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国家の引越し - 1869年の「南山大脱出」と双頭の近代日本の形成  作者: しげぞう
第六章 連邦の夢と砕かれた硝子 - 慶喜のグランドデザインと西国の焦燥
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第一節 「大日本南山連邦」の設計図

国家の引越し

 — 1869年の「南山大脱出」と双頭の近代日本の形成

(The Great Relocation of the State: The Nanzan Exodus of 1869 and the Formation of the "Double-Headed" Modern Japan)


「徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史

 — 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析 第2部

(Geopolitics of the Tokugawa Maritime Sphere and the Political Economic History of "Nanzan": A Structural Analysis of the "Double-Headed Empire" Born from Social Exile:Part2) 」


著: 櫻井 重隆 (南山文理大学歴史学部 教授 / 形而史学博士 Ph.D.)


第一節 「大日本南山連邦」の設計図


 歴史の分岐点というものは、得てして戦場における砲火の轟きの中ではなく、静謐な部屋で広げられた一枚の紙の上に、インクの染みとして存在するものである。1867年(慶応3年)の晩夏、京都・二条城の奥深く、大広間ではなくあえて選ばれた黒書院の一室で、一人の男が地球儀を回していた。第15代征夷大将軍・徳川慶喜である。


 彼の周囲には、勘定奉行並・小栗忠順、京都守護職・松平容保、そして軍艦奉行・勝海舟といった、当時の日本列島において最も鋭利な知性を持つ、いわば「知能指数の天井」とも言うべき面々が顔を揃えていた。彼らの視線は、地球儀上の日本列島と、その南方に広がる巨大な「南山領域」すなわち、我々の父祖の地である南山諸島(当時の呼称で南山島および北嶺島)と入安島の間を、まるで自分たちの庭の飛び石を確認するかのように、忙しなく往復していた。


 彼らがテーブルの上に広げていたのは、単なる政権返上、世に言う「大政奉還」の草案などではない。それは、封建国家の皮を被ったこの老朽化した通商国家を、一気に近代的な連邦国家へと脱皮させるための、あまりにも精緻で、そしてあまりにも楽観的な「大日本南山連邦(The Great Japan-Nanzan Federation)」の設計図であった。


 後世の歴史家の中には、この時期の政治対立を、「貿易か攘夷か」という図式で語ろうとする浅薄な者がいるが、それは全くのナンセンスである。 そもそも、徳川日本は17世紀の「寛永通商基本令」以来、貿易封鎖(鎖国)など一度たりともしていない。長崎、横浜、明望といった港は常に開かれており、世界の物流に深く組み込まれていた。1853年のペリー来航も、太平洋航路の石炭補給契約を結ぶために、既存の得意先へ挨拶に来たに過ぎない。


 したがって、当時の争点は「穢れた異人を打ち払う」などという低次元な話ではなかった。真の争点は、「徳川家が独占してきた『貿易の蛇口』と『南山という財布』を、いかにして国家(天皇)の下に統合し、再分配するか」という、極めて生々しい利権とシステムの問題であったのだ。



1. 「攘夷」の再定義とテクノクラートの回答


 当時、西国諸藩(薩摩・長州・土佐等)が叫んでいた「尊皇攘夷」というスローガン。その意味するところは単純に「夷狄(外国人)を追い払え」ではない。彼らとて、複式簿記や蒸気機関がなければ世界の中で生きていけないことは百も承知であった。


 彼らの言う「攘夷」とは、「幕府が外国と結託して私腹を肥やしている現状(=幕府主導の開国)」を否定し、「天皇の下で一元管理された、より強力で平等な貿易体制(=朝廷主導の開国)」を樹立することを意味していた。つまり、これは外国人排斥運動に見せかけた、徹底的な「反・徳川独占禁止法違反訴訟」だったのである。


 この西国側の突き上げに対し、慶喜と東国のテクノクラートたちが出した回答が、「大日本南山連邦」構想であった。その骨子は、英国の立憲君主制と合衆国の連邦制を、日本の現実に合わせて(都合よく)折衷した極めてハイブリッドなものである。


 まず、国家の頂点には京都の天子様、すなわち明治天皇を戴く。ただし、それは絶対君主としてではなく、国家統合の精神的支柱、あるいは「君主機関説的な皇帝」としてである。  慶喜の腹心であり、フランス流の国家理性を信奉していた小栗忠順は、会議の席上でこう発言したと伝えられる。


