序章 「敗走」ではなく「転勤」である - 国家移転プロジェクトの再定義
1. 歴史のセンチメンタリズムに対する宣戦布告
歴史を物語として消費するとき、人々は好んで「悲劇」を求める。
滅びゆく王朝、散りゆく英雄、そして故郷を追われる民。
それらは涙を誘い、カタルシスをもたらす甘美な果実である。我が国の建国神話とも言える1868-1869年の「南山大脱出」もまた、長きにわたり、そのようなロマンティシズムの霧に包まれてきた。
「薩長の魔手から逃れるため、涙ながらに先祖の墓を捨てた義士たち」
「荒波を越え、新天地に理想郷を求めた現代の出エジプト記」
実に美しい。美しすぎて、欠伸が出る。本論文において私が試みるのは、この感傷的な神話を解体し、その下にある冷徹な骨格、すなわち「兵站」と「貸借対照表」を露わにすることである。
結論から言おう。1869年のあれは、「敗走」でも「亡命」でもない。あれは、日本という国家株式会社が、老朽化した「本州工場」に見切りをつけ、より将来性のある「南山工場」へと本社機能を移転させた、極めて合理的かつ大規模な「事業所移転」であった。
80万人。当時の日本総人口の約2.5%に相当するこの数字が、わずか1年半の間に海を渡ったという事実。これを「敗残兵の逃避」と定義するのは、物理学的にも経済学的にもナンセンスである。敗残兵は、旋盤を運ばない。敗残兵は、蒸気機関の設計図を防水紙に包んで整理したりしない。そして何より、敗残兵は、移動先での都市計画図を片手に船に乗り込んだりはしない。彼らは「逃げた」のではない。「引っ越した」のだ。それも、家財道具だけでなく、文明という名のインフラを丸ごと背負って。
2. 遠心分離機としての「戊辰戦争」
そもそも、なぜこのような事態に至ったのか。教科書的な理解では、1867年から69年にかけての戊辰戦争は、「佐幕か倒幕か」という政治的主導権争いとされる。しかし、形而史学の観点から見れば、あの内戦は政治闘争ではない。あれは、嘉永産業革命以降、日本列島内部で進行していた「二つの異なる文明」の乖離が、物理的な限界点を超えて弾けた瞬間であった。
東国(幕府・関東、北陸、東北諸藩)は、南山からの資源供給と重工業を基盤とする「海洋・産業資本主義」の道を歩んでいた。彼らの視線は常に太平洋の彼方、市場と資源へと向けられており、天皇という権威は精神的な支柱ではあっても、統治の実務者としては不要であった。彼らが目指したのは、緩やかな連邦制による経済的繁栄の最大化である。
対する西国(薩長土肥)は、アジア貿易の停滞と資源不足に喘ぎながら、強力な軍事力と「土地」への執着を持つ「大陸的・農業中央集権主義」の道を模索していた。彼らにとって、東国の繁栄は「国富の偏在」であり、これを是正するためには、天皇親政という強力な遠心力を用いて、国家を一元管理するしかなかった。
「連邦」か「集権」か。「経済合理性」か「民族的情念」か。この二つのOSは、もはや一つのハードウェア(日本列島)の中で共存不可能となっていた。したがって、戊辰戦争の本質は「どちらが正統な日本か」を決める戦いではない。あれは、互いに相容れないパートナーが、共有財産(国家資産)を巡って争った、血みどろの「離婚調停」だったのである。
3. 「国家」とは土地にあらず、システムなり
東国の指導者たち 、徳川慶喜、松平容保、小栗忠順、勝海舟ら が天才的だったのは、この調停が決裂(開戦)した際、瞬時に「損切り」の決断を下した点にある。 通常、国家間の戦争において敗北とは、領土の喪失を意味する。しかし、彼らはコペルニクス的転回を行った。
「土地などくれてやれ。我々は国の中身を持っていく」
彼らが定義した「国家」とは、痩せた土地や古い城郭のことではない。それは、高度に訓練された技術者であり、蓄積された資本であり、運用される法制度であり、そして何より「進取の気性」という無形の文化であった。
これらさえあれば、場所はどこでも構わない。いや、むしろ旧弊なしがらみや既得権益が張り巡らされた日本列島よりも、南山というタブラ・ラサ(白紙)の上で展開する方が、国家運営のコストパフォーマンスは高いとさえ計算した節がある。
