は、これと全く同じ構図が、我が大学のキャンパスでも繰り広げられている。
南山文理大学において、圧倒的な「東国(持てる者)」は、工学部と医学部である。彼らは莫大な研究予算を獲得し、産学連携で巨利を生み出し、大学当局に対して絶大な発言力を持っている。 対する我々歴史学部は、悲しいかな「西国(持たざる者)」である。我々が生み出すのは金銭ではなく、埃っぽい論文と、学生たちの単位だけだ。
先月、大学当局から衝撃的な通達があった。「キャンパス再開発計画に基づき、歴史学部棟の裏にある『思索の森(素晴らしいただの雑木林)』を伐採し、工学部の『先端AI研究センター』を建設する」
これは暴挙である。あの薄暗い林と、そこに置かれた苔むしたベンチこそが、我々文系教員が紫煙をくゆらせ、歴史の深淵を覗き込むための聖域なのだ。それを、無機質なサーバーールームにするだと?
だが、教授会(議会)での議論は火を見るより明らかだった。工学部長はパワーポイントで美しいグラフを示し、新センターがもたらす経済効果と、大学ランキングへの貢献を理路整然と説いた。それは慶喜の「南山連邦構想」のように、あまりにも合理的で、反論の余地がない正論だった。
「歴史学部の先生方、今は21世紀ですよ。感傷で飯は食えません」
議場の空気は完全に工学部支持だ。このまま採決(投票)になれば、我々の聖域は適正手続きに則って、合法的にブルドーザーで均されるだろう。ここで私は、西郷隆盛の心情を理解した。
「話し合いで決まるのは、強者の論理だけだ」ならば弱者には弱者の戦い方がある。我々は、ルソーと国学を悪魔合体させた志士たちに倣い、「論理のすり替え」と「権威の動員」というゲリラ戦を展開することにした。
私は、民俗学の教授と結託し、ある「噂」を流したのだ。「あの林には、大学創設期に貢献したマオリの長老が植えた『聖なる木』があり、それを切ると祟りがあるらしい」
さらに、古文書(という名の捏造スレスレの資料)を発掘し、「この場所は、19世紀の移民たちが最初にキャンプを張った『建国の聖地』である可能性が高い」と学内報に寄稿した。
これは、単なる場所取りという私利私欲を、建国の歴史と多文化共生の精神を守るという正義(錦の御旗)にすり替える錬金術である。 効果はてきめんであった。合理性の塊である工学部の連中ほど、こういう呪いやポリティカル・コレクトネス(建国の精神)といった、計算不能な変数を極端に恐れる。
「もし工事中に事故が起きたら」
「歴史的遺産を破壊したとSNSで炎上したら」
彼らは動揺し、計画は無期限延期となった。我々の勝利である。
K君よ、呆れた顔をするな。これもまた、生存のための崇高な知恵なのだ。「持たざる者」が生き残るためには、時に狂気を装い、論理のテーブルをひっくり返す勇気が必要なのである。
……もっとも、その翌日、工学部長から
「先生、新車の『荒鷲』、調子はどうですか? AI制御系に予期せぬバグが出ないよう、祈っておりますよ」
と、満面の笑みで言われた時には、さすがに背筋が凍ったがね。やはり、近代兵器を持つ者との戦争は、心臓に悪い。くわばらくわばら、テケリ・リ・リー。
(編集部注:先生、その「呪いの木」の話、大学の広報課から問い合わせが来てますよ! どうするんですか!)
最後までお付き合いいただき感謝します。
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*本編未読の方も、この『架空歴史講義』だけでお楽しみいただけますが、下記の講義録の第一弾をお読みいただくと、より講義の解像度が高まるかと存じます。
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講義録「徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析」
https://ncode.syosetu.com/n5547lt/
本編「南山共和国建国史」
https://ncode.syosetu.com/s0124k/