 「帝には、雲の上で霞を食べていていただければよい。尊皇派がうるさいなら、帝を『連邦の象徴』として崇め奉れば、彼らも文句は言えまい。だが、下界の金勘定と泥仕合は、我々実務家が引き受ける」


 これは、西国諸藩の「尊皇」という情念を制度的に吸い上げつつ、その政治的実権を無力化する、冷徹な二重構造の設計であった。




2. 議会という名の「徳川永久与党化システム」


 そして、実質的な統治機構として、彼らは二院制の議会による「公議政体(Public Deliberation System)」の創設を画策していた。


 上院(貴族院に相当)は、徳川宗家を筆頭とする諸大名や公家が世襲で議席を占める。これは既存の支配層への配慮である。慶喜の罠が仕掛けられていたのは、下院(衆議院に相当)である。彼らは、この議員選出において、当時の欧米列強と同様の「制限選挙制」の導入を前提としていた。選挙権・被選挙権を持つのは、一定額以上の国税を納める「高額納税者」のみである。


 ここで、当時の日本の富の偏在を思い出していただきたい。嘉永の産業革命(1844-1855)以降、日本列島の工業生産力と貿易黒字の8割以上は、関東・東北の東国諸藩と、南山植民地に集中していた。大阪や京都は商業資本こそあれど、産業資本の蓄積という点では、蒸気機関と溶鉱炉を擁する東国・南山ブロックに大きく水をあけられていた。したがって、このルールで選挙を行えばどうなるか。下院の議席は必然的に、東国の産業資本家、豪農、そして南山開発で財を成した「南山成金(Nanzan Nouveau riche)」たちの代表によって占められることになる。西国の不平士族や貧農の声など、制度的に切り捨てられるのだ。


 慶喜の計算は、あまりにも冷徹で、そして合理的すぎた。


「将軍職などという古臭い肩書きは捨ててしまえばいい。議会という土俵さえ整えば、圧倒的な経済力と組織票を持つ我々徳川グループは、選挙を通じて永遠に『与党』であり続けられる。私が初代首相プレジデントになれば、実質的な権力は何一つ変わらない」


 これは、封建領主が自らの手で封建制を解体し、近代的な首相へと転身を図るという、世界史的にも稀有な政治的ウルトラCであった。彼は、刀を捨てて投票箱を取ることで、流血なしに独裁を維持しようとしたのである。




3. 南山という「巨大な臓器」の接続


 この壮大な構想の最大の担保となっていたのが、南山(豪州北部・入安島・南山諸島)という広大なフロンティアの存在である。  当時の南山は、すでに人口120万人を超え、独自の経済圏を形成していたが、政治的にはあくまで「幕府の天領(直轄地)」の集合体であり、法的には不安定な存在であった。新構想において、南山は「内地延長(Extension of Inland)」として再定義され、日本本土と関税なき、完全な自由貿易圏に組み込まれる計画であった。


 勝海舟が描いた青写真は、実に魅力的なものであった。まず、南山の広大なプランテーションから産出されるゴム、砂糖、そして北嶺島のワイカト炭田からの石炭が、関税ゼロで安価かつ安定的に東国の京浜工業地帯や東北の製鉄所へ供給される。


 次に、東国の工場群で生産された繊維製品、重機、加工食品が、南山を経由して、ゴールドラッシュに沸く米国西海岸や、植民地化が進む東南アジア市場へ輸出される。そして、そこで得られた莫大な外貨ドルやポンドやフランが、再び南山の鉄道や港湾インフラ、そして本土の新規産業へと還流投資される。


 この「東国-南山循環ポンプ」とも呼ぶべき巨大なエコシステムは、当時のアジアにおいて唯一無二の自己増殖的な資本蓄積回路であった。この回路のスイッチを握っているのは、幕府直轄の南山奉行所と、それを取り巻く三井、小野、島田といった東国系の政商たちである。慶喜や小栗たちは、この圧倒的な「富の創出能力」こそが、新国家の安定を保証すると信じて疑わなかった。