1868年の春、横浜や新潟の港で繰り広げられた光景を想像してほしい。横須賀製鉄所の巨大なスチームハンマーが分解され、英国船籍の貨物船に積み込まれる。神田の活版印刷所の活字ケースが、何千という単位で梱包される。大学校(旧・開成所)の教授たちが、貴重な蔵書をバケツリレーで運ぶ。これらは「略奪」ではない。自分たちの財産を、自分たちの新居へ運ぶ「輸送」である。西国軍が江戸に入城した時、彼らが手にしたのは、もぬけの殻となった城と、技術的・資本的空洞であった。美味しい果肉はすべて絞り取られ、南行きの船に乗っていたのだ。
4. 国際政治の力学と「承認された移転」
そして忘れてはならないのが、この壮大な引越しを「手伝った」業者たち、すなわち欧米列強の存在である。大英帝国、フランス第二帝国、アメリカ合衆国。彼らはなぜ、内戦の一方に加担し、その逃亡(移転)を助けたのか。人道支援? 笑わせないでいただきたい。彼らは投資家として、当然の「債権保全」を行ったに過ぎない。
英国にとって、東国の産業力と海軍力は、南半球(豪州周辺)の安全保障における重要なパートナー(兼・下請け)であった。フランスにとって、徳川幕府に貸し付けた巨額の投資を回収するためには、彼らに生き延びて働いてもらわねば困る。米国にとって、太平洋航路の石炭補給基地の管理者が、近代的な商法を解さない攘夷論者(と彼らは西国を誤解していたが)に代わることは悪夢であった。
ゆえに、列強は「南山大脱出」を全力で支援した。彼らの艦隊が大阪湾で新政府軍を恫喝し、彼らの商船が移民を運び、彼らの銀行が南山建国の初期資金を融通した。これは、19世紀のグレート・ゲームという盤上で、列強諸国が「徳川という駒を、盤面(日本)から取り除くのではなく、別のマス目(南山)に移動させる」ことで合意した、極めて高度な政治的決着であったと言える。
5. 本論文の射程
本論文では、以上の視座に基づき、1869年の大脱出から世紀末に至るまでの軌跡を追う。第一部では、崩壊しつつある徳川連邦の内部で、いかにして「移転計画」が練り上げられたか、その思想的・政治的背景を分析する。第二部では、戊辰戦争という「遅滞戦闘」の軍事的実相と、その裏で進行した兵站の奇跡―80万人の移動と都市建設―を、当時の一次資料(船荷証券や移民名簿)から復元する。第三部では、建国された「南山共和国」が、いかにして国際社会にその正統性を認めさせ、明治日本という「もう一つの日本」と対峙し、やがて共存していくに至ったか、その外交と経済のダイナミズムを描き出す。
我々の父祖は、選ばれた民ではない。 彼らは、たまたま「南山」という名の非常口の鍵を持っていた、幸運で、したたかで、そして生きることに対してどこまでも貪欲なリアリストたちであった。
歴史とは、勝者が描く物語ではない。それは、生存者が死者の山の上で踊るダンスのステップであり、そして時として、住み慣れた家を焼き捨ててでも、新しい地平線を目指す者たちの、重たい靴音が刻むリズムである。
それでは、ページをめくりたまえ。 そこには、かつて「日本」と呼ばれた国の、最も騒々しく、最も痛快な「引越し」の記録が記されている。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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*本編未読の方も、この『架空歴史講義』だけでお楽しみいただけますが、下記の講義録の第一弾をお読みいただくと、より講義の解像度が高まるかと存じます。
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講義録「徳川海洋圏の地政学と「南山」の政治経済史 棄民から生まれた「双頭の帝国」の構造分析」
https://ncode.syosetu.com/n5547lt/
本編「南山共和国建国史」
https://ncode.syosetu.com/s0124k/