「西国の薩長とて、霞を食っては生きられまい。彼らに『南山開発への参入権』や『インフラ投資の配当』を餌として与えれば、彼らもまた、この巨大な利益共同体の一員として、大人しく連邦の座席に収まるだろう」彼らは、経済合理性が政治的対立を溶解させると本気で信じていた。それは、ある意味で極めて現代的な、グローバリストの思考そのものであった。




4. 「大政奉還」という名の敵対的買収防衛策


 1867年10月、二条城で慶喜が大政奉還を諸藩の重臣たちに諮問した際、その場を支配していたのは、通説で語られるような悲壮感ではなかった。むしろ、一種の冷徹な高揚感、あるいは「してやったり」という知的な加虐嗜好すら漂っていたと言われる。慶喜は、政権を朝廷に返上した。しかし、それは「統治の責任」を返上しただけであり、「統治の能力パワー」は手放していなかった。


 彼らは知っていたのだ。朝廷や西国諸藩には、複雑怪奇な近代国家を運営するノウハウも、予算も、艦隊も、外交ルートもないことを。


 たとえば、南山から輸入される数万トンの羊毛の決済を、朝廷の誰ができるというのか? 複式簿記も知らぬ公家たちが、ロンドンの相場を見ながら為替予約ができるのか? できるはずがない。  政権を返上した瞬間、翌日の外交文書一つ処理できず、欧米公使への対応に窮し、彼らは泣きついてくるはずだ、と。


「政権を返すのではない。古い責任を返し、新しい権限パワーだけを、より強固な形で握り直すのだ」


 この「大政奉還」は、敗北宣言ではなく、徳川家による日本株式会社の「敵対的買収(TOB)返し」とも言うべき、起死回生の一手であった。もし、このまま平和裏に事が進み、諸侯会議(後の上院)が開催されていれば、慶喜は初代議長あるいは首相として選出され、「大日本南山連邦」は幻ではなく、現実の歴史として教科書に載っていたかもしれない。


 しかし、このあまりにも合理的で、あまりにも美しく設計された「機械仕掛けの国家」には、一つだけ致命的なバグが含まれていた。それは、「人間はパンのみにて生きるにあらず」という、古来からの真理に対する軽視である。あるいは、東国のテクノクラートたちが、自分たちの計算尺では測れない数値―すなわち、西国の人々が抱える「持たざる者のルサンチマン(怨嗟)」の深さと熱量を、定量的に評価し損ねたことと言ってもいい。合理的な設計図は、往々にして不合理な情熱によって焼き尽くされる。歴史の女神は、慶喜のスマートなシナリオよりも、より血なまぐさく、泥臭いドラマを好んだのである。






櫻井教授のコラム

<ルサンチマンの比重と、新車のナビシステムについて>


 担当編集者のK君が、締め切り直前の私の研究室に駆け込んできてこう言った。「先生、今回のコラムは倍の量でお願いします。読者は先生の『高尚な歴史観』と『俗物的な私生活』のギャップに飢えているんですよ」と。


 失敬な。私は俗物ではない。ただ、美味しい肉と快適な移動手段に対して、人一倍誠実なだけである。それに、歴史家が私生活を切り売りするなど、学問への冒涜ではないか…と言いたいところだが、彼が手土産に持ってきた明望めいぼうの老舗「煉瓦屋」の特製カツサンド(厚さ3センチのフィレ肉使用)の香りに免じて、今回は少しばかり筆を滑らせることにする。


 さて、本編で論じた徳川慶喜と小栗忠順の「大日本南山連邦構想」。


 あれは、図面上では完璧だった。経済合理性、統治コストの削減、そして国際的なパワーバランス。どの角度から見ても、当時の日本が生き残るための最適解オプティマル・ソリューションであったことは疑いようがない。彼らは、人間社会を「数式」として捉え、変数を調整すれば解が出ると信じていた。


 だが、彼らは致命的な変数を一つ見落としていた。それは「嫉妬ジェラシー」という感情の比重である。


 実は先日、冒頭でも触れた通り、愛車を買い替えた。  南山モーターズ製の最新型セダン「荒鷲アラワシ・ハイブリッド・ロイヤルサルーン」。静粛性は国立図書館のようで、加速はリニアモーターカーの如し。  私はこの車を手に入れるために、大学の安月給を貯め、講義を増やし、そしてこうしてK君の無茶振りにも耐えて原稿料を稼いだ。つまり、正当な労働の対価としての「果実」である。


 ところがだ。  納車の翌日、自宅のガレージで新車を磨いていると、隣人のG氏が通りかかった。  彼は南山海軍の退役提督で、普段はロマンスグレーの紳士だ。愛車は20年落ちの武骨な「クロガネ・ジープ」を、まるで恋人のように丁寧に整備して乗っている。彼は私のピカピカの「荒鷲」を一瞥すると、実に人好きのする、穏やかな笑顔でこう言ったのである。


 「いやあ、素晴らしいお車ですね、先生。最新の安全装備に、AI運転支援ですか。…ええ、実に素晴らしい。『平和』というのは、こういうことなんでしょうな」


 彼は続けて、ボンネットを愛おしげに(あるいは値踏みするように)眺めながら、独り言のように付け加えた。「我々が海の上で、油と鉄粉にまみれて国境を睨んでいる間に、後方ではこんなに美しい技術とそれを買う『余裕』が生まれていたとは。いや、感謝しておりますよ。我々の献身が、先生のような知性ある方々の『快適なドライブ』を守っているわけですから」


 その言葉には、一欠片の侮蔑も、敵意もなかった。ただ「絶対零度の皮肉」だけがあった。

 「俺たちが命懸けで守った平和の上で、お前はのうのうと金儲けか」という本音を、完璧な礼節というオブラートで包んで差し出されたのだ。


 私は背筋が凍ると同時に、ハッとした。


 これだ。これこそが、1867年の西国諸藩が、東国に対して抱いた感情の正体だ。東国の人々は言っただろう。「我々は南山を開拓し、工場を建て、合理的に富を築いた。だから豊かになって当然だ」と。それは正論だ。あまりにも正しい。だが、その正論は、古い秩序の中で「日本という国体(天皇と土地)」を守ろうとしていた西国の人々にとって、自分たちの存在意義プライドを否定する猛毒だったのだ。


 G氏の言葉は、まさに薩摩や長州の武士たちの叫びそのものだ。


「金を持っているのが偉いのか? 合理的なのが正しいのか? 違うだろう。この国を支えているのは、泥にまみれて戦う俺たちの『献身』ではないのか」


 論理ではない。誇り(プライド)の問題だ。そして歴史を動かすのは、いつだって冷徹な計算書ではなく、傷つけられたプライドが生み出す、熱く静かなルサンチマンなのである。


 慶喜の失敗は、彼があまりにも頭が良く、あまりにも「持てる者(東国)」であったがゆえに、この「持たざる者(西国)」の屈折した情念を、政治的コストとして計上し忘れた点にある。


 もし彼が、南山の利益をもっと早い段階で、それこそ「西国の忠義への感謝」という形で、彼らのプライドを立てながら分配していれば、あるいは歴史は変わっていたかもしれない。だが、潔癖なテクノクラートたちは、それを「無駄な儀礼」として切り捨てた。その結果が、鳥羽・伏見の砲声だ。


 などと考えていたら、せっかくのカツサンドが冷めてしまった。人間というのは面倒な生き物だ。合理性だけでは動かないし、笑顔で握手をしながら、心の中で相手を殴っていることもある。 だが、だからこそ歴史は面白い。


 さて、この原稿を書き上げたら、私は「荒鷲」に乗って、少し遠くのステーキハウスまでドライブに行くつもりだ。 隣人のG氏には、今度会ったら最高級のスコッチ・ウィスキーでも贈るとしよう。それも、「海軍時代の武勲に敬意を表して」というメッセージカードを添えて。これもまた、平和維持のための必要な「政治的コスト」というわけだ。現代の南山社会を生き抜くには、慶喜公よりも少しばかり愛嬌と腹芸が必要らしい。


(編集部注:先生、そのウィスキー代は経費では落ちません!)





最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。


*本編未読の方も、この『架空歴史講義』だけでお楽しみいただけますが、下記の講義録の第一弾をお読みいただくと、より講義の解像度が高まるかと存じます。

_______________


講義録「徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析」

https://ncode.syosetu.com/n5547lt/


本編「南山共和国建国史」

https://ncode.syosetu.com/s0124k/

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